研究ノート

邂逅、場所、記憶 ──カリブ海芸術にかんするドミニック・ベルテ氏との対話

福島亮

ドミニック・ベルテ
福島 亮(聞き手、構成)

本稿では、カリブ海地域における創作活動についていくつかの問題系を紹介してみたい。初めてマルティニックを訪れたとき、この「小さな場所」を彩る芸術創作の活況が強く印象に残った。とりわけ、野外作品の数々は、風景の一部として記憶に刻み付けられた。例えば、シェルシェールの路傍を彩るグラフィティ、サン・ピエールへ向かう海岸沿いを飾る「ボワ・レレ」のトーテム、ディアマンの海に向かってうつむく15体の巨大彫像(《Cap 110》)。セゼール、ファノン、グリッサン、シャモワゾーといった文人を生み出したこの土地が現在数多の造形芸術家たちを生み出していることを知ったのは、このような彩られた風景が目に飛び込んできた瞬間だった。「風景」といったが、グリッサンの言葉を借りるならば、「激躍した(irrué) 風景」というべきかもしれない。跳ね上がり、蹴り上げ、塊として襲いかかってくるような風景の裡には、歓喜と苦悩、多弁と沈黙を抱えた野外作品の息遣いも潜んでいる。

カリブ海から発信される文学や思想が日本に紹介されるようになってもう四半世紀以上になる。シャモワゾーのゴンクール賞受賞などいくつかの偶然の重なりの中で、「クレオール」や「世界文学」という言葉がその際の旗印となった。カリブ海の音楽に目を向けてみれば、ワールド・ミュージックとして「ズーク」が日本に紹介されてすでに久しい。このような書かれたもの、奏でられたものと比べた時、カリブ海で描かれたものや彫られたものについて日本で言及されることがあまりに少ない、という漠たる印象を抱くのは筆者の無知によるものである。とはいえ、マルティニックを歩いていると、カリブ海のアーティストを紹介する施設の少なさ、いや、むしろその「新しさ」に驚くのもまた事実である。実際、マルティニックにおける美術の中心は2016年に新築されたクレマン美術館(Fondation Clément)である。もちろんそれまでにもギャラリー等での美術展はいくらでもあったし、今でも、フォール=ド=フランスにある文化施設「トロピック・アトリオム」やシェルシェール図書館では美術展が頻繁に開催されている。しかし、作品を収集するための十分な資金、研究資料の整理や保管システム、作品を保護するための空調管理設備を備えた施設がマルティニックで完備されるには、2016年を待たねばならなかった。ラム酒好きはお気づきだと思うが、マルティニック・ラムのブランドのひとつ「クレマン」を作っている「アビタシオン・クレマン」がこの美術館の基盤である。美術作品の収集、保存、流通、あるいは承認をめぐる経済的、歴史的、あるいは社会学的分析をする用意はないが、植民地化の歴史のなかで作られたごく少数の農園主を頂点とする資本構造がいまでも(あたりまえといえばあたりまえに、しかし逆説的といえば逆説的に)芸術の場に一定の影を投じていることは無意味な指摘でもないだろう。私はといえば、クレマン美術館という陰りと光の場において、いくつかの作品、何人かの芸術家に出会い、好奇心を養うことができた。そうはいっても、カリブ海の造形芸術の歴史や問題系についてとやかく述べるにはあまりに無知である。見かねてある人が救いの手を差し伸べてくれた。その人こそ、ドミニック・ベルテ氏だった。アンティル大学で美学を講じるカリブ海芸術研究の第一人者である。この研究ノートの目的はただ一つ、ベルテ氏との対話を通して、カリブ海の芸術について私が知ったことを書き写しておくことである。

