研究ノート

ダンスの環境的転回に関する試論 タスク、スコア、あるいは不服従な運動

吉田駿太朗

はじめに

「Choreopolice and Choreopolitics; or, The Task of the Dancer(コレオポリスとコレオポリティクス、あるいはダンサーのタスク)」*1において、ダンス研究者アンドレ・レペッキは、振付の支配的な動きの流れに対抗して、ダンス研究にコレオポリティクス(Choreopolitics)という概念を導入している。ここで接頭語「Choreo-」に少し触れておきたい。この語は、「コレオグラフィ(Choreography)」──ギリシャ語に由来し、「記述(図)」と「ダンス」という二つの行為を含意する──に基づいている。レペッキの理論において、コレオポリスは、近代以降に身体の動きを細かく制御・管理する政治的技術を指す一方で、コレオポリティクスは、そのような制御から解放される多種多様な身振りの可能性を開くものであり、比喩的に言えば、人びとが自由に動き、政治的に動くことを経験し、試みることのできる運動空間の創出とは何かを問うている。

*1 André Lepecki, “Choreopolice and Choreopolitics: or, the task of the dancer,” TDR/The Drama Review (2013) 57 (4 (220)): 13–27.

本稿では、レペッキの問題提起を敷衍し、振付家の意図する枠組みから逸脱するような「誤動」*2の概念を、振付家と人間以外の存在の関係性という視座から再考する。そのうえで、より広義の「環境パフォーマンス」への転換を試み、ダンスの実践的な問いをあらためて立ち上げたい。ここでいう環境パフォーマンスとは、欧米圏の文脈において議論される自然環境や生態系、あるいは人間以外の生物・無生物との関係性を探究するパフォーミング・アーツおよびパフォーマンス・アートの実践および理論的枠組みである。これは、人間中心的な振付や知覚の前提を問い直しながら、身体と自然との共鳴的な関係性を創出・再編成しようとする試みであり、同時に、ダンスにおける批判的・創造的実践の新たな地平を切り開こうとするものでもある。

*2 誤動は参加型の振付実践において次のように定義している。「参加者の主体性から派⽣する振付家から⾒た偶発的な⾏為と、参加者⾃らが派⽣させる⾮意識的な⾝体運動の織りなす、偶然的な⾝体運動の概念であり、 従来の制限付きの偶然性とは⼀線を画すものなのである」。
Shuntaro Yoshida, 2024, Post-choreography: Jérôme Bel’s Choreography and Movement in Malfunction (London and New York: Routledge, 2024), 138−39.

人外の振付の存在の有無とは*3

人外の振付の存在の有無を検討するにあたり、ダンス・演劇批評家マーシャ・ラディ・ブーの「エコロジカル・コレオグラフィー(ecological choreography)」という概念を参照する。この概念は、単に生態学的な「気づきの体験」にとどまらず、未来の生態系を見据た想像力に基づくものである。ブーの言及する「ジオロケーション・サウンドウォーク」という作品は、音の散策という形式を取りながら、人類不在のポスト・アポカリプス的時間を聴覚的に想起させる。2020年3月から9月のロックダウン期間中に制作された音源は、鉄道の軋む音やアナウンスといった人間活動の痕跡と、小鳥のさえずりなど自然音とが混在している。ブーが提唱する振付の意義は、「人間と人間以外の存在のあいだの価値の区別が曖昧になるという(ユートピア的な)考え」に重きが与えられる*4。コロナ禍で制作されたサウンドウォーク作品では、地域の境界線や人間と人間以外のものの区分が意図的に撹乱され、それにより振付の枠組み自体が再構成・方向転換される。参加者は録音された音源を聴きながら歩く実践を通して、環境や空間、さらには人間以外の存在との関係性のなかで動きそのものを再定義されるように促される。

*3 本章は「YOKOHAMA DANCE COLLECTION 2023」に寄稿した以下の論考を基盤に、その議論をさらに展開させたものである。
吉田駿太朗「身体と自然への振付、共鳴するダンス──環境パフォーマンスの視点から──『ダンコレマガジン』、2023年12月16日、1〜7頁。
*4 Maša Radi Buh, “Geolocational Soundwalk as Ecological Choreography: Walking and Listening towards Ecological Awareness,” MASKA Časopis za scenske umetnosti / Performing Arts Journal (2022) 211–212: 48.

