小特集:「評伝的なるもの」をめぐって

ロング・インタビュー 田中純氏が語る「評伝的なるもの」とその「経験」 『磯崎新論(シン・イソザキろん)』から遡行して

聞き手:原瑠璃彦、菊間晴子、二宮望

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『磯崎新論(シン・イソザキろん)』(2024)と『デヴィッド・ボウイ──無(ナシング)を歌った男』(2021)のストラテジー

 今回の『REPRE』では「評伝的なるもの」をテーマに小特集を組んでいます。昨年、田中先生は『磯崎新論(シン・イソザキろん)』という、磯崎新についての「評伝」とも言うべき大著を上梓されましたが、そのほかにも、これまでアビ・ヴァールブルク、ジルベール・クラヴェル、デヴィッド・ボウイといった多様な人々について、その人のすべてを引き受けて論じるような大著をたくさん出されています。正直に申しますと、この小特集の発端は、『磯崎新論』の連載が『群像』ではじまったとき、その最初の「前口上」で磯崎新とデヴィッド・ボウイの関係について触れられていたことに僕が大きな衝撃を受けたという、個人的な経験があります。その頃から、この連載がいずれ本になったときには田中先生への徹底的なインタビューを行いたい、と思っていました。

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『磯崎新論(シン・イソザキろん)』講談社、2024年

一方、当・表象文化論学会の会員の方々にも「評伝」に関わるところで素晴らしい成果を出されている方がたくさんおられます。そこで今回、「評伝的なるもの」をテーマとし、さまざまな方にご寄稿をお願いしています。もちろん、「評伝」という言葉で良いのかどうかという問題もありますし、そもそも「評伝」とは何か、ということになるわけですけれど、とにかく「評伝」と呼ばれる手法がいまアップデートされてきてるのではないか、と考えています。今回の小特集では、表象文化論なりの「評伝」の手法の力があるとすればどのようなものか、ということを探れたらと思っています。ですので、今日は田中先生には、とくにこれまで行ってこられた研究、著述活動の「手法」「方法」の面のお話をお伺いしていきたいと考えています。

まずは『磯崎新論』のことからお伺いしたいのですが、この御本のもとになった『群像』での連載は、講談社から依頼があってはじまったそうですね。もちろんそういうきっかけとして大きかったと思うのですが、それ以前から、磯崎さんについて書かれる構想は、お付き合いも長かったわけですから、なかったわけではないのではないでしょうか。ただ、磯崎さんについて論じたご論考自体はあまりありませんね。『磯崎新の革命遊戯』*1と……。

*1 磯崎新監修、田中純編『磯崎新の革命遊戯』TOTO出版、1996年。

田中 『革命遊戯』も論じていると言えるかは分かりませんけれど、磯崎さんと直接お話したのは『革命遊戯』です。それと、論文は2020年の『現代思想』の磯崎新特集*2への寄稿です。

*2『現代思想』第48巻第3号、青土社、2020年

 なるほど。そういうつながりのある方だったわけですが、いつか書くという構想はあったのでしょうか。

田中 『磯崎新論』を執筆する経緯については跋文にも書きましたけれど、講談社の『群像』編集部からお話が来たことがきっかけです。それが2020年のはじめですから、まだ『現代思想』の特集が出る前だったと思います。ただ連載をはじめるまで散々迷い、実際に書きはじめたのは翌年の夏以降でした。正直申しあげて、磯崎論を書くつもりはありませんでした。研究として磯崎新と向き合ってきたという自覚はないんです。それは、磯崎さんが同時代人であることと、もちろんご存命だったということもありました。ですから、磯崎新論を書くタイミングをはかっていたようなことは全くない。逆に、デヴィッド・ボウイの場合は、急に亡くなったことによるショックがあって、その直後に出版のお話をいただいて、これも数年寝かせざるを得なかったのですが、こちらについては自分が書くべきだと思い立つに至る経緯がありました。

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田中純氏

磯崎新の場合は、関心を持った同時代人ではありましたが、僕は磯崎新を研究してきたわけではありません。ですから、書きはじめたきっかけはきわめて他律的だったということを認めざるを得ない。ただ、2020年に『群像』編集部から「こういう評伝のようなものを」と挙げていただいたのが『冥府の建築家』でした。『冥府の建築家』は、磯崎さんが僕の本のなかでたぶんいちばん面白がってくれた本でした。だから、この仕事がある種見本としてあったことで、磯崎新論に取り組めるかもしれないとは思いました。

ただ、非常に逡巡がありました。たとえば丹下健三の場合は、藤森照信さんとペアで、もう生前に『丹下健三』*3という本を出しているわけです。それに対して、磯崎さんが別に僕を選んだわけではなく、『群像』編集部からたまたま僕が話を頂戴しただけのことであり、また、何よりも磯崎さんご自身がご存命であったことが逡巡の大きな要因です。なおかつ、磯崎さんについては非常に多くの方々によって語られてきて、色々な議論の蓄積がありました。さらに、磯崎さんをめぐっては、さまざまなエピソードをお持ちの方が国内外に無数にいらっしゃるわけです。ですからそれを評伝なり伝記というかたちでやろうとすると、全ての方に聞き取りをしなければ完全な仕事にならない、ということは最初から分かっていたわけです。ほかにも、詳しくは言えませんが、僕自身非常に個人的な感情として躊躇いがありました。その躊躇いは、磯崎さん没後に感じた複雑で激しい感情にも関係していたと思いますが、跋文で少し触れたように、それは『磯崎新論』にも書いていません。

*3 丹下健三、藤森照信『丹下健三 KENZO TANGE』新建築社、2003年。

これは大きく言えば、磯崎さんが非常に多くの方々とのエピソードを豊富にお持ちであり、伝記として書くにはハードルがあまりに高すぎたということです。ただ、逆に言えばそのようにあまりにもクリシェにまみれ、あまりにもハードルが高いがゆえに、自分なりに制限を課せば、いや、制限を課すことによってこそ、明らかにすべきことがあるだろうと思ったんです。そうして一年くらい寝かせているうちにコロナになってしまったから、何かを調べようにも建築を見に行くことができなくなっちゃった。磯崎さんの建築を世界中まわって見るわけには到底いかない。それは別にいまの状況でもなかなかできないと思いますが、そういう調査的な限界が否応なく生じてしまった以上は、この状況を逆手にとるしかないと思った。

そう思わせたことのひとつは、磯崎さんが『反回想I』*4とか、あるいは2000年代以降の無数のインタビューなど、自分の人生を語り直すということを戦略的にやってきた人だからです。そこで語り直されたことは、非常に貴重な一次情報も含むけれど、やっぱり一種の自己韜晦なんですよね。かつ「反回想」という名称にもあらわれているように、それはきわめて戦略的でもある。磯崎さん自身は非常に率直に語る人なんだけれど、そこには無意識の戦略性がある。それは、意図的に嘘を言っているわけじゃないし、単に忘れてるとか、記憶の歪曲があるとか、そういうことだけじゃなく、やっぱり自伝的な語りというのは避けがたく錯綜してしまう。その人が語っている現在と語られている過去との内容が非常に絡み合っているから、それを丹念に解きほぐさないといけない。

*4 磯崎新『反回想I』ADAエディタトーキョー、2001年。

で、解きほぐそうというときにどうすれば良いかと言うと、時系列です。時系列は無慈悲なんですね。人間の生まれて死ぬまでだから。肉体はその流れを遡れないわけです。だから、肉体が絶対逆らえない時系列に沿って全てを検証しようと思った。しかも、プライベートな語りの場ではなくて、磯崎さんが書いたものと建ててきた作品を中心に。つまり日付がある文章や作品に徹底して即すというふうに制限すれば、さっき申し上げたような伝記を書く上での限界はクリアできる。要するに、それ以外のことはもう扱わないと決めてしまう。だから、磯崎さんの場合のストラテジーとしては、彼の自己語り自体を時系列のなかに位置づけて検証するためにこそ、お祖父さんまで遡って彼の営みを正確に配置する必要があったということなんです。そのような僕の側の戦略ができてはじめて、2021年から執筆に取り掛かる気になったわけです。それまではそういう戦略も思い付いていなければ、そもそも磯崎さんについて、括弧付きの「評伝」的な仕事をする気持ちも実はなかったんです。

でも逆に、そういうお話をたまたま『群像』からもらって、ストラテジーを考えてみて、いままでの磯崎論を一旦無にして新しい磯崎新論を書くということは、これは言わば、いままでのゴジラ映画をすべてなかったことにした「シン・ゴジラ」的ですよ。だから「シン・ゴジラ」的なものを磯崎新について行うという方法的な選択ができてやっとやる気になったというか、「やれるな」という見通しが立ったからはじめたわけです。

だから、これは決して継続的な研究の発展ではなくて、降ってきた話だけれど、でも、大体僕が書いてきたものは全部降ってきた話だと思います。でも、そこで何よりも重要だったのは方法的な選択だったんです。いままでの磯崎新論では、たとえば平松さんの『磯崎新の「都庁」』*5は一種のジャーナリストに徹しているから面白いし、よく調査されているのだけど、僕とはアプローチが違う。石山修武さんの磯崎論など、要所要所で援用させてもらった先行研究、というか、先行する言説は多々ありますが、いちいちそれに囚われていたらだめだと思った。だからそれを一旦切り捨てる。磯崎新自身の言説と作品にともかく限定する。そこまで限定した上でなら書けると思うし、そう限定してこそ書くべき意味があると思ったということです。

*5 平松剛『磯崎新の「都庁」──戦後日本最大のコンペ』文藝春秋、2008年。

 なるほど。そうだったんですね。あえてナンセンスなことをお伺いしたいんですけれども、この『デヴィッド・ボウイ』という本を経由しているかしていないかというところの違いなどあったのでしょうか。『デヴィッド・ボウイ』の場合は、アルバムを時系列で並べる手法をとられていますね。

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『デヴィッド・ボウイ──無(ナシング)を歌った男』岩波書店、2021年