蛇足ではあるが、一点だけ付け足しておこう。ベルテ氏の仕事についてである。だがその前に、ベルテ氏はカリブ海の生まれではない、ということは先入見を取り除くためにもあらかじめ断っておいたほうがよいだろう。以下の対話でも語られるが、ベルテ氏がマルティニックにやってきたのは1992年のことであり、大学教員としてこの地を訪れたのである。このことは一見すると些事のようだが、植民地化の過去を持つカリブ海では大きな意味を持っている。さて、ベルテ氏の仕事のうち特に重要と思われるのは研究グループ「美学・造形芸術研究センター」(Centre d'Etudes et de Recherches en Esthétique et Arts Plastiques, CEREAP)の組織と、このセンターの機関紙『美学探究』(Recherches en Esthétique)の編纂である。CEREAPは1993年にベルテ氏によって立ち上げられ、翌1994年に正式に活動を開始した。1995年には、機関紙『美学探求』が創刊され、年一冊のペースで刊行されるこの機関紙は、2020年に創刊25周年を迎えた。パリで行われた記念イベントでは『美学探求』の四半世紀に及ぶ活動が労われたが、今後も弛むことなく活動を続けていくとのことであった。この研究グループと機関紙のミッションの一つはカリブ海の芸術を紹介・研究すると同時に、芸術家たちのインタビューを通して作家の声をカリブ海の外へと届けることである。

前口上はもう十分だろう。以下の対談は、2019年1月24日、ポンピドゥーセンター傍の「カフェ・ボブール」にて行われた。対談を快諾してくださったのみならず、書きおこし原稿にまで丁寧に目を通してくださったベルテ氏に改めて感謝したい。

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── 先生の著作『マルティニックの現代芸術Pratiques artistiques contemporaines en Martinique』(2012年)と『芸術家との対談40篇40 entretiens d'artistes』(2016年)を興味深く拝読しました*1この二冊の本はマルティニックとグアドループの現代芸術のパノラマを与えてくれるような本だと思います。対話を始めるにあたって、こういった美学的な、歴史的な、そして哲学的な研究をなさったきっかけをお教えいただけませんか。

*1 Dominique Berthet, Pratiques artistiques contemporaines en Martinique : esthétique de la rencontre I, Paris, Éditions L'Harmattan, 2012. ; ──, 40 entretiens d'artistes : Martinique, Guadeloupe, esthétique de la rencontre II, Tome 1 et 2, Paris, Éditions L'Harmattan, 2016.

ドミニック・ベルテ氏(以下、D. B.):マルティニックに住み始めたのは1992年なのですが、すぐ幾人かのアーティストと知り合いになりました。そして、そのアーティストの数が、この島の人口に照らして随分多いということに気がついたのです。彼らの作品を知り、アトリエを訪れ、彼らと多くの議論を交わしました。彼らと彼らの作品のとりこになったのです。当時、それらの作品が本当におもしろいものであるにもかかわらず、カリブ海のアーティストがカリブ海の外では知られていない、という点も気になりました。そこで、『美学探求Recherches en Esthétique』を媒介にして、カリブ海のアーティストを可視化しようと思い立ったのです。『美学探求』の第1号は1995年6月に刊行されました。この雑誌は、現時点で四半世紀近く刊行され続けていますが、議論の場として、そして拡散の手段として重要な役割を持っています。25年間ずっと、芸術一般にかんする、そしてとりわけカリブ海地域の芸術にかんする論考をこの雑誌は掲載してきたのです。この雑誌にはアーティストと交わした言葉も掲載されています。私が研究を開始したきっかけは、マルティニックやグアドループのアーティストとのこういった出会いなのです。その後、これらの対談のうちのいくつかはお話くださった二冊の本にまとめました。アーティストのモノグラフィも出版しています。



── 『マルティニックの現代芸術』序文の冒頭で、ルネ・イブラン(René Hibran)が1943年に発表した文章を先生は引用していらっしゃいます。今日のマルティニック芸術史の萌芽は第二次世界大戦中に見出される、と先生はお考えなのでしょうか。もしそうだとしたら、なぜ第二次世界大戦中なのでしょうか。マルティニックの芸術運動に〔30年代にエメ・セゼールが提起した〕ネグリチュードの何らかの影響があったのでしょうか。

