研究ノート

人間的な、あまりに人間的な「編集」の物語 「アフター・ヤン」および「コロンバス」をめぐって

高橋幸治

コゴナダという映画作家

2023年末に遅ればせながら「パチンコ Pachinko」全8話を一気に視聴した。同作は2022年3月25日から「Apple TV+」にて配信が開始された、ミン・ジン・リーの同名小説を原作としたドラマシリーズで、100億円超という巨額の制作費、物語の壮大なスケール、さらには、劇場公開用の映画にもまったく劣らない圧倒的な映像美でたちまち世界中の話題を呼んだ。日本植民地時代の朝鮮で生を受けた主人公のソンジャを中心に、その父母、ソンジャと共に日本に渡り在日コリアンとなった息子、さらには孫のソロモンへと至る4世代の家族のストーリーが、釜山、ソウル、大阪、横浜、東京、ニューヨークなどを舞台に時空を超えて繰り広げられる展開は圧巻である。第28回クリティクス・チョイス・アワードのテレビ部門・最優秀外国語シリーズ作品賞などを受賞した本作は、すでにシーズン2の撮影も進行しているとのことで、早ければ2024年中の配信スタートもあり得るかもしれない。

「Apple TV+」で配信されたオリジナルドラマ「パチンコ Pachinko」の予告編(2022)

筆者が「パチンコ Pachinko」を視聴したのはその評判もさることながら、同作の監督*1であるコゴナダ(Kogonada)がここ数年ずっと気になっていたからである。コゴナダはアメリカで活動する韓国生まれの映像作家であり、その名は小津安二郎作品のシナリオのほとんどを手掛けた脚本家・野田高梧に由来する。同じ映画監督でありながら敬愛する小津のほうではなく相棒であったシナリオライターの名前をもじっている点からして、コゴナダのシネフィルぶりがうかがい知れるが、彼自身が脚本にはタッチしていない「パチンコ Pachinko」とは異なり、劇場公開された長編映画作品2本「コロンバス」(2017年)と「アフター・ヤン」(2021年)ではコゴナダが単独で脚本も手掛けている。

*1 「パチンコ Pachinko」はコゴナダとジャスティン・チョンとの共同監督ということになっているが、オープニングタイトルを見る限り、第一話から第三話、最終話をコゴナダが、第四話から第七話をジャスティン・チョンがメインのディレクターとして演出を担当しているようである。

「パチンコ Pachinko」のオープニング映像。「EXECUTIVE PRODUCER」としてコゴナダとジャスティン・チョンの名前がクレジットされている。この回の監督はジャスティン・チョン。

コゴナダの作品を映像の観点から語ろうとするとき、彼が影響を受けた監督たちを主題にした数々のビデオエッセイ*2が何よりも参考になるだろうし、そこからコゴナダの作風や手法、美意識の源泉となる諸要素を抽出することは容易だろう。静謐な世界を彩る光と影の絶妙なコントラスト、感情を抑え込んだような役者たちの表情とセリフ回し、風景と人物が絵画のごとく完璧に付置されたカメラアングル。そうしたコゴナダの映像的なセンスは「コロンバス」にも「アフター・ヤン」にも遺憾なく発揮されているが、むしろ注目すべきなのは、建築とAIロボットというまったく異なる題材を扱っている両作に通底する、登場人物たちの人間的な、あまりに人間的な「情報の過剰な編集」と「意味の過剰な生成」という営為である。これは脚本家・コゴナダがシナリオ執筆の段階ですでに企図した共通のテーマと考えてよいのではないか。