田中 まあ、経由しなかった可能性というのは僕自身は考えられないのでそれは分からないんだけれども、『デヴィッド・ボウイ』も、これも戦略としては彼の伝記には触れないということだったんです。ボウイについてはもうゴシップめいたものから何からフォローしきれないぐらいいっぱいある。もちろん彼のプライヴェート・ライフに触れざるを得ない部分はあるんだけれども、基本は作品のみとしました。ただし、作品を論じる上で、たとえば彼の義理のお兄さんとの関係とか、色々と補助線を引かざるを得ないし、というか引くことによって見えてくるものはいっぱいあるんですね。だからこの場合も、デヴィッド・ボウイの作品論を展開する上で必要な限りでのみ、伝記に触れることにしました。だからこれも「評伝」だと思っていません。

ボウイの本は、あくまでボウイの作品を日本語ネイティヴである私がどのように聞き、どのように解釈するかという、それ自体、ある種パフォーマンスとして書いている文章です。これも、自らの立ち位置とアプローチの仕方を制限した上ではじめて取りかかれた仕事なんですね。だからこれは、厳密に言えば「評伝」ではなくて、デヴィッド・ボウイ論だと思うんです。デヴィッド・ボウイは非常に多ジャンルで活動した人ですが、そうやってデヴィッド・ボウイのほぼ全作品を論じる作業をしたことが、同じく多ジャンルにおける活動を展開した磯崎新を扱う上で、ある種自分自身にとって先行例になったと言うことはできるかもしれません。

 多ジャンルで活動した人というところもひとつポイントですね。磯崎さんのような多面的な人をどう扱うかというときに、建築史の分野では限界があったとも言えるのかもしれませんし、そこで表象文化論の意義があるのかなと思っていますが……。

田中 まあ「多面的な人物」というのもそれ自体クリシェですけれどね。そこから入っていくというよりも、磯崎新自体に関心を持ったのは、彼が建築の分野だけに限らない、学識とヴィジョンを持って仕事をしてきたからです。多ジャンルに亘る活動を貫くものがそこにはあった。

ただ、もちろん僕がやらなかった作業もあるんです。それは同時代の建築史との関係。要するに、近現代日本建築史のなかで磯崎をどう位置付けるかといったことは扱ってない。もちろん丹下との関係はある程度扱っているんですけれど、たとえば篠原一男とか、あるいは下の世代の原広司さんとか、または、ピーター・アイゼンマンなど、同世代の建築家とのもっと突っ込んだ対比とか。磯崎さんが語っている、論じている範囲内では触れているけれども、もっと俯瞰的に、建築史的に彼らを扱うということはしていない。

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つまり、磯崎があえて語らなかったことについては触れづらいアプローチであったことは認めざるを得ない。認めざるを得ないが、とりあえず『磯崎新論』についても『デヴィッド・ボウイ』についても、僕は基礎的な作業をしているつもりなんです。10年くらい前に磯崎さんのインタビュー本*6が出ましたけれど、あれだけじゃ全然分からないんです、整理しないと。だから、時系列。徹底的に時系列的に整理して、彼が語っていたことを理解する。そのためには当然同時代の建築家の動向とかも目に入ってくるから、その限りでは扱っています。

*6 磯崎新、日埜直彦『磯崎新インタヴューズ』LIXIL出版、2014年。

磯崎自体の言説を整理することではじめて見えてくるものがあって、そうした事典的なものとしてこの本をつくったという気持ちはあるんです。実際、関係者の方も「あれはどうだったか?」って事典のようにして使っていると言っていました。

磯崎さんは2010年代半ばに岩波から『磯崎新建築論集』という8冊本*7を出していて、それを僕は本のなかで批判しましたけれど、あれも磯崎さんが「反回想」的に介入しすぎなんです。だから、あれも本当は『磯崎新文集』として、若いときのものから時代順に並べた方がよっぽど磯崎新のすごさが分かるようになるわけ。それに似たようなことをやろうとしたのが『磯崎新論』でした。それをやってはじめて見えて来る風景を論としてまとめたいということに、途中まで書いてようやく分かりました。最初はもう少し僕自身が俯瞰的に立って、磯崎新を日本の戦後史のなかに位置付けるような、たとえば建築をめぐるマイクロポリティクス的なものについて書きたいと雑誌連載の「前口上」で書いたと思うんですけれども、なかなかそれは難しいんですよ。ですからまずは、基礎的な作業をやらないと。なので、途中から純粋に、いま申し上げたように、磯崎新の活動を時系列に並べて、綿密に見ていく作業に集中しました。

*7 横手義洋、松田達、日埜直彦、五十嵐太郎、中谷礼二、藤村龍至、南後由和、豊川斎赫編集協力『磯崎新建築論集』全8巻、岩波書店、2013-2015年。

ボウイについてもそうで、イギリス人であれば、ボウイが何を歌っているかは、たとえスラングを使っていたとしても、こんなに分析的に書かなくても聴けば分かるわけです。先ほど申し上げたように、英語ネイティヴでない人間がどのように彼の歌を聴いているのかという自己分析が必要だったし、デヴィッド・ボウイについてきちんとした、全作品にわたるデータベース的に使えて、なおかつ、それらをトータルに論じた書物は日本語ではなかったから、それも含めてこの本を書いたんです。それは明確な目的としてあった。これを書く直前に、サイモン・クリッチリーの『ボウイ』*8という非常に上手く書けた本の翻訳をしましたけれど、彼はイギリス人で、僕と全く同じ日に生まれた人なんです。でも彼はボウイと同じイギリス人だし、同じ時代を生きた人だから、彼なりのベストの書き方は薄いエッセイ風の本で良いわけ。イギリス人だからと言ったら悪いけれど、同じようなバックグラウンドがある人に向けて書いているからそれで良いんです。

*8 サイモン・クリッチリー『ボウイ』田中純訳、新曜社、2017年。

それに対して、さっきも言ったように、ボウイという人物が、いかにイギリスやヨーロッパの文化の厚みを背負って出てきた非常に重要なキーパーソンかということを日本語で説得的に示すためには、これくらい徹底的にやらなきゃいけないと思ったわけ。ある書評者が「クリッチリーのような文体で書いてくれたら良かった」と書いていたけれど、その人はここのところがまったく分かっていないわけ。『磯崎新論』はかなり抑えた文体で書いていますが、『デヴィッド・ボウイ』についても、抑えて書いていることがいかに戦略的かということをちゃんと見抜いてくれた人もいました。なぜ抑えているかと言うと、『磯崎新論』も『デヴィッド・ボウイ』も、一面ではデータベース的なことを意識していたからです。

 ストラテジーを練るところで、ある種の限定を設けることが非常に重要だったということだったんですけれど、でも限定したとは言え、とんでもない量の資料が扱われているところは圧倒的だと思います。また、作品を語る上で重要な部分だけその人の生涯に触れるということですが、その辺りの手つきも、とくに『磯崎新論』では重要なところですね。たとえば、磯崎さんにとって、お父さんと岸田日出刀が近い位置にあるとか、そういう視点は、ストレートな建築の研究ではなかなか出てこなかったところだと思うんですが、そういう点が大きなキーになって論が展開されていくところは、非常にスリリングだと思いました。

田中 そう。磯崎さんが亡くなったということもあり、これからはある程度フリーに色々な人が話せる状況になってきている。だから、今後期待されるのは、関係者に聞き取りをしてかなり網羅的に書かれたもうちょっと「評伝的なもの」です。もっとも身近にいた方々の色々な情報というのはこれから出てくると思う。

磯崎論を書くなかでも、磯崎新が「磯崎新」になる、それこそお祖父さんの代から1950年代くらいまでが、やっぱり一番調べ甲斐のある時期でしたね。岸田日出刀のこともそうですが、丹下健三との関係の原点のようなものも含めてです。磯崎さんが語っていることを一歩引いて眺めて、二人の関係がどういうものだったかというのを、こう、確定までは行かないまでも、立ち位置の配置みたいなものを読み取ることは非常に重要な作業だと思いました。「磯崎新」になっていく過程をね。まあ、こうした生成過程は磯崎さんに限らず、評伝的な作業では重要になってくることですが。

『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』(2001)というイニシエーション

田中 私の「評伝的なもの」としては、『ミース・ファン・デル・ローエの戦場』からはじまっているのだけれど、あれはあくまで研究の延長線上で書いたと思っています。ただ、そもそもミース研究をはじめるきっかけは『批評空間』という雑誌に書いた論文*9からで、それはミース・ファン・デル・ローエがなぜ「ミース・ファン・デル・ローエ」と名乗るようになったのかという、建築家の名前をめぐる問題意識からでした。磯崎さんが1990年代に『建築家捜し』*10という本を書いていて、これもすべて名をめぐるエッセイになっています。だからそこら辺で磯崎さんの同時代的な関心ともリンクしているんですけれども、そのときから僕にとって関心があったのは括弧付きの「建築家」であったということは言えるのかもしれません。つまり建築家がどのような欲望を抱いて建築を建て、「建築家」になるのかという問題です。『ミース・ファン・デル・ローエの戦場』として書籍にまとめたものは『建築文化』という雑誌の連載ですが、これもまあ、実はほかから来た他律的な問題設定ではあったんですけれど。

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『ミース・ファン・デル・ローエの戦場──その時代と建築をめぐって』彰国社、2001年

*9 田中純「虚のファルス──建築家ミース・ファン・デル・ローエの誕生」『批評空間』第II期第1号、太田出版、1994年掲載。田中純『残像のなかの建築──モダニズムの〈終わり〉に』未来社、1995年所収。
*10 磯崎新『建築家捜し』岩波書店、1996年(岩波現代文庫、2005年)。

たとえば原広司さんはミースの空間について「均質空間」ということを言っています。「ユニヴァーサル・スペース」ではなくて「均質空間」。けれど、ミースの建築は均質ではないんです。じゃあなぜ原広司さんがミースの建築から見たヴィジョンが均質空間になるのか。『ミース・ファン・デル・ローエの戦場』は、建築界でそれまで語られてきたそういうミース論を表象文化論的に分析することによって、なぜミースの建築がこれほどさまざまな形で語られてきたのかという現象を解読するものでした。つまり二重になっているわけです。ミースの語ったことなり、つくったものの分析と、それがもたらしてきた表象としてのミース論との分析が二重になっているんです。ここが理解されなくて、表象分析の部分だけ切り取られて、「あいつは建築を論じていない」と言われたけれど、そんなことはないんですよ。そう見えるのは、ミースの建築それ自体が分析の二重化をもたらすことに気づいていないから。まあ、いずれにしてもあれは、ミースをはじめとするヴァイマル共和国時代のドイツにおける前衛的芸術家についてのそれまでの私の研究の延長線上にある「評伝的なもの」でしたが、まだ「評伝」というものを強く意識した仕事ではなかったと思います。