D. B. : ルネ・イブランは1941年にマルティニックにやってきたフランス人芸術家です。彼は1943年から1946年、ついで1952年から1954年にかけて、フォール=ド=フランスの芸術学校で陶芸とデッサンの教師をしていました。彼は後に芸術家となる多くの若者の教育に従事したのです。1943年、雑誌『トロピック』の6-7合併号の中で、イブランはマルティニックの芸術は模造芸術、ヨーロッパの範例を繰り返している芸術だと論じています*2。エメ・セゼールの妻であるシュザンヌ・ルゥシーも『トロピック』の中で、詩にかんして同様のことを述べています。このように、ヨーロッパの範例の模造という観点から見ると、マルティニックの詩と絵画の間には類似関係があったのです。そこで、正真正銘のマルティニックの芸術を発明しなければならない、とイブランはいうわけです。

*2 René Hibran, « Le problème de l'art à la Martinique : une opinion », in Tropiques, no 6-7, Fort-de-France, février 1943, p. 39-41.

『トロピック』という雑誌が1941年4月に三人の主だった人物によって創刊された雑誌だということも明確にしておく必要があります。三人とは、エメ・セゼール、シュザンヌ・セゼール、ルネ・メニルであり、彼らは三人ともフォール=ド=フランスにあるシェルシェール高等中学校の教師でした。第二次世界大戦中でしたので、彼らが置かれていた文脈は非常に入り組んだものでした。マルティニックはペタン元帥派のロベール提督に統治されていたのです。

『トロピック』創刊号が刊行された数日後、シュルレアリスムの創始者であるアンドレ・ブルトンが、合衆国への亡命途中、マルティニックに寄り、奇遇ではありますが、とある小間物屋で『トロピック』創刊号を発見しました。このエピソードについては、とくに『アンドレ・ブルトン、邂逅を讃えてAndré Breton, l'éloge de la rencontre』という本の中で論じたことがあります*3。創刊号の最初の頁を読んだブルトンは、そこに書かれていることにすっかり魅了されます。その最初の頁とは、エメ・セゼールのテクストで、レジスタンスと反抗への心からの呼びかけが、詩の言葉によってなされていたのです。かくして、1943年に検閲に引っかかるまでこの雑誌は刊行され続けました。ロベール提督失脚後『トロピック』は1945年まで刊行されます。この雑誌は文化的抵抗の道具であり、そのための空間だったのです。第2号以降、シュルレアリスムやアンドレ・ブルトンにかんする記事、それにマルティニックの植生や動物にかんする記事が多く掲載されます。『トロピック』は実に多岐にわたる分野を扱う雑誌であり、マルティニックの置かれた文脈を題材とするものだったのです。

*3 Dominique Berthet, André Breton, l'éloge de la rencontre : Antilles, Amériques, Océanie, Bordeaux, Éditions Hervé Chopin, 2008.

ネグリチュードという概念は三人の人物によって練り上げられました。エメ・セゼール(マルティニック)、レオポール・セダール・サンゴール(セネガル)、レオン・ゴントラン・ダマス(ギュイヤンヌ)です。それは第二次世界大戦の直前、三人ともパリにいた頃のことです。はじめ、この概念がもたらした反響は慎ましやかなものでした。しかし、ネグリチュードが放つ光は徐々に大きくなっていきます。いただいたご質問に答えるなら、雑誌『トロピック』がマルティニックの詩と造形芸術について考えるための基礎を提供したのです。そうはいっても、マルティニック出身の画家たちが「アトリエ45(Atelier 45)」というグループを立ち上げるのには1945年を待たねばなりません。これらの画家たちは具象画の技法を駆使してマルティニックの日常生活や自然を描きました。ですので、形式の観点から見るなら、根本的には彼らは革新的だったとはいえません。それでも、文脈に自らを位置付け、その文脈を表象したという点においては、新しかったのです。こんなふうにして、彼らはルネ・イブランの言葉に応答するのです。彼らは、海辺の漁民、農夫、野菜売り、魚、動物、植物といった、あらゆるマルティニックの風景を描きました。「アトリエ45」は、マルティニック芸術を創出しようという意志の始まりを徴づけています。まあ、形式は伝統的なものに変わりありませんでしたが。