*2 コゴナダの公式Webサイト(https://kogonada.com)の「Archive」で閲覧することができる。

「編集」と「意味」の物語「アフター・ヤン」

本稿では制作・公開の順番は逆になるものの、昨今のAIにまつわる空言や短絡に関連づけつつ、「アフター・ヤン」を先に、そして主に読み解いていく。もはや夢想の段階ではなくなったAIと人間が対峙するとき、はからずも浮上してしまう何とも奇妙な問題について触れるつもりである。同作の時代設定はSFの雰囲気をまったくと言っていいほど排除した、表面上は現代の私たちの日常と何ら変わったところのない近未来である。しかし、コリン・ファレル扮する父親ジェイクと妻のカイラ、中国生まれの養女のミカが暮らす家庭には、「テクノ」と呼ばれるAIロボットのヤンが共に生活をしている。ロボットとはいっても、ヤンは外見上、機械的な機構が露出したりなどしていないごく普通の人間である。彼は中国の歴史、伝統、文化をことごとく知悉したロボットで、両親は娘のアイデンティティー形成の過程で彼女の出自を忘却させたくないという願いのもと、中古のヤンをミカの養育係兼友人として購入した。

そのヤンが、ある日、突然、故障してしまう。しかし、新品ではないため製造したメーカーには持ち込めず、さらに、購入した店舗はすでになくなっており、ジェイクは仕方なく闇の修理屋に彼を持ち込む。その過程でどうやらヤンを再起動させることはもはや不可能であること、そして、彼の内部に1日あたり数秒間の映像を記録したメモリーが搭載されていたことが発覚する。その映像を取り出すに至るプロセスについては端折るが、紆余曲折の末、ついに、ジェイクは深夜の自宅のリビングで、サングラスのようなデバイス越しにヤンの「記憶」の「断片」にアクセスすることに成功する。

コゴナダの劇場用長編第2作「アフター・ヤン」の予告編(2021)

「アフター・ヤン」というAIロボットをテーマにした映画の真の魅力は、まさにこのシーンにあると言っていいだろう。劇中では詳しく触れられていないものの、ヤンの「記憶」の「断片」は彼が製造されてから日々蓄積され続けたものだから、おそらく膨大な数に上るはずである。ジェイクは茫漠たるVR空間に点在するその映像群を恣意的に選択し、それらをランダムに再生する。やがて、彼はベッドから起き出した娘のミカに声を掛けられ、はっと我に返るのだが、不覚にも彼女に泣いていることを指摘されてしまう。つまり、ジェイクはヤンの「記憶」の「断片」を任意につなぎ合わせることによって、在りし日のヤンを偲びつつ、彼がいかに自分たち家族を温かいまなざしで見守ってくれていたかという「自分で作った物語」に感動していたのである。

繰り返しになるが、ジェイクが観ていたのはたまたま記録されていた映像のでたらめな連続にすぎない。それらを涙を催す美しい物語に仕立て上げたのは、ジェイクの人間的な、あまりに人間的な情報の編集力であり、意味の生成力、もっと言ってしまえば虚構の構築力である。筆者も含めた観客はここでついついAIロボットたるヤンの中に仄見える人間的な、感情のような、愛情のような、心の機微のようなものに胸を打たれてしまうのだが、冷静に考えると、コゴナダが描き出そうとしたのは、むしろ私たち人間の側の「情報の過剰な編集」による「意味の過剰な生成」だったのではないか。

後日、ヤンの「記憶」の「断片」にアクセスした妻のカイラも、ジェイクとまったく同じ振る舞いを反復する。ヤンが大切にしていた蝶の標本が映し出された映像を(たまたま)観た直後、カイラは過日、その標本をきっかけに彼と「死」について取り交わした会話を思い出す。突然命を絶たれすべてが無に帰してしまうことは恐怖だと告白するカイラに対して、ヤンはまったく「死」を恐れないという。すべてが終わって何もなくなってしまってもよいのではないかと述べる。いまや起動しなくなってしまった(つまり、人間における死を迎えた)ヤンに思いを馳せつつ、彼女はこのエピソードを想起し、ヤンの言葉をある種の予兆めいたものとして感じ取るのだが、ここでもカイラの脳内では情報の編集による意味の生成が発動していると考えてよい。