 なるほど。

田中 それに対して、『アビ・ヴァールブルク』を書く過程では、1998年くらいからロンドンのウォーバーグ研究所でアーカイヴ調査をしました。当時はヴァールブルクのアーカイヴ研究はそんなになされていなかったと思います。もちろん、80年代くらいからヴァールブルクの研究そのものはドイツで行われていて、色々なシンポジウムが開かれていたし、研究者も多くいた。その頃もうすでにジョルジュ・ディディ=ユベルマンも同じアーカイヴを調べていた。でも、ディディ=ユベルマンの『残存するイメージ』*11より、僕の『アビ・ヴァールブルク』の方が先ですからね。だから、その辺りは同時代的に、アーカイヴ的なものが必要だという意識は共有されていたんだけれど、まだそんなにアーカイヴ研究自体は盛んではなかった。

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『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』青土社、2001年、(新装版、2011年)

*11 Georges Didi-Huberman, L’image survivante: histoire de l’art et temps des fantômes, selon Aby Warburg, Paris: Éditions de Minuit, 2002. 邦訳=ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『残存するイメージ──アビ・ヴァールブルクによる美術史と幽霊たちの時間』竹内孝宏、水野千依訳、人文書院、2005年。

ただアーカイヴの資料は無尽蔵にあるので、自分として徹底的な仕事がそこで出来たとは思いません。思いませんが、あそこでとったストラテジーは、「知的伝記」であることを標榜したゴンブリッチの伝記*12に書かれなかったことを、ゴンブリッチのような書き方じゃない書き方で書くということでした。ただし、ヴァールブルクが精神病であったときの時期の資料にアクセスすることは限られていました。そもそもその部分の日記は使うな、と当時は言われていました。ディディ=ユベルマンは『残存するイメージ』のなかで少し使っていますけどね。その後、ヴァールブルクがビンスヴァンガーの療養所に入院していた頃の資料も整理されて本になり、研究状況は変わりましたけれど。

*12 Ernst Gombrich, Aby Warburg: an Intellectual Biography, London: The Warburg Institute, 1970. 邦訳=E. H. ゴンブリッチ『アビ・ヴァールブルク──ある知的生涯』鈴木杜幾子訳、晶文社、1986年。

ともかくヴァールブルクは精神的におかしくなっちゃった人だから、全ての資料を使えるわけではないし、その資料も容易に解読ができるわけじゃないので、メモのようなものをすべて見てゆこうとすると膨大な作業が必要になる。とすると、テーマを絞って調査せざるを得ず、それはどうしても単体の論文にしかならないから、「評伝」のようなかたちでそこまで徹底した仕事はヴァールブルクについてもなされていない。

そういうアーカイヴの作業で本当に発掘できたオリジナルな情報は膨大にあるわけじゃないけれど、僕にとってキーとなるものはいくつかありました。たとえば草稿に挟まっていたメモとかです。あるいは、大倉精神文化研究所という日本の実業家がつくった研究所がありますけれども、そこの人たちがヴァールブルク研究所を訪れたときの資料などです。多くはないけれども色々なオリジナルな資料を使うことによって、ゴンブリッチが書いていない部分の手掛かりを得ることができました。書き方自体も、『アビ・ヴァールブルク』は時系列で書いていないんですね。まず、第I部は、ヴァールブルクがベルヴューというビンスヴァンガーの療養所で暮らした時期、精神的におかしくなっちゃった時期。そこでまずヴァールブルクが「蛇儀礼」という講演を療養所で行うところぐらいまでを扱って、それから第II部では、彼の博士論文であるボッティチェリ論を書いた頃に遡り、最後、第III部では精神病が治って復帰したあとの晩年を扱った。そういうふうに、あえてアナクロニックに配置する書き方をしました。

それはそもそも、第I部で扱ったような、「知的」でない、むしろ錯乱した部分との連続性においてヴァールブルクの仕事を見なくちゃいけないという問題意識があったからです。だから、この場合も、ある意味では反面教師的な先達としてゴンブリッチがいたから、それに対してそうじゃないかたちで方針、ストラテジーを立てて、アーカイヴで新たに資料を調べた上で作業をしてみたわけです。

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『アビ・ヴァールブルク』を出した2001年頃は、さっきも言いましたように、ヨーロッパでもアメリカでもある程度ヴァールブルク研究はなされていたんだけれども、片方では、ヴァールブルクという劇的な生涯を送った知識人をめぐる、すごく評伝寄り、伝記寄りの研究がなされていた。で、もう片方では、ディディ=ユベルマンの『残存するイメージ』以前のヴァールブルク論に見られるように、パノフスキーを批判するためにヴァールブルクを持ってきたりとか、ヴァールブルクを持ち上げることで、それまでの美術史の方法論をひっくり返すというような戦略的な利用法があった。けれど、そういうふうに分裂しているのはまずいだろうと思ったわけです。というか、それに則って同じようなものを書くことはしたくない。そもそもなぜそういう現象が起きているかと言うと、彼らの論じ方を見ていると、結局ヨーロッパなりアメリカの美術史業界の内輪の論理なんです。その新しい方法論なり、新しいフィールドを開拓するための素材としてヴァールブルクが選ばれている気がしました。

で、それは別に自分とは関係ないことだという気がしたわけです。それは、僕が美術史業界と関係がないということがひとつと、あと、僕が「日本人」であるということです。さっきも言いました、日本の実業家たちがヴァールブルク研究所を訪れたことと関係してくるんですけれども、ヴァールブルクが彼らの訪問時に「日本人ノ気質ヲ通シテ見タ、ハンブルク人ノ理念」、つまり、日本人には私の研究はどう見えるだろう、というメモを書き残している。これはだから、ボウイ論を書いたときの動機とつながるんだけど、要するに自分がなぜヴァールブルクを論じるのか、ということが問われるわけです。つまり、逆向きに言えば、言語的・文化的な近さこそが見失わせるものがあるような気がしたんですね。自分は言語的・文化的に遠いからこそ、ヴァールブルクについて論じ得るものがあるだろうし、論じる「死角」があるんじゃないかというふうに、書いているなか、ないし書き終わったあとに感じた。

だから、ヴァールブルク論を書くという作業自体が、ある種、発見的な過程だったような気がします。それはヴァールブルク自身がテーマにしたことなんだけれどね。つまりヴァールブルクは古代の再生、古代の残存ということを問題にしたわけですが、これは当然、記憶の問題に関わる。彼が一番深刻な精神的クライシスからの回復期に、自分の幼年時代や過去のアメリカ旅行のことを思い出している。幼年時代に母親が死にそうになったときの感覚経験とか、自分はなぜあのときプエブロ・インディアンのところに行ったのか、といったことです。つまり、気が狂って、ある程度治ってきたときに、そうした自伝的な語りをした。当然そこには自己演出がありますが、ヴァールブルク自身の思想を考える上でも、そこに自伝的な語り、ないし自伝的な想起の作業が入ってくるというのは大きな問題なんですね。それをテーマとして扱ったことが、結局、自分の問題として跳ね返ってくる。自分がなぜヴァールブルクを問題にしているのか、と。

ヴァールブルクは、自分はオリエントから北ドイツに移植され、イタリア産の枝を接ぎ木された木の木片からできた地震計だと言う(ハンブルクに生を受けたユダヤ人のイタリア美術研究者である自分の出自を喩えているわけです)。幾重にも移植・接ぎ木された樹木が解体されバラバラにされた上で合体させられた地震計。それも、地震が来たら壊れちゃうようなもろい地震計。こういうエンブレムに凝縮されるような人物の伝記を書くということは、やはり自分自身をどこかで解体するようなことも伴うんですね。つまり、距離がなくなる瞬間があるわけですよ。やっぱりどうしても同一化してしまう。時に自己解体しかねない精神に接近しつつ、そこから距離を取って、ある種の学術的な言説にまとめあげていく、その難しさ。それはパトスとロゴスのせめぎあいなんです。パトスとロゴスのせめぎあいはヴァールブルク自身にもあった。そういうのが二重三重に転移してくる。そのことは重々承知しているんだけど、そのようなパトスをあえて学術的に遠ざけることによって殺したくはなかった。だから、『アビ・ヴァールブルク』を書くこと自体、非常に大きな経験だったと思います。

 もう書くこと自体が田中先生にとってのひとつのイニシエーションのようなものになっていたわけですね。

田中 そう。ヴァールブルクは死ぬ直前にも自分を樹木に喩えていました。だからそのような、自らを樹木に喩えたヴァールブルクの面影を追っていた果てに、僕の本の最後には西行の歌「春風のはなをちらすと見るゆめはさめてもむねのさわぐなりけり」を置いています。こんなことしちゃ学術論文としてはだめですよ(笑)。だめなんだけれども、でもやっぱりエンブレムになるような何かに達しないと「評伝」は完結しないと僕は思う。だからボウイの場合はエピグラフにした「地上とは思い出ならずや」(稲垣足穂)であるとか、nothingをめぐる一連のイメージだし、磯崎さんの場合は、海であり庭であり、かつそれが廃墟や瓦礫でもあるっていう、そういうイメージに最後達する。

『冥府の建築家──ジルベール・クラヴェル伝』(2012)と『過去に触れる──歴史経験・写真・サスペンス』(2016)

 その辺りが次に伺う『冥府の建築家』や『過去に触れる』の問題と関わってくるわけですね。『過去に触れる』につながる問題意識は、『冥府の建築家』をお書きになった経験が大きかったのかと思っていましたが、その前のヴァールブルクの段階でもかなり決定的な体験があられたんですね。

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『冥府の建築家──ジルベール・クラヴェル伝』みすず書房、2012年