では、20世紀以降のダンス史において人間以外の存在との関係性の中から生まれる動きとはどのように実践されてきたのだろうか。その出発点としてまず言及すべきは、20世紀初頭のアメリカ人ダンサー・振付家イザドラ・ダンカンの実践である。ダンカンは「自然を唯一の教師」と見なし、大地のエネルギーを身体を通じて発散させることを特徴とした。バレエの形式的制約に対する反抗として、裸足で踊るという象徴的選択を通じて、自然との共振を目指したダンカンのアプローチは、モダンダンスの出発点となった。その動きは、自然の模倣を通じて内的感情を解放し、人間と自然の呼応的な関係を刷新する試みであった。そこには、都市生活からの解放と自然への憧憬とが色濃く表出していたと言える。

こうした「自然との同調」という思想は1960年代のアメリカにおいて、振付家/ダンサーのアンナ・ハルプリンによって新たな展開を見せる。特に、建築家である夫ローレンス・ハルプリンが設計した森林に囲まれたダンス・デッキにおける動きの探求が挙げられる。ハルプリンは環境への意識に焦点を当て、自身の動きとそれが環境にどのように反応するかという身体的な意識を通じて、人間の身体と自然環境との関係性について実験を模索した*5。ローレンス・ハルプリンは、訪問者やダンサーのための庭を設計し、また、両者はスコア(指示書)を記述し、自然との関係性をダンスにおいて追求した点において、その実践は相互に通じ合うものがあった。 たとえば、1997年から2000年にかけてアンナ・ハルプリンがエオ・スタブルフィールドと共に制作した《Still Dance》シリーズ(「Driftwood Series(流木シリーズ)」「Mud Series(泥シリーズ)」など)は、特定のロケーションの選定と、その場所に応じたスコアの構成を通じて、自然環境と身体との応答的な関係を創出する試みであった。これらのパフォーマンスにおいて、ハルプリンは裸体に着色を施し、ときに小枝や苔、泥などをまといながら、風景に擬態するように動く。こうしたパフォーマンスでは、単なる視覚的融合を超えて、自然とのデュエットを形成している。ハルプリンの実践は、自身の身体をあえて日常的文脈から外し、環境に馴染ませる身体的な訓練としても機能したのである。

*5 Arden Thomas, “Stillness in Nature: Eeo Stubblefield’s Still Dance with Anna Halprin,” in Readings in Performance and Ecology, ed. Wendy Arons and Theresa J. May (New York: Palgrave Macmillan US, 2012), 113–124.

世代間の隔たりはあるものの、ハルプリンの系譜を受け継ぐ現代の振付家の一人に、ジェニファー・モンソンがいる。モンソンの「iLandInterdisciplinary Laboratory for Art, Nature, and Dance)(芸術、自然、ダンスのための学際的な実験)」での実践は主に地元のコミュニティガーデンや都市の屋上といった場所をワークプレースとして、異なる分野の専門家との集団創作へと誘う。たとえば、ダンサーと魚類学者、建築家と在来植物のキュレーターが一緒にウォーミングアップを行い、現場でのやりとりのなかで身体を動かしながら、振付のようなものを考える際に、場に同調することで、ダンサーは川鵜の吐物を採取し顕微鏡で観察したり、視覚芸術家は都市のネズミのDNA配列や異なるネズミのコミュニティにおける遺伝的多様性のグラフを取る方法を学んだりすることもある。リサーチ過程において、もつれや苛立ち、あるいは予期せぬ誤解や遅々とした進展がしばしば生じることをモンソンは指摘し、一見すると障害となる動きこそが、創造的な再編のきっかけとなりうることを示している。

