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シンポジウム 萌えいずる声──百瀬文《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》上映+シンポジウム

報告:門林岳史

日時:2020年2月9日(日) 12:00〜17:00
場所:京都国立近代美術館
登壇者:岡田温司、木下知威、黒嵜想、百瀬文
司会:本橋仁(京都国立近代美術館)
主催:京都大学大学院人間・環境学研究科 岡田温司研究室
共催:感覚をひらく──新たな美術鑑賞プログラム創造推進事業実行委員会、京都国立近代美術館

2020年2月9日、作品上映+シンポジウム企画「萌えいずる声」が開催された。本イベントは、最初に百瀬文による映像作品《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》(26分、2013年)を上映したあと、作家本人による作品制作の背景などの説明があり、その後、休憩をはさんで黒嵜想、岡田温司、木下知威の3名による発表と会場からの質問を交えた討議が行われる、という進行で進められた。

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撮影:守屋友樹

本イベントを報告するにあたっては、まず百瀬文《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》そのものについて概要を紹介する必要があるだろう。本作品は、作家本人が木下知威氏に行ったインタビューを収録した、という体裁の映像作品である。木下は耳が聞こえず、百瀬は手話を使えないため、インタビューは読唇と口話によって行われる。すなわち、木下は百瀬の発言を、百瀬の口唇の動きによって読みとり、そして、自分の耳には聞こえない声を発することによって応答する。作品の鑑賞者は(耳が聞こえる場合)2人の発言を音声として聞き取ることができるが、補助的な情報提示として発言を書きおこした字幕も添えられている。木下の口話は明瞭で、聞きとることに大きな困難はないが、字幕の助けを借りる方が理解しやすい局面もときどきある。また、字幕はもちろん、耳の聞こえない鑑賞者に対する配慮としても有益である(ただし、この字幕の機能は作品後半で覆されることになる)。

インタビューで交わされる言葉は、少なくとも初めのうちは、啓蒙的で教育的な内容である。すなわち、耳の聞こえない木下が日常どのような経験をしているのか、耳の聞こえる百瀬に対して説明する。そのなかにはいわゆる「健常者」には想像がおよびにくい内容も含まれており、実際、この作品はそのようにして一次的に聞きとられる(あるいは読みとられる)内容においても啓発的である。そこでは木下は教える立場であり、百瀬は教わる立場である。すなわち、「健常者」(感覚チャンネルを多く持つ存在)と「聴覚障害者」(感覚チャンネルが少ない存在)のあいだに想定されがちな非対称性が、このインタビューの場においては逆転し、木下の側が〈知〉をもつ存在として振るまうことになる。そして、教える立場と教わる立場という関係の非対称性に、年長者と年少者、男性と女性という関係の非対称性が暗黙のうちに重ねあわせられていることを鑑賞者はそれとなく感じとるだろう。

だが、作品の中盤から後半にかけて、この関係性が徐々に変調していく。百瀬は、あくまで教わる立場の受動性に身を置きつづけながら、木下が知ることのできない(聞きとることのできない)振るまいを提示しはじめる。作品内に張りめぐらされた関係の非対称性が徐々に揺らぎはじめ、それとともに鑑賞者は、自分もまたその関係性の揺らぎに加担していることに気づきはじめるだろう。さらに言うならば、むしろ鑑賞者は、作品を見はじめた当初から、木下と百瀬のあいだにある複層的な関係のネットワークのなかに、そうと知らないまま組み入れられていたのである。こういった一連のプロセスが作品内で具体的にどのように展開するのかは、ここでは書かないでおこう。いずれにせよ本作品は、映像と音声、そして字幕の文字情報という複数のチャンネルによって提示される映像作品のメディウム的条件を入念に操作する高次の関心に貫かれている。鑑賞者は当初、一次的なインタビュー内容を伝えることを目的とした啓発的な作品かと思って見はじめたら、より高次の戦略によってインタビュー状況そのものが組み変わっていく、そのような鑑賞経験にこの作品の肝がある。

さて、本イベントにおいては、作品上映後にまず百瀬によるトークが行われた。トークでは、大学院の修了制作として本作品が作られたこと、木下と出会った経緯、倫理的に繊細なテーマを作品化するにあたっての葛藤、その他、作品を作りながら考えていたことが披露された(本報告内で上に書いた《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》の紹介は、百瀬が語った内容を一部、自由な引用というかたちで参照している)。が、語られた内容に劣らず百瀬のトークを刺激的なものにしていたのは、その形式である。百瀬はトークのあいだ一切声を発せず、口パクによってトークを行い、話されているはずの内容は百瀬の背後のスクリーンに字幕として投影された。言わば聴衆は、作品内で百瀬の声を聞きとることができない木下の立場に置かれたのである。その意味で百瀬のトークは、《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》で作られた関係性を、会場の聴衆──という言葉は適切だろうか?──を巻き込んで拡張するもうひとつの作品であり、すぐれて批評的なレクチャー・パフォーマンスであった。