田中 そうですね。『アビ・ヴァールブルク』の跋文にも引きましたけれど、カルロ・ギンズブルクが「過去を知ろうとする試みもまた、死者の世界への旅のひとつなのだ」と言っています。しかしやっぱり、旅をしても帰ってこなければいけない、死んだままじゃなくて。それはパトスとロゴスの関係性みたいなものでもあると思います。読み返してみると、僕は『アビ・ヴァールブルク』の跋文で「テキストの細部が語るささやき」というふうに書いている。ジルベール・クラヴェルは「さざめく」という言葉──ドイツ語でrauschenと言うんですけど──これを幾度も使う。これは、ヴァールブルクが自分を地震計になぞらえた比喩にも通じる。囁くもの、さざめくもの、そういう過去からの波動を受けとるような感覚が、こういう評伝的な仕事をしているとどこか生じるものなんです。僕が取り上げてきた人々には、なぜかそういう共通している部分があるように思います。

クラヴェルの場合は、これはそもそも単独の評伝として書くつもりはなかったんです。『10+1』での連載のなかの「セイレーンの誘惑──ナポリ、カプリ、ポジターノ」という論文*13で、ゴダール『軽蔑』の舞台となったことで有名な《カサ・マルパルテ》、ベンヤミンのナポリ論、ベンヤミンの友人だったアルフレート・ゾーン=レーテルという経済哲学者のナポリ論、それからクラヴェルあたりを中心にして論じました。当時は彼らだけじゃなくて、ジークリフリート・クラカウアーやアドルノもナポリを訪れていて、アドルノについては『ナポリのアドルノ』という本*14も出されています。そういう1920年代のドイツ知識人のナポリ体験を知識人群像として書くというのがそもそもの研究テーマでした。みすず書房にもそれで企画を通してもらったんだけれど、クラヴェル一人で面白くなっちゃって、それで「クラヴェルだけで出してください」と頼んで出したんです。

*13 『10+1』No.21、INAX出版、2000年掲載。「10+1 website」https://db.10plus1.jp/backnumber/article/articleid/1223/ で公開。
*14 Martin Mittelmeier, Adorno in Naples, Siedler Verlag, 2013. 英訳=Martin Mittelmeier, Naples 1925: Adorno, Benjamin, and the Summer That Made Critical Theory, trans. Shelley Frisch, New Haven: Yale University Press, 2024.

そもそもクラヴェルを取り上げるきっかけはハラルト・ゼーマンです。ゼーマンは、僕が卒論の頃から影響を受けていたキュレーターで、彼の総合芸術作品展*15は僕が卒論でバウハウスを中心とするテーマにした大きなきっかけだったんです。ゼーマンの「幻視のスイス」(1991)という展覧会をドイツに留学していたときに見て、そのカタログにクラヴェルの日記とか手紙がたくさん掲載されていたんですね。それを読んで非常に面白いと思った。クラヴェルの日記や手紙がそこにたくさん掲載されていたのは異例なことで、クラヴェルだけがそのカタログのなかで異常に重点を置かれていたんです。つまりゼーマンはクラヴェルに取り憑かれていた。亡くなってしまったから実現しなかったけれど、彼は晩年までクラヴェルの著作集を出すために資料を集めて整理していました、本来の彼の仕事とは関係ないのに。それだけゼーマンが入れ込んだ人だった。ゼーマンがかなり資料の整理をしてくれていたことが後々分かり、クラヴェルについてはある程度徹底した調査をすることで評伝が書けると見込まれたので、2009年くらいからできる限りの調査をしました。そこには、ゼーマンがやり残したことをやらなくちゃ、という気持ちもあったと思います。何よりもクラヴェルの文学作品よりも、むしろ手紙の類、日記の類といったプライヴェートな文章が非常に面白かったんです。ですからこれは当然ながら伝記的な研究にならざるを得ない。だから、クラヴェルを調べていけばいくほど、彼一人の伝記的なものとして書かなきゃいけないと考えて、「評伝」というかたちで本にまとめることにしたわけです。

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ハラルト・ゼーマンの仕事場「薔薇工房(Fabbrica Rosa)」外観、マッジャ(スイス) 2011年3月 撮影:田中純

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「薔薇工房」2階 「Clavel」などと書かれたボックスが見える(ただし、資料のごく一部) 撮影:田中純
なお、薔薇工房内の資料は2011年にすべてゲティ財団(ロサンゼルス)が購入し、米国に移されたので、写真の状態では現存しない。

*15 「総合芸術作品への志向──1800年以降のヨーロッパ的ユートピア(Der Hang zum Gesamtkunstwerk: Europäische Utopien seit 1800)」(1983)。

クラヴェルは一生涯、重い病気に苦しめられ、「せむし」の小人だったということがあって、そういう身体的なハンデを背負った人の肉体と精神のあり方、その肉体がどのような経験をしたのかということに深く入っていかないといけないわけです。そのような肉体を背負った精神が経験した出来事の襞に入ってゆき、それを読まないといけない。そして、その苦しみが想像力に転化するプロセスを辿っていかなきゃいけない。それは単に思想として抽出できないんですよ、ヴァールブルク以上に。「跋」には「クラヴェルによる過去の経験の、いわば「質感」や「肌触り」を甦らせたかった」と書きました。「これは果たして研究なのだろうか」と思うんですけれど、でもそれは、僕自身が経験している現実だから、重要なことなわけです。そのようなクラヴェルの経験の質感に触れること自体が重要な歴史経験であると自分自身が実感している以上は、それについて書かざるを得ない。だから、「経験の質感」は学術的な議論の対象になるかどうかは危ういが、しかしそれに対して表現として言葉を与えなければいけない。ヴァールブルクのときからそうですけれど、表現の問題と、ある種分析的なアプローチの問題は切り離し難くなるわけです。それでもって、クラヴェルの場合は、もう制限抜きで、全ての資料にあたって徹底して書こうとしてやったつもりです。

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ジルベール・クラヴェルの手紙類 バーゼル国立公文書館 バーゼル(スイス) 2012年3月 撮影:田中純

『冥府の建築家』の「跋」では、「それは祈りあるいは約束のようなものだったのだろうか」という非常にロマンティックな書き方をしましたけれど、それは神に対してというわけではなくて、つまり誰宛に書いているのか、ということが問題になってくるわけです。はっきり言って、これは学術共同体に向けて書いたものじゃないんです。もちろん、本にするわけだから読者に向けて書いているわけですが。クラヴェルという人の生が忘れられたままになっていることに対する義憤はありました。恐らくゼーマンもそう感じていたんじゃないかと思います。この人の生は書き残されなければならない、と。そこでどう書くべきかというとき、その宛先というのは、やはりまず第一にその人本人ですよ。その人に向けての祈り、あるいは、その人に対する約束というふうに。もちろん、それが転移の倒錯、錯覚であることは重々分かっています。でも、それを引き受けないと書けないというリスクではあると思うんです。だから、自ら望んでやっているんだけれど、何か課せられたものになる転換の瞬間がある。

 御本のなかでは「死者に選ばれた感覚」と書かれていますね。

田中 そう。それはもちろん錯覚なんです。だって、ほかに書く人がいないならやろうじゃないかというだけのことだから。でも、それを「約束」というふうに思った。だからこそ、死者に対して恥じないように書かなければいけない。クラヴェルははっきり言って無名の人ですよ。その無名の人の色々な痕跡はあまり語られていないから、散り散りバラバラになってしまっている。それを拾い集めるために、ツテを頼ってプライヴェートなアーカイヴを調査することまで必要になったわけです。たかだか100年前の人の生の痕跡もどんどん散り散りバラバラになって分からないことがいっぱいある。散り散りバラバラになって「さざめき」に似たものになってしまう。その小さな「さざめき」をどう聞き取るかという問いが自分に跳ね返ってくる。自分が現在書いているものや自分の生命もまた、やがてそんな「さざめき」になるに違いないからです。

ベンヤミンは「歴史の概念について」で、「吹きすぎる風の中に過去の人の息吹を感じる」というようなことを書いています*16。また、もうひとつ有名な言葉だけれど、「有名な人より無名な人々の記憶に敬意を払うことの方が難しい。歴史の構築は無名の人々の記憶に捧げられている」と書いています*17。彼が亡くなったポルボウには、岸壁にパサージュを掘ったダニ・カラヴァンによるベンヤミンへのオマージュ作品がありますが、その突き当たりのガラス板にこの言葉が彫られています。やっぱりその言葉を思い出すわけです。ヴァールブルクにしてもボウイにしても磯崎さんにしても有名な人であって、こういう人たちについてはクリシェを避けなければいけないとか、色々な制限を課すようにしたわけですけれども、無名の人についてはまず掘り起こしの作業が必要になる。それをクラヴェルを通して経験したということは貴重なことだったと思っています。

*16 Walter Benjamin, Gesammelte Schriften, I-2, Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1972, S. 693. ヴァルター・ベンヤミン「歴史の概念について」浅井健二郎訳『ベンヤミン・コレクション1──近代の意味』筑摩書房、1995年、646頁。
*17 「歴史の概念について」のために残された1939年のメモ書きの一節[Walter Benjamin, Gesammelte Schriften, I-3, Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1972, S. 1241]。

僕は学術性とこの「評伝的なもの」とを峻別するわけではないですし、むしろ連続していると思うんだけれど、こうした経験は、制度的に学術的とみなされているものに対して、「評伝的なもの」がどう位置付けられるのかという問題にもつながっていると思っているんです。

 そのあたりのお話を次にお伺いしたいんですけれど、その前にひとつお聞きします。クラヴェルの「さざめき」に関しまして、『冥府の建築家』の跋文では2011年の3月9日にオーリアという街で大きな経験があったと書かれていますね。

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ルガーノ(チェレージオ)湖畔の小さな村オーリアで 2011年3月 撮影:田中純