モンソンのプロジェクトで活用されるスコア(短文の文章で構成されるダンスの指示書)*6は、多くの場合、感覚的なアプローチによる観察と傾聴から始まり、場や目の前の研究対象に同調(tuning)する方法を提供する。そこには、参加者間の関係性と生態的条件を活性化させるための一連の指示が含みこまれている。

*6 モンソンはスコアを次のように定義している。「スコアとは世界の事象を記録し、未来に活かす運動や感覚を保存する。音楽では記譜法を指すが、即興ダンスではリサーチやパフォーマンスの再訪を可能にするツールとなる。(中略)スコアは都市エコロジーの実践的な記録であり、未来の協働を促すガイドブックでもある。これは、反復可能な記録と予測不能な結果を生む即興ダンスと科学実験の枠組みをもたらす。」
Kate Cachill, Carolyn Hall, Julia Handschuh, Elliott Maltby, Jennifer Monson and Meredith Talusana Ramirez (eds.), A Field Guide to iLanding: Scores for Researching Urban Ecologies (New York: 53rd State, 2017), 2.

スコアの一例を以下に紹介する。

17 // 音の散歩―近くと遠く
参加者数の限定無し

輪になって、最も近くに聴こえる音に耳を傾ける。その次に最も遠くに聴こえる音を聴いてみる。その中間にある音にも注意を向ける。

グループで遠くの決められた場所に歩いて向かう。目的地までのルートを自由に選びましょう。

歩きながら、音に意識を向け、その音に集中する。音がどこから聴こえるのかに注意を向ける(遠い場所からか、近い場所からか)。音の重なりに注意を向ける(一つの音なのか、複数の音なのか)。その音を出すものは機械なのか、自然なのかを観察する。

一つの音に集中し、視点を変えたいと思ったら、新しい音に焦点を変えていく。先ほどの行為(音の位置、重なりなど)を繰り返す。

グループが目的地に到着したら、数分間、横になるか座って休む。

散歩中に聞いた音について話し合う。どの音を複数の人が一緒に聞いたのか?どの音を一人だけが聞いたのか?特定の音が曖昧で、異なる人によって同じように聴こえなかった場合はあったか?

私たちの聴く行為は、時間とともに空間の感じ方をどのように変化させるのかを考える。

iLANDプロジェクト、2010年
SIP (Sustained Immersive Process) / Watershed*7

*7 翻訳は、筆者及び野辺優子による。
Kate Cachill, Carolyn Hall, Julia Handschuh, Elliott Maltby, Jennifer Monson and Meredith Talusana Ramirez (eds.), A Field Guide to iLanding: Scores for Researching Urban Ecologies (New York: 53rd State, 2017), 34.

上記のスコアを実践する際に考慮されることは、行為者が自己以外の動きとの関係性をいかに認識し、外部環境に存在する音や動きといかに共振的に関わるかという点である。音楽家ポーリン・オリヴェロスが述べるように、スコアの実践者は「単なる解釈者」ではなく、「創造者」としての能動性をもつ。モンソンのスコアもまた、人間の身体が環境パフォーマンスをいかに取り込み、いかにその枠組みによって逆に変容させられるかを問うものである*8

*8 Pauline Oliveros, Anthology of Text Scores (New York: Deep Listening Publications, 2013, v–vi.

こうしたスコアによる探究の背景には、ローレンス・ハルプリンによる「RSVPサイクル」の構想がある。建築家であり、振付家アンナ・ハルプリンのパートナーでもあったローレンスは、創造的プロセスを「Resources(資源)」「Scores(スコア)」「Valuaction(価値評価)」「Performance(実行)」の4要素から成る循環として捉え、それぞれを柔軟に往還しながら、フィードバックを繰り返していく枠組みを提示した。とりわけ「スコア」は、環境や他者との相互作用を含む「場の条件」に対して、感覚的かつ分析的に関与するための指針となるものとして位置づけられている。

私自身の作業においてつまずきが生じるのは、たいてい自分でも理解できず、取り除くことのできない何らかの「埋もれた障害」が存在するときである。けれども、その障害が「見える」ようになり、自分を妨げているものに気づくことができれば、対処することが可能となる。RSVPサイクルは、そうした障害を明らかにする手助けをしてくれるのではないかと期待している*9

*9 Lawrence Halprin, THE RSVP Cycles: Creative Processes in the Human Environment (New York: George Braziller, 1970), 3.