この時代の造形芸術を芸術的な斬新さによっておそらく最も強く徴づけているのは、コーコー・ルネ=コライユ(Khokho René-Corail, 1932-1998)です。彼は芸術運動や画家のグループには一切所属しませんでした*4。彼もまた、具象的表現をしましたが、しかし、表象に際して要求される諸々の規則には距離をとっています。コーコーは現実の空間の中で見つけた様々な物を取り入れて創作します。つまり砂とか、植物の繊維とか、そういう自然の一部ですね。それはマルティニックにおいては非常に新しいやり方でした。彼はまた、セメントや工業用の塗料も用いました。もっと独創的な手法としては、絵に火をつけて、微妙な色合い、ちょっと焦げたような色合いを出したりもしました。つまり、彼は新しい技術を導入したのです。1980年代以降になると、フランス本国で芸術の勉強をしたマルティニックのアーティストたちは、世界の創作現場で起こっていることを無視するわけにはいかず、様々な新しい造形のあり方に身を投じています。

*4 ルネ=コライユは芸術家としては孤高のひとであったが、1962年に結成された「マルティニック反植民地主義青年同盟(OJAM)」のメンバーでもあった。



── 先生の本やお書きになったものを拝読しておりますと、少なくとも二つの概念が頻繁に繰り返し用いられるように思われます。「場所lieu」と「邂逅rencontre」という概念です。これらの概念についてご説明いただけますか。この二つの概念がアンティル諸島の造形芸術における軸なのでしょうか。

D. B. : たしかに私は随分前からこの二つの概念に取り組んでいます。この二つの概念はマルティニックやアンティル諸島だけに関係するものではありません。邂逅という概念は銘々の生の様々な側面に照らして考えることができるものですし、同時に、この概念は歴史、文化、民族に結びついた概念でもあります。邂逅にはポジティヴなものもあればネガティヴなものもあり、深刻なものもあれば感動的なものもあり、恐ろしいものもあればためになるものもあり、カタストロフィーをもたらすものもあればファンタジーへ誘ってくれるものもあります。この概念は、個人的なものでもあり、同じく諸文化や諸民族に関係するものでもあるのです。そして邂逅はしばしば衝撃を伴います。それは世界のいくつかの地域においてそうであったように破壊的なものでもありえます。例えばカリブ海地域では最初のヨーロッパ人がやってきた時がそうですね。この邂逅から、そこにもともといた人々へのジェノサイドが発生するのです。ヨーロッパ人とアフリカ人とを関係付けるものも、奴隷制や三角貿易のことを考えるなら、同じように、恐ろしい邂逅となるでしょう。つまり、この種の邂逅は絶対的な悲劇の起源となりうるわけです。しかしながら、邂逅は驚異をもたらすものともなりえます。それは人との出会いや場所との出会い、作品との出会いのうちに見てとることができます。

邂逅という概念は、個人の次元において、あるいは集団的な次元において、震え上がるような、予見不可能で、あるいは人を魅惑し熱狂させるものを生み出したものは何なのか、さらにはその結果として導かれたものは何なのか、という問いに想いをめぐらせることを可能にしてくれるのです。実際、悲劇的なできごとから新たなものが産声を上げることは珍しくありません。この考え方は、様々な作家、たとえばカルロス・フエンテスやエドゥアール・グリッサンの作品のうちに見てとることができます。

グリッサンは邂逅という言葉ではなく、関係という言葉を用いており、それは邂逅とは異なるものです。カルロス・フエンテスはスペイン人がメキシコにやってきた時、その結果として衝突や疫病の蔓延が発生し、それによってもともと住んでいた人々の大部分が消滅したと述べています。フエンテスがいうアステカの人々は、百万人程度しか生き残らなかったのです。フエンテスはさらに考えを推し進め、この悲劇が新たな人々、つまり今のメキシコ人の起源なのだ、といいます。彼によるなら、まさしく血の中から新たな民は生まれたのです。グリッサンは奴隷制の中から生まれたカリブ海地域の人々についてこれに近い考えを展開しています。