田中 それは象徴的な出来事ですけれど、その前日ぐらいにゼーマンのアーカイヴで非常に貴重な資料を見つけているんです。それはクラヴェルが生きているときに、彼の巌窟住居を訪れた友人がこの建築を何ページもスケッチしたもので、これほど貴重な資料はほかにないわけです。それを全く偶然に見つけた。それに出会った直後、クラヴェルが若いときに訪ねたオーリアという村へ行きました。全く人気(ひとけ)がなく、そこを訪れたときに、同じ空気とは言いませんが、同じ土地に立ってその静寂のなかで何か過去に触れたような感触を掴み得たように思ったんです。そこに色々なものが組み合わさっているんです。数日前に見つけた資料のこともあり、その土地がクラヴェルが実際に行ったことのある土地だったりということだったり、そういう記憶を反芻するなかで、自分がまさにその「風に過去の人の息吹を感じる」ような経験をしたということだと思うんです。こう書くと非常にロマンティックになってしまうと思いますが……。でも、その種の実感、経験にこだわってみようと思ったんです。それが結局、クラヴェルの本の後に『過去に触れる』で歴史経験論を書く糸口になったわけです。

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『過去に触れる──歴史経験・写真・サスペンス』羽鳥書店、2016年

 実際、まわりを見渡してみると、「歴史経験」については色々な議論があったわけですね。

田中 はい。ヘイドン・ホワイトの言語論的転回ののちに、言語論的転回を論じていたフランク・アンカースミットというオランダの哲学者が、歴史経験論を中心に論じるようになったりしていたわけです。だから、歴史理論の分野で既に転回があった。それは情動論的転回とかそういうものともつながっているんだと思います。ただ、日本の歴史理論は相変わらず言語論的転回で立ち止まっていて、こうした動向は全然受容されていない。まあそれは置いておいて、その歴史理論のなかで語られている歴史経験論を補助線にして、ヴァールブルク論、クラヴェル伝を通してこだわってきた時間とか経験について、もうちょっと理論的に、学術的言説に近付けて整理しておく必要があると思って書いたのが『過去に触れる』だったわけです。だからこれは、本当は「評伝」と言うべきなのか、何て言うべきなのか分からないんですが、そうした言説をどのように学術的に位置付けられるかということの理論的な考察をしたつもりなんです。

 すみません。そこで少し話が戻ってしまうのですが、先ほどの、決定的なアーカイヴの発見があって、そのあと2011年3月9日の出来事があり、そのあと本を書かれた後のご自身の感覚としてはどうなんでしょう。

田中 3月9日が決定的な日付とまで言えるかどうかは別にしてですけれど、それはその後に起こった地震のことがあるから決定的に記憶されているんです。でも確かに、僕はその日にTwitterにそういう認識を書いていた。だからTwitterって結構便利なツールだったわけですよ。

 時系列ですしね。

田中 そう。『冥府の建築家』の「跋文」を書くときにそのときに起きた経験を反芻してTwitterを見ながらまとめているので、時系列としては整合的に語っています。ベンヤミンが「歴史の概念について」で書いていることだってある種の歴史経験なわけです。歴史経験に基づく歴史叙述がいかに可能か、ということ。だって「閃光のように閃く今の時」って言われたって、それを非常に哲学的に語り直すことはできるけれど、それ自体はベンヤミンの経験ですからね。そういう経験をしたことのない人がいくら概念だけをひねくり回したって何の思想的な展開にもならないでしょう、と僕は思うわけです。なので、僕はベンヤミン論をそういうかたちで展開するよりは、彼の言っていることを実感したいと思っているわけです。そういうものに通じる経験の質感とは何か、と考える方が、遠回りではあるけれども、歴史叙述について考えることにつながるだろうと思っています。つまり、評伝・伝記的なものから離れて、より集団的な歴史の叙述につながりうるんじゃないか、と。

 なるほど。『アビ・ヴァールブルク』から『冥府の建築家』、『過去に触れる』までの流れがよく分かりました。

「評伝的なもの」とエンブレム、憑依、伝説

 先生がさまざまな人を論じるなかで、そこには何か確固たるイメージ、あるいはその人が囚われているオブセッションがキーになっていますね。ヴァールブルクに関しては、先ほど地震計の話がありましたけれど、今回の本の磯崎さんにしてもボウイにしてもクラヴェルにしても、そういったものがありますね。しかも、それはその人の身体、肉体と密接につながっている。田中先生のお仕事のなかでは、そういうものを掴み取ることが中心にあるのかなと思っているのですが……。

田中 ヴァールブルクは非常に苦しんで死んだし、クラヴェルも自身の身体的経験からああいう独特な建築に向かった。でも、それは結局、僕がそういう人を選んできたということの結果のような気もします。磯崎さんが身体性を非常に重視していたというのも、建築家だから当然という面もあるし、ボウイも歌声というものを主題にするからには、身体性に深く関わってくるのは歴然としている。「評伝」というよりは、人間の生との関係性を問うものであるからには身体の部分なしにはありえませんから、身体性が評伝的な仕事のなかで前面にせりだしてくることは一般的にも言えることだと思います。

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バルトが「伝記素」ということを言いますね*18。たとえば、ロヨラの場合であれば「半分濡れたような目」、サドの場合は「首に巻いていた白いマフラー」というように。それは、その人物の肉体的な特徴とか、人物が置かれた具体的なシチュエーションで、要するに写真におけるプンクトゥムを人間の伝記における伝記素と呼んでいるわけです。それは、ヴァールブルクだと、木片からできた地震計や、樹木としての自分のイメージであり、磯崎さんの場合は、海としての瓦礫のイメージである。そういう、ある人物のエンブレムとなるようなディテールなり、その人物のオブセッションが収斂していくイメージなり、テーマだったり、場所というものが見つかってくる。それは見つけようとしてやっているわけではないんだけれど、そういうものに「評伝」を凝縮させていきたいという欲望が僕にあるのかもしれません。基本的には人間の生って、非常に散乱していると思うんですよ。単一の人間だからと言って、必ずしもそれがあらかじめ統一されてあらわれてくるということでは当然ない。ないんだけれども、その分散しているものが星座のように配置を成してくる、と言うと非常に綺麗事になっちゃうんだけれど、そういう分散しているものを丹念にひとつの物語として語る。そうすることによって最終的にはひとつのイメージを生み出してほしいと願っているところがある。さっきキーワード的に磯崎さんについては海だとか瓦礫と言いましたが、別にそれだけに限らないわけです。物語だから色々なイメージをそこから読む人がいても構わない。でも、自分としてはエンブレム的なイメージに達することが「評伝的なもの」という物語を書いていることの隠れた目標にはなっている気はします。だから、ただの時系列にしようとして、「このときはこうしました」ということだけではない。「このときはこうしました」の積み重ねがエンブレムの図柄を描き出してほしいわけです。

*18 Roland Barthes, Sade, Fourier, Loyola, Paris: Seuil, 1971, p. 14. ロラン・バルト『サド、フーリエ、ロヨラ』篠田浩一郎訳、みすず書房、2002年、12頁。

 言わば、通時的なものと共時的なものと、二軸あるわけですね。

田中 そう。徹底して通時的に書くことによって、はじめて共時的なものが浮かび上がるということがあると思います。

 『磯崎新論』の最後の結論の部分は、田中先生が磯崎さん自身になっているような、言ってみれば、磯崎さんが田中先生に「憑依」しているような内容になっていて、読んでいて衝撃を受けましたが、「評伝的なもの」を書いてゆくことは、ある種、憑依的な感覚でもあるように思います。

田中 まあ、磯崎さん的に言えば、「デミウルゴスが憑依してくる」みたいな話になっちゃうんですけれども……。でも、さっきから「転移」などと言っているのは全部そういうことなんですね。結局、人間が一人の人間に徹底的に付き合うということは「転移」であるし、その人の言葉なり、その人が生み出した作品なりイメージなりを内在的に理解しようとするところからしか物語を書きはじめることはできないので、内在的に理解しようとしたときに、やはり憑依的な状態になるということはあると思うんですよ。でも、憑依的になりつつ、どこかで醒めているわけだから、それは常に二面性を保って書いているつもりではあります。『磯崎新論』に結論が絶対必要だと思ったのは、さっき言ったような配置を最終的に示さなきゃいけないと思ったからです。連載自体は時系列的に磯崎さんが亡くなったところで終わっている。でも、終わっているけれど、その地平線上に、書いてきたことを結論としてまとめる必要があると思った。それは「配置」というふうに言っても良いし、いくつかの線を太く描き直すことだと言っても良いし、点と点を結ぶことだと言っても良い。磯崎さんのなかで反復的にあらわれてくるモチーフをそこで明確に示してみたわけです。純粋な伝記だったらそうはしないのかもしれません。でも、僕の「評伝的なもの」では、この結論に書いたような作業を伴っていると思います。『デヴィッド・ボウイ』でも「結」というふうにしました。クラヴェルの場合はもうちょっと評伝寄りの書き方になっていると思うんですけれども。

たとえば、『磯崎新論』の結論で、井筒俊彦の論じた阿頼耶識を使っているのも、別にほかから持ってきたわけではなくて、磯崎さんが井筒に入れ込んで阿頼耶識に言及しているからです。だから、憑依しているみたいに見えるのも、あくまで磯崎さんの言説によって語っているからです。磯崎新を解剖しているわけではなくて、磯崎新を蘇らせているわけです。結局、蘇らせたいんです。

 言ってみれば、田中先生がある種AI的な存在になっているわけですね。『冥府の建築家』の冒頭は、「妄執(オブセッション)は憑依する。そして、ひとからひとへと伝染する。」という文ではじまっていますね。

田中 そう。それはハラルト・ゼーマンのオブセッションが憑依しているということです。遡れば、ゼーマンにクラヴェルのオブセッションが憑依しているんですけどね。そもそもゼーマン自体、「オブセッションの美術館」を唱えるなど、オブセッションをテーマにしていたキュレーターでした。

 「経験」とか「錯覚」、「憑依」という言葉が先ほどから出ていますが、でも、それらは、非常にストイックに、ものすごく冷静で客観的になろうとする先に出てくるものですね。

田中 そう。客観的にならないと出てこない。僕としては客観的になろうとしているつもりですし、客観的になっていることを望みますけれど、そのような距離が必要とされるのは、フラットに見たいからなんですよ。磯崎の磁場に囚われたくない。というのは、囚われることが分かりきっているからです。いずれにせよ囚われてしまうんだからしょうがない。それが分かっているからこそ、距離を置くことが大事なんです。

