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第12回研究発表集会|基調講演

日時:13:20-15:00
場所:武蔵大学江古田キャンパス8号館5階 8503教室

死を〈見せる/見せない〉──アニー・リーボヴィッツがスーザン・ソンタグを撮る
カタリーナ・ズュコラ(ブラウンシュヴァイク美術大学)

【コメンテータ】田中純(東京大学)

写真というメディアには、「死」というものの認識の臨界点が潜んでいる。写真家アニー・リーボヴィッツがパートナーである写真理論家スーザン・ソンタグの死を撮った写真は、この問題をよく示している。

リーボヴィッツは1994年からソンタグの没した2003年まで、カップルの関係にあった。彼女はソンタグが癌に冒され、臨終を迎え、息をひきとった直後の姿を逐一、写真に収めている。ソンタグの死後、リーボヴィッツは自身の自伝的な作品集『ある写真家の人生』(2006)や同名の展覧会でそれらの写真を公表しており、そこでは一歩一歩死に近づき、やがて死を迎える女友達の写真が圧倒的な存在感をもって提示されている。にもかかわらず、その後のリーボヴィッツは、写真の第三者による転載を一切拒み、代わりに写真をインターネット上に流出させているらしく見える。

本講演は、死者の写真を本や展覧会で「見せる」ことから、他人が勝手に扱ったり眺めたりするかもしれないなかで後から「見せない」ことにする、という態度変化がもたらす疑問について考察するものである。ここで起きた事態とは、死者を写真に撮るという行為においてリーボヴィッツ自身が実践した被写体の脱タブー化を、軌道修正するものなのか? 写真に撮っておきながらそれを使用させないというこのイメージ剥奪は、ソンタグの無傷な肖像(イマーゴ)を再生させようとする社会的ジェスチャーなのか? スーザン・ソンタグの没後写真のなかで、亡骸を華麗な死装束や周囲の設えというコードのなかに埋め込む/埋葬することと、その物質的な不在の前兆としての見るに耐えない姿とのあいだの軋轢のなかに、「なにも見せない/無を見せる」ことで未来を予示するあの死者写真のパラドクスがいかに立ち現れているのか?

この事例において、リーボヴィッツによる死せるスーザン・ソンタグの写真は、同時にまた、死の捉えがたさ(把捉不可能性)を併せ持っているのである。