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多和田葉子と複数形の〈故郷(くにたち)〉

報告:小松原由理

日独を往還する作家多和田葉子が、FSXホール (くにたち市民芸術小ホール)/公益財団法人くにたち文化・スポーツ振興財団の主催事業の枠組みで、2016年から続けられている企画に、「多和田葉子 複数の私」シリーズがある。この企画、予算規模の割にはとてつもなくスケールの大きなものに年々成長しており、なかでも特筆すべきは、故郷国立市のために多和田葉子が書き下ろしたオペラ、『あの町は今日もお祭り』(上演:2022430日から51日、音楽:平野一郎)の「上演実現」である。このオペラは市民オペラとして捧げられており、市民コーラス29(小学生~80歳代)、市民アンサンブル11名、歌わない人(小学生~70歳代11名)、市民スタッフ6名、そこにプロフェッショナルの歌手、俳優、ダンサーが加わった大掛かりな文化事業となった。この壮大な市民オペラの制作と実現へのプロセス、さらに、多和田葉子の言葉をそれぞれに市民たちが自らの身体と声を持って響かせた舞台の意味を、もう一度改めて捉えなおそうと企図のもと、開催されたのが「多和田葉子とくにたち」(20241031日~113日開催)である。

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撮影者:内田颯太

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それにしても、小説家としてではなく、演劇人としての多和田葉子を見つめる機会は、これまでどれほどあっただろうか。もちろん、多和田の演劇そのものが、声とテクストの間、あるいはテクストと身体の間を狙って制作されていることもあり、ジャンルとしての戯曲として分析すること自体がそもそも不毛であるうえに、さらにその言語あるいはテクストとの密接な関係性ゆえに、ポストドラマ演劇の文脈からの考察や、パフォーマンス研究の対象になりにくい側面があったことは事実だろう。だが、それこそが多和田の舞台芸術の特性なのであり、つまり、多和田作品のように、その演劇が志向する越境性が、言語からわかりやすく離れた身体的局面に託されているのではなく、言語そのものによって提示されている場合に、言語の多面性や奥行きをどのように舞台に関わる人々が理解し、それを再び身体や空間の次元で展開・表現するかということが、極めて重要な要素となってくる。この高度で困難な作業に、ここ数年間集中して取り組んでいるのが演出家の川口智子であり、共に並走している振付家北村成美といったアーティストたちである。ここに「くにたちオペラ」の場合は、演出家の川口と共に、しかし全く「別の道からこの舞台実現への同じ頂を目指した」という音楽家平野一郎が加わる。多和田の舞台芸術を考える時、こうしたアーティストたちの思想やコラボレーションの意味を一ミリも削ることはできない。

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『あの町は今日もお祭り』撮影者:宮川舞子

2025年に入り、多和田葉子の舞台芸術はさらなる広がりをみせている。4月4日には細川俊夫作曲、多和田葉子作による子供のための朗読コンサート『遠くから来たきみの友達』(成城ホール)が披露された。細川のつくった音、多和田の言葉、そして山口裕之の洗練された日本語訳に誘われ、子供たちで賑わった会場全体が、時空を超えた宇宙旅行に出かけてしまったかのような興奮に包まれた。さらに細川と多和田によるオペラ『ナターシャ』が8月には、新国立劇場で世界初演を迎える。11月には再びFSXホール(くにたち芸小ホール)で『さくら の その にっぽん』の上演も市民参加で行われるらしい。加えて、2000年ごろから毎秋シアターΧと早稲田で行われている朗読パフォーマンス(晩秋のカバレットシリーズ)も決して無視できない。国立市という故郷、日本という故郷、そして地球という故郷へ向けられた多和田の舞台芸術での鳴りやまない挑戦。その複数形の故郷が放つ煌めく音色を、この先も観客の一人として、共に眺め、味わっていきたい。

広報委員長:原瑠璃彦
広報委員:居村匠、岡本佳子、菊間晴子、角尾宣信、堀切克洋、二宮望
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2025年6月29日 発行