二宮 これまでの伝記をめぐる議論をもう少し広い文脈でとらえると、たとえば20世紀前半には、ドイツの歴史家エルンスト・カントロヴィッチによる『皇帝フリードリッヒ二世』(1927)*19のような著作がありました。この伝記的な歴史研究は、カントロヴィッチが属していたゲオルゲ派に共有されていた中世ドイツ讃美のイデオロギーを色濃く反映したもので、当時の歴史学において、学術的叙述の実証性をめぐって大きな議論を呼びました。このあたりは『政治の美学』をはじめとする先生のご専門とも重なる部分かと思いますが、伝記を書く際に「フラットに、距離を取る」とおっしゃる背景には、こうした前世紀の伝記的アプローチへの批判的な意識もあるのでしょうか。

*19 Ernst Kantrowicz, Kaiser Friedrich der Zweite, Berlin: G. Bondi, 1927. 邦訳=エルンスト・カントロヴィッチ『皇帝フリードリヒ二世』小林公訳、中央公論社、2011年。

田中 まあ磯崎さんのような人を書こうとすると、どんなに拒否したって英雄伝みたいになってしまう。そのことが分かっていればいるほど、磯崎さん自身の自己言及的な言説もすべてをフラットに離れてみないとその言説に自分が飲み込まれちゃう。何て言うのかな、飲み込まれること自体が一種の英雄伝になりかねないという意識なのかな。当然ながらいまの時代「天才とか英雄を書きます」みたいな文体で評伝を書く人はいないと思うんです。だけど、磯崎さんについて書くときには、まず何よりも彼自身の自己演出に囚われまいとする意識が強かったです。

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二宮 先ほど先生も少し触れていましたが、ヴァールブルクという人物は、それほど集中的に自己について語ったわけではないものの、研究日誌や講演の導入部などで散発的に「自己語り」を展開しています。2024年に久しぶりに英語で刊行されたヴァールブルクの伝記*20では、著者がヴァールブルク自身の語りに注目し、彼がいかにして自己像を構築したかが主題となっています。ただし、ヴァールブルクは事後的に英雄化された人物でもあるため、本人による語りと後世の語りとを丁寧に整理する作業が不可欠です。あらためて先生のヴァールブルク論を読み返すと、すでにヴァールブルクの自己言及的な思考が的確に問題化されていることに気づかされました。

*20 Hans C. Hönes, Tangled Paths: A Life of Aby Warburg, London: Reaktion Books, 2024.

いずれにせよ、自らについて語ることの多かった人物の伝記を書くということは、自己による語り、他者による語り、そしてそれらを俯瞰的に再構成しつつ議論を展開する著者自身の語りという、複数の語りが交錯する状況を避けられません。このような問題に対して、先生は著作を執筆される際、どのような点を意識されているのでしょうか。

田中 学術性を担保するために客観性を保つという意味で、距離を置くことを強調しているように聞こえるかもしれませんが、実はもうひとつ裏の戦略がありまして、二転三転するような仕掛けになっています。カントロヴィッチ的なある種のヒロイックな伝記がかつてあったという話をなさいましたけども、実は僕が若い頃に一番影響を受けたのは松本健一さんの『北一輝伝説』(1986)*21という本なんです。「伝説」なんですよ。松本さんは「あとがき」で、これは小説でも評伝・評論でも、ましてや研究でもなく、フィクションとノンフィクションの違いを考えて書いたわけでもない、と書いているんだけれど、そのやり方にすごく刺激されたわけ。北一輝が上海に行ったというので、僕も80年代半ばくらいに上海に行ってみたいと思ったくらいにのめり込んだんです。伝説としての伝記的なものに魅惑されるところがあるんです。

*21 松本健一『北一輝伝説──その死の後に』河出書房新社、1986年。後に加筆・修正を加え、『評伝 北一輝 V 北一輝伝説』岩波書店、2004年として刊行。さらに中公文庫版が2014年に刊行。

つまり、『磯崎新論』は、距離をとって非常にフラットに書いているように見えるけれども、実は磯崎新をきわめて神話化している書物なんです。なぜなら、僕が『磯崎新論』で最後に辿りついたのはまさに神話化作業なわけです。磯崎さん自身の想像力が神話的想像力じゃないか、ということなんだけれど。これは、結局すべては「海」でしょう、というふうに、読者自身を海のなかに引き入れようとしている書物なんです。そういうところにつながってくる僕自身のモチベーションの源流は、遡ってみると20代で松本さんの『北一輝伝説』を読んだことにあると思います。もちろん、僕は松本さんの熱心な読者ではないし、松本さんの著作を全部ちゃんと読んでいるわけではないんだけれど、ただ、この本の「伝説」というところに僕が強く惹かれたことは、いま考えてみると、一番深いところでこういう評伝的な仕事に導いているように思える。

『過去に触れる』のなかでは、橋川文三が水戸の故老から聞いたという、天狗党の乱に参加して非常に若いときに人を斬った武士について書いています。その武士は明治維新になったあとは世俗のことには関わらず神社の神官として一生を全うした。非常に美丈夫かつ寡黙で、政治的なことに関わらずに黙って「体制の疎外者」として生きた。そういう天狗党の乱で人を斬った若い侍の60年に及ぶ余生は、この人物にとっては「ただひたすら歴史であっただろう」と橋川は書いている 。

『過去に触れる』にも書いたけれど、調べてみたけれどそれが誰だったのかは分からない。水戸党争という幕末の内戦について調べてみたって分からない。それに似たような人はいるんですけれどね。橋川は、戦争というものを深刻な実存的経験として生きた人が、戦争が終わった後にどういうふうに「歴史」を経験するかということを考えている。要するに、彼は戦中派だから、自分をそこに重ね合わせて水戸の武士のことを書いているんだけど、この橋川の語り口自体ひとつの「伝説」なわけです。由来をはっきりさせないわけ。だから、非常にミスティフィカシオンなんだけれど、橋川のこの水戸の故老が語った話という語り口は戦略的なものだった。橋川は、歴史法則を語るマルクス主義的な歴史とは違う、小さきものの歴史、名もなく死んで行った人々の歴史を書こうとしている。 彼はまた、戦中派にとっての「歴史」は、ある種の「神話」としてしか語りえない、とも言う。とすると、この後者の歴史は、実はまさに「名もない」というかたち、「水戸の故老が語った伝説ですよ」という伝え書きのかたちでしか、もしかしたら語れないのかもしれない。

まあ僕なんかは、単純に名もない人であっても名はあったはずだから、名を掘り起こすべきだと考えますけどね。しかし、極端に振り切ってしまえば「伝説」というものは、そこまでいくようなディスクールだと思う。でも、ある意味、そういう、ある人物の生涯の典型性を伝えられれば、それで良いのかもしれない。単に名前を発掘し「この人はこうしました」というふうに非常に実証的に書くだけが「評伝」ではなくて、伝説的な語り口がある。とすると、これはもうフィクションに限りなく近づいちゃうわけです。そのジャンル分けが先にあるわけではないから、物語の語り口は模索しなくてはいけない。僕は、ヴァールブルクでは構成を考えて、アナクロニックにすることでドラマティックに演出しているし、磯崎論の場合は、距離を取ったと見せかけて、最終的に神話的なものに導いていくという、そういう書き方をしていると言えるのかもしれません。

「評伝的なるもの」の種々の手法

 ときどき田中先生は「青年将校」と呼ばれることがあるので、『北一輝伝説』が出てくるとは驚きでした(笑)。どうでしょう、ほかに「評伝的なるもの」を書くにあたって影響を受けた事例などは挙げられますか。

田中 それぞれ書く上で、たとえばヴァールブルクならばゴンブリッチが反面教師だし、テーマごとには色々あります。あるけれど、それは個別のケースであって、あまり書き方自体で強く影響を受けたということはちょっとすぐには思い浮かばない。松本さんの『北一輝伝説』と言ったって、その書き方はまったく違う。むしろ、こういうふうに書きたいと思うのはありますよ。それは何かと言ったら、W・G・ゼーバルトの『アウステルリッツ』*22です。これはまったく架空の伝記なわけ。『徹底討議 二〇世紀の思想・文学・芸術』*23でも言いましたけれど、「ベンヤミンの見えない都市」というふうに題して、ベンヤミンの架空の伝記みたいなものを書きたいと思ったこともあったし、それは、いまもどうしようかなと思っています。たとえば、ベンヤミンがポルボウで死なないでアメリカに移住していたらどうなっていただろう、という架空の伝記を色々な人が書いています*24

*22 W.G.Sebald, Austerlitz, München: Hanser, 2001. 邦訳=W.G.ゼーバルト『アウステルリッツ』鈴木仁子訳、白水社、2003年。
*23 松浦寿輝、沼野充義、田中純『徹底討議 二〇世紀の思想・文学・芸術』講談社、2024年。
*24 たとえば、David Kishik, The Manhattan Project: A Theory of a City. Stanford, California: Stanford University Press, 2015。

ベンヤミンじゃなくても何でも良いんだけれど、『アウステルリッツ』のような書き方で、評伝ともフィクションともつかないものを書いてみたいと思うことはあります。それから、これはいままでの本を書くときに参考にしたわけではないのだけど、森鴎外の「史伝」と呼ばれる『渋江抽斎』(1916)と『伊沢蘭軒』(1916-1917)はすごい文章だと思います。「史伝」と言われてもよく分からないけれど、まあ要するに伝記ですね。当時は墓の石板に刻まれた墓誌が一番信頼できる伝記的情報だから、ある寺の墓誌を調べてこうだったとか、この寺では墓そのものが移されて探したけれど分からなかったとか、鴎外が右往左往しながら人に聞いて回ったりという、伝記を書く上での自分自身の苦労を織り交ぜて書いているところに非常に親近感を覚えるわけです。そういう、書きつつある鷗外自身のプロセスと、その伝記のプロセスとが交差する部分がある。