そもそも、ヤンは「死」に伴う悲しみや痛みといった感傷的かつ情緒的な心の様態を理解していない。コゴナダの脚本および演出の巧妙さはこうしたシーンで人間たちとヤンとのコミュニケーションをまったく齟齬のない、心のかよった抒情的なものとして描きながらも、実はAIロボットであるヤンを鏡として、人間の人間たる所以を逆照射してしまうところにあるだろう。こうした視点で「アフター・ヤン」を鑑賞すると、ジャスティン・H・ミンの演じるヤンの表情には、本来は何も意味がないにも関わらず、いかようにも解釈可能な揺れや幅、余白があり、人間が発揮せずにはおられない解釈への欲望を刺激するシーンが随所に散見される。そして、ジェイクもカイラもAIロボット゠ヤンを媒介にしてさまざまな虚構のストーリーを創出してしまう。

人間とAI──不完全と完全の逆理

コゴナダは「Kubrick: One-Point Perspective」(2012年)と題するスタンリー・キューブリックの作品群をコラージュしたビデオエッセイを制作しているが、その中にはもちろん「2001年宇宙の旅」(1968年)の映像もふんだんに織り込まれている。AIとはいかなるものかを考えるとき、ディスカバリー号に搭載された超高性能な人工知能「HAL9000」にまつわる乗組員の見解は、私たちに多大なる示唆を与えてくれる。木星探査に向かう途上、デヴィッド・ボウマン指揮官とフランク・プール副官はBBCのキャスターからインタビューを受けるのだが、「彼(=HAL9000、筆者註)と話していると感情があるように思えますね(中略)ハルには本物の感情がありますか?」という質問に対して、ボウマンは以下のように返答する。「あるかのようには反応します(中略)しかし実際にあるかどうか──誰にも真実は分かりません」*3と。

*3 「Amazonプライム・ビデオ」で視聴可能なバージョンの字幕より引用(最終視聴:2024年1月10日)。©️1968 Turner Entertainment Co. ©️2001 Turner Entertainment Co. and Warner Entertainment Inc. All rights reserved.

この「あるかのように」感じ取れる(もしくは、感じ取ってしまう)という点が極めて重要であり、コゴナダが「アフター・ヤン」にさりげなく忍び込ませたのは、「不完全な人間を補完するはずのAIの不完全性を、実は、人間の不完全性が補完してしまう」という逆理にほかならない。哲学者であるジョン・サールによる有名な思考実験「中国語の部屋」*4は、まさにこの「思考しているかのように見える」「理解しているかのように見える」コンピューターという機械、およびその究極的な進化形としてのAI、さらに本稿の文脈に沿わせるならば、AIロボットにすぎないヤンの本質を鋭く指摘しているものと言えるだろう。

*4 中国語のわかる人間が中国語による質問を閉ざされた部屋の中に「入力」すると、部屋の中の中国語を解さない人間がマニュアルを参照して質問にふさわしい解答を「出力」する。質問と解答のあいだには整合性があるため、中国語のわかる人間からすると部屋の中の人間は中国語を理解しているように思えるが、実は、あらかじめ用意された選択肢を正確に選び出しアウトプットしたにすぎない。

建築が誘発する解釈への衝動「コロンバス」

コゴナダの劇場用長編デビュー作となる「コロンバス」においても、上述した「情報の過剰な編集」と「意味の過剰な生成」はやはり重要なテーマとして伏在している。同作はアメリカン・モダニズムを代表する建築物が建ち並ぶインディアナ州の都市コロンバスを舞台としており、建築家に憧れつつ地元の図書館で働く若い女性ケイシーと、著名な建築家である老父が講演先のコロンバスで倒れたことにより韓国から呼び寄せられた息子ジンが出会うところから物語が始まる。ケイシーは建築の勉強をするために街を出て進学したいと望みながらも、麻薬依存の母の世話をするためにコロンバスを離れることができない。ジンは父との長年にわたる確執を抱えており、その影響で建築というもの自体に言いようのない懐疑と嫌悪を抱いている。