この邂逅という考えは私が行ってきた考察の要をなすものです。それによって、いかにして世界は構築され展開しているのか理解することができると思うのです。

私にとって大切なもう一つ別の概念が場所(lieu)の概念です。旅をする中で、私は場所が持つ「力」とでもいいうるものを目にすることがありました。場所がいくつかの物事を決定していると気がついたのです。例えば、日本、ドゴン族の土地(マリ)、ニューヨーク、アマゾンの密林、あるいはカナダ、という具合に、どこに身を置くかに応じて、私たち、そして私たちと他者や世界とのかかわりは何らかの影響を場所から受けるものです。文化、気候、環境が行動や、動き、観念、特定の関係性の諸々の様態を決めているのです。同様に、感受性の問題を考えみることができます。同じ場所がある人にとっては苦難として、またある人にとっては反対に悦びとして経験されることがあります。こう言われると驚くかもしれませんが、でも実際、なぜその場所にいるのか、なぜその場所で生きているのかにすべてはかかっているのです。場所への関係はそれゆえ、個人的なものであり、かつ主観的なものです。

くわえて、場所は芸術創造のある種の側面を決定するものでもあります。これはカリブ海地域のケースです。島嶼地域の文脈の中で生きているために、作品をできるだけコストをかけずに移動することができるような何らかの手はずを編み出す必要が生じたりするのです。カリブ海地域特有の文脈が芸術創造全般に影響を与えることもあります。少なくとも、記憶や歴史、アイデンティティを問い直す試みに影響を与えているのです。

以上のように、私にとって邂逅と場所という概念は哲学的な観点からも、美学的な観点からも重要な概念です。というのも、この二つの概念は芸術創作に影響を与える概念だからです。カリブ海地域にとって価値あるものは、同時に、他の文脈、世界の他の地域、他の人々にも価値があると思っています。



── 先生がカリブ海の芸術家と行った対談を拝読していますと、アンティル諸島の芸術家たちにおけるアイデンティティの探求の重要性が見えてきます。一般論として、アイデンティティの探求はしばしばある種の排他的なナショナリズムを惹起するものです。今日のアンティル諸島の芸術家の試みは、こういった閉ざされたナショナリズムを回避したり、乗り越えたりすることができると先生はお考えですか。

D. B. : 確かに、アイデンティティをめぐる問いは幾人かのアーティストの関心のうちにあるにはあります。でも、それは私が前景化したいものではありません。私には、記憶や歴史の問題の方がずっと深みがあるように思います。この二つの問題は別個の事象ではありますが、結びつけて考えることができます。記憶や歴史をめぐる問いかけからそれぞれ全く異なる芸術創造が立ち現れるのをつぶさに見るのは興味深いことです。ここでいっているのは、絵画、インスタレーション、映像作品、パフォーマンス、そういった作品の区分の中にあって、一個一個違う魅力を持っている芸術創造のことです。過去と現在は密接に結ぼれています。現在は何かの結果なのです。そうはいっても、こういった考え方を全くしない芸術家もやはりいます。すべてのマルティニックやグアドループのアーティストが同じものを問うていると考えるとしたら、それは誤りです。今ここで私たちの前に立ち現れているのは、真に多様なるものなのです。芸術創造やものの考え方、テーマ系が織りなす多様性は、ずっと開かれた命題を可能にします。おっしゃるように、ナショナリズムは開かれたものよりもむしろ閉ざされたものを、受け入れるのではなくて締め出すことを、出会いではなく閉じこもった態度を惹起します。アンティル諸島のアーティストの作品のうちで人が出会うのは、そのような精神状態ではありません。



── お話を終えるに当たって、今後美学の研究においてどのようなことをなさるおつもりかお聞かせねがえますか。

D. B. : 目下進行中の仕事を続け、発展させることが目標ですね。アーティストとの対談や、『美学探求』の出版、展覧会や研究集会、シンポジウムの組織、シンポジウムの報告書の刊行、アンティル諸島のアーティストのモノグラフィの執筆、といったところでしょうか。これまで44冊の(雑誌やシンポジウム報告書の)出版に携わってきましたが、こうした仕事はとても楽しい冒険でした。これからなさねばならないことはまだまだあります。幸いなことに、活発な仲間に囲まれていますからね。

(福島亮/東京大学)

広報委員長:香川檀
広報委員:白井史人、原瑠璃彦、大池惣太郎、鯖江秀樹、原島大輔、福田安佐子
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2020年6月23日 発行