たとえば、『渋江抽斎』に出てくる池田京水という医師の墓誌の書きぶりがおかしい、と鷗外は疑問に思うわけ。こんなに優れた人なのに「廃嫡された」と書いてあったり、出来が悪いみたいなことが書いてあるのはおかしいじゃないかということを疑問として残した上で、これに続く『伊沢蘭軒』では、新たに資料が見つかってその答えが分かって、実は優れた人だったんだけれども、養子になった本家の池田家の養父の後妻になった人と折り合いが悪くて、この後妻が悪巧みして廃嫡されたんだとかさ。何か面白いわけですよ。そういうことが徐々に明らかになってくるプロセスが面白い。その過程に色々な要素が詰まっているし。

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一方で、つまんないと思ったところもある。とくに『伊沢蘭軒』なんて、漢文がいっぱい出てきてとても読めないと思った。でも拾い読みするだけでも非常に面白いのは、こういう昔の人の考証をして「歴史」を書いていくプロセス自体がそこに書かれていることだと思うんです。もうひとつ、これは「評伝」の文体に関わりますけれど、「抽斎歿後の第十何年は明治何年である」というような記述がひたすら繰り返される。こういう、言わば年代記的なリズムがこの場合は非常に重要だと思うんです。ベンヤミンが物語の文体としてヘーベルという小説家の作品を例に挙げて「年代記作者は歴史を物語る者なのである」と書いているけれど*25、やはり物語る人の語り口があるから読んでいて面白い。『渋江抽斎』も『伊沢蘭軒』も、いずれも新聞連載だったわけですけれど、新聞連載中に「長すぎる」という批判を散々受けたらしくて、『伊沢蘭軒』の最後の方では、「異例の長文が人を倦ましめた」ということについて、言い訳を散々鴎外が書いていて非常に身につまされるというか……。そういうところも含めて、評伝というものの書き方が持っているポテンシャルを味合わせてくれる作品だと思うんです。

*25 Walter Benjamin, "Der Erzähler. Betrachtungen zum Werk Nikolai Lesskows." in Gesammelte Schriften, Bd. II-2, Frankfurt am Main, 1977, S. 450-452. ヴァルター・ベンヤミン「物語作者」三宅晶子訳『ベンヤミン・コレクション2──エッセイの思想』筑摩書房、1996年、306-309頁。

 それはどういうきっかけがあって読み直されたんですか。

田中 いつも最初で挫折していたんです。最近も挫折していたんだけれど、「そうだ、飛ばし読みすべきだ」と。出てくる人全部に付き合っていたら記憶できないし、記憶するほど関心が持てないけれども、鴎外がどういうふうに書こうとしているかという水準に読むレベルを持っていくとスラスラ読めちゃうんですよ。実際、話は面白いんですよ。抽斎の一番最後の奥さんの五百(いお)さんが非常に機転の利く人で、ほとんど素っ裸で複数人の賊を追い払った話とかね。まあ内容ももちろん面白いんですけど、この「史伝」というものの鴎外の書き方をちゃんと知りたいなと思ってやっと読み通せたんです。

 その鴎外のプロセスは、『冥府の建築家』の言わば副産物として、クラヴェルの恋人を追った、先生の「アーシアを探して」(『過去に触れる』所収)と通じるところがありますね。

田中 そうそう。そうなんですよ。あれはやっぱり、ああいうかたちで出会ってこそ書くべきだと思った。磯崎さんもそうだし、ボウイの場合は彼が死んでしまったこともあって行きがかり上絶対やらなきゃいけなかったけれども、クラヴェルもゼーマンから降ってきたようなものです。ヴァールブルクもある意味、降ってきたようなものだと思うんだけれど、その方が虚心坦懐に取り組めると思うんです。つまりね、この人について書かなきゃいけない、というふうに思う瞬間があるんですよ。それがあって取り組むことができるようになる。バルトは「伝記素はエピクロスの言うクリナメンのように、未来の人間の肉体に遭遇するものだ」という書き方をしている*26。つまり、クリナメンというのはデモクリトス的に直進するんじゃなくて逸れるんです。軌道から逸脱して、わけが分からないところに行ってしまって、それが万物を創造する。だから、伝記素というのはわけが分からない状態で来るわけですよ。当然クラヴェルに出会わなければ、僕はアーシアという人には出会わなかった。本来、僕はアーシアを徹底的にやるべきだと分かっているんですけれど、これはできない。これは資料的な限界もあり、諦めたんです。彼女の名前(アーシア・ソロヴェイチク、結婚後はアーシア・タンネンバウム)は明らかにしなくちゃいけないと思って、それはできたんだけれど、そこで止まっている。彼女こそ、まさに記憶に敬意を払うべき人物だったんですね。そういう作業が出来たことは、クラヴェルを書いたあとの副産物的な仕事として非常に貴重だったと思っています。

*26 Roland Barthes, Sade, Fourier, Loyola, p. 14. ロラン・バルト『サド、フーリエ、ロヨラ』、12頁。

それと、やっぱり僕は女性については書けないだろうと思っています。アーシアについては書くべきだと思うんだけど、ちょっと分からない。いままで女性については書けてこなかったし、女性について書こうとするとロマンティックになりすぎると思うわけ。まあ、アーシアについてはある種のロマンティシズムもありましたよ。それは、クラヴェルが書いているアーシアの人物像があまりにロマンティックだったから。アーシアはロシア領だったリトアニアのある種の革命家的な女性で、革命的な運動に参加したがゆえに非常に若くして投獄された後、イタリアへ逃れてクラヴェルに会い、別の人と結婚して子供たちもできるんだけど、投獄時に病んだ慢性リウマチやその頃のトラウマのせいなのか、晩年になってどうも精神的に崩壊してしまったらしい。幸福な時期もあったんだろうけど、そういう悲劇的な生涯を送った人です。

僕はローマでアーシアの娘さんにまで会って、お母さんが亡くなったあとに繰り返し見たという、非常にドラマティックな夢の話まで聞くことができたけれども、「これ以上は書けない」という感触があって、その続きは書いていないんです。これは僕自身の限界なのかどうか、よく分からない。もしかしたら、評伝的な仕事がどこかで「転移」なり「同一化」なりそういうものを伴うという、原理的なところに関わっているのかもしれない。徹底して学術的な立場に立てば俯瞰的に書けますよ。それはそれで良いけど、僕が追跡してきた方法ではアーシアについてはそこまでは行けないだろうなと思っています。

二重スパイの魅惑

田中 あと、これはミース・ファン・デル・ローエもボウイも磯崎さんもそうだと思うんだけれど、僕が対象にするのは、結局は『政治の美学』で扱ったようなテーマに関連している人たちだったわけです。自分に似たところがあるとは言いませんが……。でも、そういうタイプに沿った人を取り上げていることは否めないと思っている。ボウイも磯崎さんも「二重スパイ的」だということを、この間、講談社のウェブ記事に書きましたけれども*27、そういうところがあるんですよ。橋川文三も二重スパイ的だしね。橋川は三島由紀夫から「あなた二重スパイですね」って言われたから。

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『政治の美学──権力と表象』東京大学出版会、2008年(増補新装版、2025年)

*27 田中純「【田中純著『磯崎新論』刊行記念エッセイ】二重スパイをめぐる冒険活劇として」「現代ビジネス」講談社、2024年、URL=https://gendai.media/articles/-/142814

つまり、美と政治の間での二重スパイ。ボウイはロックと反ロックの間だし、磯崎さんは建築と反建築。ヴァールブルクもそんなようなもので、ユダヤとイタリアの二重スパイとも言えるし、ある種どっちつかずだったから苦しんだ。ヴァールブルクは学術の「境界監視人」を批判した人だったけれど、あらゆる境界の監視人を排除するなんてことはできないわけだから、結局境界そのものに立つか、境界を一瞬消し去った何もないところに臨時的に立つしかない。二重スパイというのはある意味で、そういう境界を紛らかした、境界を消し去ろうとする者たちですよね。その種の二重スパイのラディカリズムにどうしようもなく惹かれてしまうところがある。そういう意味で自分に似たところがある。結局だから、さっきも言いましたように、徹底して距離を取っているように見えながら、神話的なものへ導こうとしているところが、二重スパイ的な誘惑者であろうとしていることであり、そういうものが好きなわけです。

 これは質問として成立するかどうか怪しいところでもあるんですが、さきほど女性についての問題がありましたが、田中先生が「評伝的なもの」で扱われる人々には、両性具有性という論点も通じているような気がします。磯崎さんに関してもそうでしたし、クラヴェルもボウイもそのあたりについて論じてられますね。

田中 それはありますね。まあそれは意識してはやっていないけれども、なぜか見えてきてしまうところではある。

 また、そこはオブセッションと密接に結びついているわけですね。

田中 そうかもしれない。まあそれも、言わば、男女の二重スパイ性というわけで、どっちつかずということなんで……。対象選択の時点でそういうものを僕は嗅ぎ取っているのかもしれないし、誰しもあるそういう部分を浮かび上がらせているのかもしれない。

目下進行中の『1900年前後のベルリンの幼年時代』の翻訳について

 さっき『アウステルリッツ』のお話のなかで、ベンヤミンの伝記の話がありましたね。「この人について書きたいという瞬間がある」とおっしゃいましたが、今後そういう人が有り得るのかということをお伺いしたいと思います。いまちょうどベンヤミンの『1900年前後のベルリンの幼年時代』の翻訳をされているそうですね。