ジンと知り合ったケイシーは当然のことながら、初めてコロンバスを訪れた彼に街の有名な建築をガイドのように紹介して回るのだが、ジンはそんな彼女の言葉を適当に聞き流し、遮り、ときには明確に拒絶する。つまり、黙して語らぬ建造物を前にケイシーがもっともらしく解説するような崇高な意味など本当はないし、建築家であった父がそんなことまで考えていたとはとても思えないと。人間は建築に観念的な意味や象徴的な意味を付与し過ぎている、もしくは、そこから意味を抽出し過ぎていると言うのである。

コゴナダの劇場用長編第1作「コロンバス」の予告編(2017)

AIの時代の到来=人間の時代の再来

多分に屈折した心理を伴う皮肉ではあるものの、ジンが指摘しているのは、やがて「アフター・ヤン」に継承される「情報の過剰な編集」と「意味の過剰な生成」の問題である。建築は静的かつ不動のもの言わぬ存在だから、多様な解釈に向けて開かれているとはいえ、引き出し得る意味についてはある程度の限界があるだろう。しかし、文章レベルにせよ音声レベルにせよ人間との対話のようなものが見かけ上は成立する動的な存在としてのAIには、人間の解釈が間断なく差し挟まれる。意味のないものに意味を見出すこと自体は決して愚かなことではない。なぜなら、人間はそうした数々の虚構を構築することによって社会を形成し、経済を生み出し、文明を発達させてきたのだから。

しかし、生成系AIをはじめとする人工知能が急速に社会に実装され、もはや呑気なファンタジーではなくなったいまこそ、AIを考えることが即ち人間を考えることになってしまうというパラドックスを私たちは自覚すべきだろう。データ群を生成しているのは高性能なAIだとしても、それらを「編集」によって「情報」のレベルにまで引き上げ、やがて何らかの「意味」を生成するのはほかならぬ人間なのである。コゴナダは「コロンバス」で扱った主題を「アフター・ヤン」という極めて現在的な作品に再適用することによって、私たちにAIの時代の到来が人間の時代の再来でもあることをさりげなく示唆してくれている。

西垣通は『AI原論』(講談社選書メチエ)の中でアメリカの哲学者であるヒューバード・ドレイファスや上述したジョン・サールの見解を紹介しつつ「人間と違って、世界の中に投げ込まれている存在(世界―内―存在)ではないAIには、世界の意味を理解することなどできないというのである(ヒューバード・ドレイファスの主張、筆者註)。また、サールは現象学における志向性(intentionality)に着目し、志向性をもたない機械には心がないと主張した」*5と述べながらも、「AIロボットは、原理的には単なる他律システムかもしれないが、その影響のもとで人間社会がいかに変容していくかを洞察しなくてはならない」*6と指摘している。

*5 西垣通『AI原論』講談社選書メチエ、2018、22頁
*6 西垣通『AI原論』講談社選書メチエ、2018、39頁

私たちはAIに対する極端な悲観論と極端な楽観論からひとまず距離を置くべきではないか。今後、私たちはAIやロボットに対してさまざまな意味を付与し、さまざまな虚構を紡ぎ出していくだろう。その際たるものが「シンギュラリティ」と呼ばれる大胆な仮説なのかもしれない。しかし、かつてのメインフレームと呼ばれた大型コンピューターがパーソナルコンピューターへと進化を遂げた背景に「AI(artificial intelligence)から(intelligence amplifire)へ」というコンセプト、つまりコンピューターを人間の知能の増幅装置として捉え直すパラダイムシフトがあったように、現在、人間に取って変わるなどとまことしやかに騒がれているAIを、いずれどこかでもう一度へと再転換させなければならないだろう。そのためには、人間はAIという鏡に映った自分の顔をしげしげと眺めて見る必要がある。

広報委員長:増田展大
広報委員:居村匠、岡本佳子、菊間晴子、角尾宣信、福田安佐子、堀切克洋、二宮望
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2024年2月11日 発行