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撮影:守屋友樹

イベント後半のシンポジウムでは、黒嵜、岡田、木下が発表を行った。

まず、黒嵜想は「聴者のエラー」と題された発表において、《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》の作品内で生起していることを丁寧に読み解いたうえで、それをアニメーションにおける「口パク」の問題に接続した。黒嵜によれば、日本のテレビアニメは『鉄腕アトム』(1963–66年)以来、限られた枚数のセル画で作られる映像を声優の声でつなぎ止める「音声優位の映像製作法」を採用してきた。単純な事実として、アニメのキャラクターの口パクから、その発話内容を読唇で読みとることはできない。本来キャラクターの動きとは無関係な声優の声を、あたかもキャラクターの口から発せられているように聞きとる聴取のあり方は、根本的に「聴者のエラー」を自然化することによって成立している。黒嵜は、このように誤読によってはじめて成立するコミュニケーションの条件を開示するものとして、《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》を読み解いた。

次に岡田温司「「声」とは何か?」は、西洋哲学の系譜において「声」の問題がどのように扱われてきたかを、作品内のモティーフに引き寄せながら概観した。とりわけ岡田が注目したのは、作品内の会話に登場する「身体から剥がれていった声」という言葉である。岡田によれば、西洋哲学の伝統においては、「声(フォネー)」は「言葉(ロゴス)」に従属するものとして捉えられることが多い。それに対して、「身体から剥がれていった声」という言葉が喚起する視覚的かつ触覚的な声のイメージには、「ロゴス」に還元されない「フォネー」の様態が含まれている。そこで岡田は、そうした様態に呼応する言わばオルタナティヴな「声」の哲学的系譜として、アリストテレスにおける魂の様態としての声、ハイデガーにおける「声(die Stimme)」と「気分(die Stimmung)」の連関、アガンベンにおける意味内容にも物理的な音声にも還元できない大文字の「声(VOCE)」などを辿っていった。

最後に木下知威は「聾唖のサクリファイス」と題した発表で、作品に登場する「木下さん」はあくまで自分とは別の虚構の人格であるとしたうえで、作品内の「木下さん」の身体に起こっていることを分析的に提示した。とりわけ印象に残ったのは、作品の素朴な理解に反して、「木下さん」は作品内で「聞こえる身体」に仕立てられていた、という発言である。すなわち、読唇と口話によるコミュニケーションは、実際には作品内で提示されるような速度で円滑に行いえないし、「木下さん」は作品収録中、百瀬の言葉をほとんど読唇によって読みとれていなかった。したがって、作品内で「木下さん」は、「聞こえている」かのように振るまうことを実は強いられており、そこでは聾唖というアイデンティティが犠牲にされている、というのである。それに加えて、口話というややぎこちないコミュニケーション方法を、親密な相手に対してではなく、誰とも分からない潜在的な作品鑑賞者に向けて披露することは、逡巡なしにはなしえないだろう。木下の発表は、そのようにして犠牲を強いられた「木下さん」を代弁する、作家への愛のある逆襲であったように思われる。

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撮影:守屋友樹

3人の発表のあとには、木下の司会進行のもと、休憩時間中に回収した会場からの質問票を紹介しながら、活発な議論が交わされた。ここで、当日の討議をさらに刺激的なものにしていた要因として、行き届いた情報保障の体制があったことに言及しておきたい。当日は、大きく分けて手話通訳、前方のディスプレイにリアルタイムで入力される文字通訳、そして、目の見えない来場者に対する視覚情報のサポートの3つの系統で情報保障が実施されていたと記憶している。木下は手話で巧みに司会進行を務めたが、手話を理解しない者はそれを手話通訳者の翻訳に頼って聞きとるしかない。すなわち、この場ではいわゆる「健常者」も、そのほとんどが情報保障を必要としている。会場内では、様々な感覚チャンネルによるコミュニケーションが交わされ、そのすべてを網羅できる特権的な立場はほぼ存在しない。そのようにして関係の非対称性が重層的に織りなされる本イベント全体が、実は《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》のセッティングを拡張して展開したものだったのであり、来場者はそのようなパフォーマンスにみずから参加する幸運に恵まれたのである。

(門林岳史)

広報委員長:香川檀
広報委員:白井史人、原瑠璃彦、大池惣太郎、鯖江秀樹、原島大輔、福田安佐子
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2020年6月23日 発行