田中 ええ。翻訳自体はもう終わって、いま評釈をつけているんですけれど、ベンヤミンの『1900年前後のベルリン幼年時代』というのは、確実に彼自身の自伝でもあるわけです。こう言うと、「自伝ではない」という声が独文方面から聞こえてきそうだし、そういう自伝的な要素を、彼は書き直しているうちにどんどん削って、寓話みたいにしていった事実はあるんですけれど、とにかくそこには伝記的な要素がある。「1900年前後のベルリン」と時代と場所が特定されているからには、「1900年前後のベルリン」について知る必要が絶対にあるわけです。その作業をやるためにいま評釈を書いています。ベンヤミンは『1900年前後のベルリンの幼年時代』をひとつの都市論として書いている。つまり、幼年時代を分析することによって、都市をどのように語るか、かつ、どのように過去の都市、過去のイメージというものに接近する糸口をつくるか、ということを一生懸命考えていると思うわけです。自分が幼年時代をどのように経験していたかを回想すること、たとえば、カイザーパノラマというステレオスコープを覗き込む装置で見た異郷の風景が子供時代の自分にどのように経験されたか回想することを通じて、自分は都市イメージをどのように経験し、そこからどのようにイマジネーションを広げていったかを自己分析しているわけです。その自己分析の過程自体をこの作品のなかから読み取っていかなくてはいけないし、それは都市論の方法と書法を読み取っていくことになる。だからこれは僕にとって都市論の延長でもあるわけです。僕の『都市の詩学』は、かなりベンヤミンのこの作品の影響下に書かれているから。だから、この作業は僕にとっては、ベンヤミンの作品の翻訳の注釈であると同時に、書き手としてのベンヤミンのテキストの分析であり、また、そこから新たな都市論の方法と書法を読み取ることであって、少なくとも三重くらいに重層化している。この延長線上では、僕自身の幼年時代をどう読むかという自伝的な方法への糸口にもしたいと考えています。

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『都市の詩学──場所の記憶と徴候』東京大学出版会、2007年(増補新装版、2025年)

これは言い忘れましたけれど、ヴァールブルクを書くときに念頭にあったのはピエール・クロソウスキーの『ニーチェと悪循環』*28というニーチェ論です。ニーチェ自身『この人を見よ』という自伝を書くように、自己演出をいっぱいする人なわけです。そういうニーチェをクロソウスキーがどのように読み取ったかという研究は、ヴァールブルク論のなかで非常に参考になりました。ヴァールブルク自身にも自伝的な語りがあったし、クラヴェルもそうだった。磯崎さんもそう。ボウイもお兄さんとの関係を歌のなかに混ぜたりしていて、「自分の歌はわらべ歌がモチーフになっている」と告白するのも、やっぱり幼年時代に立ち返っているわけです。磯崎さんもとくに後年はそういうところがあって、常に自分に立ち返って反芻していた。僕はベンヤミンを直接論じることを徹底して避けてきましたが、このベンヤミンの作品に向き合って、いま申し上げたような自伝的な構造を読み解いてみたいというのが翻訳の趣旨です。だから単なる翻訳ではないし、単なる『ベルリンの幼年時代』論ではない。

*28 Pierre Klossowski, Nietzsche et le cercle vicieux, Paris: Mercure de France, 1978. 邦訳=ピエール・クロソウスキー『ニーチェと悪循環』兼子正勝訳、筑摩書房、1989年。文庫版、2004年。

 そうしますと、今後、田中先生ご自身の自伝もありえるのでしょうか。

田中 そうですね。『ベルリンの幼年時代』が要求してくるものとして、僕もやっぱりそういう自伝的回想の「経験」をしないといけないと思うわけです。でも、ベンヤミンみたいにやろうと思ってもなかなか難しいんですよ。彼もかなりつくっているところはあると思うんだけれど、彼の場合、同じ都市に長く生きて、そこから亡命して決定的に離れなきゃいけなかった。『ベルリンの幼年時代』の最初のタイプ稿ができたのは1933年2月です。彼はその前年くらいから書いているわけですけど、これはナチが政権をとるプロセスだから、もうドイツに長くいられないことはその段階で分かっていたと思う。最後のタイプ稿をパリでつくったときは亡命の途上にあったわけで、そういう亡命みたいな切断の経験がないと、あそこまで克明に子供時代を思い出せないと思うんだよね。そういうある種の不可能性の認識も含めると、僕自身が自伝を書くというのは面映ゆいというか、おこがましい……。でも、自分自身ベンヤミンにならって、やはり何か回想の行為をやってみなければいけないとは思っています。誰にも読ませませんけれど、そういうものは書いてみたいとは思っています。

表象文化論でこそ多木浩二の「評伝」が書かれるべき

田中 それから、これは僕が書くわけではないのですが、数年前の表象文化論学会の大会で渡邊守章先生の追悼企画があったときに会場で発言したように、表象文化論のゴッドファザーである渡邊先生の評伝は、渡邊先生の下で表象文化論を学んだどなたかが必ず書くべきことだと思っています。それと、これも僕が書くということじゃないけれど、ぜひ表象文化論の人にやってほしいのは多木浩二さんの評伝です。まず第一に、いまはあまり読まれていないかもしれないけれど、多木さんはきわめて重要な批評家・理論家だったので、その再評価が急務だからです。そのための方法が評伝である理由はあとで触れるとして、多木さんの評伝は、それこそ表象文化論の人じゃないと書けないと思うんです。多木さんは広島の海軍兵学校出身なんですね。で、原爆を本当に近くで見ていて、原爆直後の広島を通って兵庫に帰ったりだとか、すごいトラウマ的な経験をしているんだけれど、本人はあまり語っていない。よく知られているように、彼は晩年にベンヤミンやその歴史哲学をしばしば論じていますけれど、その背景には磯崎さんとかなり共通する廃墟経験があった。ただ、やっぱり磯崎さんとは根本的なところで違う。良くも悪くも、多木さんが晩年いわゆる「岩波知識人」みたいになっちゃったところは、同じく岩波の『へるめす』なんかに関わったとは言え、磯崎さんが最後まで二重スパイ的だったところとは違うと思う。でも、多木さんにもどこかデモーニッシュな部分が秘められていて、中平卓馬らと一緒につくった『provoke』という写真家集団の一員だったし、他方、広島の海軍兵学校出身ということもあり、後年にいたっても、キャプテン・クックという船乗りの生涯を取り上げるかたちで、自分の幼年時代、少年時代の欲望というものにものすごく忠実だった。そういうところも含めて、多木さんの一生を「評伝」みたいなかたちで追跡することには大きな価値があると思うんです。業績の表面だけからは明晰な知性に見える多木浩二に確実に存在した、僕らの知らない不透明な側面は「評伝」という形式でないと書けないと思う。残された著作の幅の広さだけにとどまらず、その思想の深みまで考えると、写真や建築、都市といった彼が論じた個別分野のみを研究している人が対象にして評伝を書ける人物じゃないし、表象文化論的な、ある種ジャンル分けみたいなことにあまり関係のない人たちこそが扱える人物、扱うべき人物だと思います。学問的な伝統からしても、いわば伝統ならざる伝統があるとすれば、多木浩二には表象文化論が継承すべきものが多々ある。そのことはこの場で申し上げておこうと思います。

アーカイヴに潜りこむこと

菊間 すでに非常に充実したお話を伺えたので、私からはひとつだけ。自分が大江健三郎の研究をしているということもあってお伺いしたいことがあります。私は、それは明らかに幻想だということは分かっているんですけれども、選ばれた感覚というか使命感というか、そのようなものをモチベーションにして、これまで大江の研究を続けてきたところがあります。またその一環で、東京大学に寄託された大江の自筆原稿のアーカイヴ調査も進めているところです。しかし、自分がこの先さらに調査をしていくなかで、ちゃんと「これだ!」と思える何かを、アーカイヴのなかで掴める瞬間が訪れるんだろうか、という不安がよぎることがあるんです。田中先生は、調査・研究のプロセスにおいていつもそういうものをしっかりと掴まれる方だと思いますし、それが書物からも伝わってくるんですけれども、それは偶然なのか、それとも何かコツというか、心掛けていらっしゃることがあるのか、教えていただけたら嬉しいです。

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田中 まあこれはクリナメンなので、かなりの部分は運だと思うんですよ。それは客観的に見てどうかということよりも、自分が心底「これだ!」と思わなきゃいけないわけだから。まずは探索すべきアーカイヴが見つかって、ある種の評伝的な仕事をしていくなり、研究していくなかで生まれる具体的なコンテクストのなかでこそ、手がかりが、ないしは手がかりの手がかりがはっきり立ちあらわれてくるわけです。「誰かの自筆原稿が見つかりました」とか、そういったことは客観的な発見だけれども、あくまでここで重要なのはもっと個人的な、特定のコンテクストにおける発見ですから。「運」と申し上げたのは、単なるまったくの偶然ということではなくて、そういうコンテクストをどのようにアーカイヴとの関係でつくり上げていくかということだと思うんですね。それはやはり地道にやるしかないとしか言いようがない。『過去に触れる』のなかでも引きましたけれども、アルレット・ファルジュという人が『アーカイヴの魅惑』という本*29のなかで、アーカイヴで仕事することはアーカイヴのなかに沈み込むような経験だと言っていますが、それは本当に、肉体的に接するくらいの近さで接しているから展望が効かないわけですよ。「あそこにある」というふうに、はっきりとは見えない。見えないけれど、その潜水状態のようなアーカイヴのなか、あるいは、地中にいて掘り進むような具合でやっていくことでやっと何か見つかるという感じじゃないですかね。だからこれは本当に勘に頼った経験則。何とかそれが見つかりそうなところを手繰っていくしかないです。

*29 Arlette Farge, Le goût de l’archive, Paris: Seuil, 1989.

あんまりみんな褒めてくれないんだけれど(笑)、『磯崎新論』に磯崎が学生時代に同人誌に書いたイラストを発見して載せていますが、あれ結構苦労したんですよね。文学館で色々な同人誌の目次を出してもらって調べるとか、下手な鉄砲じゃないけれど、全然当たらない鉄砲を打ったあとで、たしか野間宏つながりで調べれば分かると気づいた。当時、東大生の有名な同人誌はこれだ、と思って、あとは掘って行った。まあ泥臭い作業ですよ。それは歴史研究の人たちがみんなやっていることですけどもね。近道はない。ないけれど潜ること自体は面白いことなんで、その経験には発見の経験則的な勘を磨く価値があるんじゃないでしょうか。

 大変刺激的なお話を詳しくしていただき、ありがとうございました。ベンヤミンの翻訳はもちろん、今後、さらに先生がどのような著述活動を展開されていくのか、楽しみでなりません。今日はありがとうございました。

(2025年4月13日、東京大学本郷キャンパスにて)

構成:原瑠璃彦
注釈:原瑠璃彦、二宮望
撮影:木下紗耶子

広報委員長:原瑠璃彦
広報委員:居村匠、岡本佳子、菊間晴子、角尾宣信、堀切克洋、二宮望
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2025年6月29日 発行