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シンポジウム 音響メディア史とサウンド・アート──歴史・創造・アーカイブの現在

福田裕大

日時:2020年2月16日(日)13:00~16:45
会場:国立国際美術館 地下1F講堂
企画・司会:福田裕大(近畿大学国際学部)
登壇者:Anne-Laure CHAMBOISSIER アンヌ=ロール・シャンボワシエ(美術史家・キュレーター、ChamProject代表)、藤本由紀夫(芸術家、京都造形芸術大学教授)、城一裕(芸術家、九州大学准教授)、大澤啓(東京大学総合研究博物館特任研究員)、秋吉康晴(京都精華大学非常勤講師)


英語圏でみられるサウンド・スタディーズの展開を受けて、近年の日本では、録音技術をはじめとする音響メディアの歴史研究が盛り上がりをみせている。音響メディアを「音楽」の占有物とみなすのではなく、科学や哲学、そしてまた人間の感性や身体観の変容と結びついた歴史的形象として捉えようとする一連の議論は、同じく著しい発展を見せている視覚文化論などともリンクしうる重要な意義をもつものだ。本シンポジウムは、こうした音響メディア史研究のアクチュアリティを再検討するために、サウンド・アーティスト、レコード・アーキビスト、キュレーターといった関連分野の専門家たちとの対話を試みるものである。

当日はまず、シンポジウム企画者である福田が趣旨説明を行ったうえで、音響メディア史を専門とする秋吉康晴が議論の出発点を提示した。録音技術の開発をめぐるエジソンの足取りを探求し続けている秋吉の仕事は、従来の歴史記述によってほとんど取り上げてられてこなかった小さな事象を丹念に拾いあげる作業を通じて、音響メディアの歴史を微視的な観点から複数化しようとするものである。続く城一裕は、《月の光に:蓄音機のために──エドアート・レオン・スコットとモホイ=ナジ・ラースローヘ》(1860/1923/2015)をはじめとした一連の作品を紹介しつつ、自らの創作実践の一端に秋吉の述べるような「歴史の複数性」(あるいは、「潜在的な/あり得たかもしれない歴史」)へのまなざしがあることを論じた。音響メディア史とサウンド・アートのあいだに見られるこうした接近は、「人文学的な知の生産」と「芸術創造」というふたつの実践を受け止めるべき「場」を再考する動きを誘発する。東京大学総合研究博物館(インターメディアテク)で音響メディアに関連する様々なイベントを企画している大澤啓の発表は、現代の先端的なアーカイブ事業がまさにこうした二領域の交叉する地点で展開されていることを、豊富な実例をもとに示すものであった。

以上を基盤的な議論としたうえで、シンポジウムの後半部では、藤本由紀夫とアンヌ=ロール・シャンボワシエのふたりからそれぞれ非常に貴重な報告がなされた。藤本の発表はシュトックハウゼンが1966年に来日した際に作成された一編の冊子(NHKでのゼミナール記録)をめぐるものであり、この作曲家が自らの作品制作における「空間」の問題を西洋音楽の歴史的展開のうえで論じていくさまを辿りつつ、「サウンド・アート」的な作品/空間のあり方が冊子中で「予言」されていることを述べるものだった。とはいえこの「予言」は藤本の作家としてのあり方を直接的に規定することはなく、あくまで事後的に「再発見」されたにすぎない(藤本がこの冊子の内容に初めて触れるのは2000年代に入ってからのことである)。前半部で論じられた「潜在的な/あり得たかもしれない歴史」が喚起する魅惑と、それを安易に実体化してしまうことの恐ろしさのようなものを同時に感じさせる、実作家ならではの極めて印象的な報告であった。

一方のアンヌ=ロール・シャンボワシエは、フランス・ベルギーを中心にしてサウンド・アートを中心としたキュレーションを積極的に行なっていることで知られる人物である。当日はそうした自らの現場経験もふんだんに交えつつ、音響詩、ならびにサウンド・インスタレーションというふたつの表現が音響メディアとのあいだに築いてきた密接な関係を詳細に論じてくれた。とりわけ音響詩については、日本では熊木淳による精力的な研究をのぞいてほとんど論じられることがないジャンルであり、スウェーデンのフィルキンゲン・スタジオやパリのポンピドゥ・センターにおける展示室「ルヴュ・パルレ」といった「現場」の実態を仔細に報告するシャンボワシエの発表は、文字通り極めて得がたいものであった。

(福田裕大)

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広報委員長:香川檀
広報委員:白井史人、原瑠璃彦、大池惣太郎、鯖江秀樹、原島大輔、福田安佐子
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2020年6月23日 発行