この「障害」とは、モンソンの場の実践においてもしばしば登場する「もつれ」や「苛立ち」、「誤解」などと限りなく近い意味であろう。RSVPサイクルはそれらを「乗り越えるべきもの」としてではなく、むしろ創造を触発する要素として捉え直す契機を与える。すなわち、スコアを通して、行為者が外部環境との関係を再調整し、共振的に応答していく迂回路こそが、環境的な振付における「誤動」にほかならないのである。

惑星的親族関係の振付へ──誤動と共にある創造

筆者は2024年に初めての単著「Post-choreography: Jérôme Bel’s Choreography and Movement in Malfunction」を上梓した。本書の中心には「誤動(movement in malfunction)」という鍵概念があるが、ここであえて自戒を込めて言えば、その論じ方は関係性という観点から人間中心的な視点からのものにとどまっていたと認めざるを得ない。しかしながら、振付をめぐる語りは上記のような「生態的な気づき」を介することで、「人外の存在による振付の余地」をどう捉えるのかという問いを実践的な側面から再検討させる。すなわち、「誤動」は単なる外部の偶発的な(身体)運動ではなく、人間と人外の存在との間に生起する共振的な運動であり、その関係性を身体的に読み解く鍵概念となりうるのである。

本稿を通じて探求したのは、今日のダンスと振付をめぐる思考が、いまや人間の知覚や意図、技術の枠組みのなかで完結するものではなくなりつつあるということである。むしろ、振付とはローカルな、自然環境、動植物、鉱物、音、重力、そして不可視な存在も含む「異質な他者(alien)」との応答のプロセスであり、それはしばしば「誤動」や「障害」と呼ばれる逸脱によって触発される。こうした逸脱は、人間中心的な秩序を乱すものではなく、それ自体が新たな振付的可能性を開き直す。

前章で論じたRSVPサイクルからジェニファー・モンソンの実践に至る流れの中で今一度見直すと、アメリカのダンスの文脈において、創造のプロセスは、既存のスコアに従って動きを「解釈」することではなく、環境との相互作用の中で予測不能な障害を引き受け、それを感受し、応答することにある。その応答は、ポーリン・オリヴェロスの「ディープ・リスニング」に通じるような深い聴取から「振付」という行為へとアップデートされることで、他者との関係性の中で生成される(不服従な)運動として定義できる。

こうした環境的な振付において、人間はもはや「振り付ける主体」ではなく、「振り付けられる主体」であり、「共に振付する者」でもあり、地球という惑星的存在の一部として、多種多様な存在とともに、生き、動き、変化する存在である。その中で現れる「誤動」とは、人間が制御できない出来事の名ではなく、より広い共振系に自らを接続する契機であり、異質な他者とともに生きる倫理的感受性を呼び起こす運動の形式なのである。

ただし、ここで注意すべきは、ポストヒューマン現象学や詩的実践においてニーナ・リュッケが指摘するように、異質な他者を擬人化するリスクと、逆に完全に理解不能な異質な他者として距離を取りすぎるリスク、これらの二重の罠を回避する必要があるという点である*10。この批判的視点を踏まえた上で、「誤動」がいかに創作の過程において倫理的な繊細さを示しうるか、その可能性を見極めねばならない。

*10 Nina Lykke, “More-than-Human Ethics and Poetics,” in Feminist Reconfigurings of Alien Encounters: Ethical Co-Existence in More- than-Human Worlds, ed. Nina Lykke, Katja Aglert, Line Henriksen (London and New York: Routledge, 2024), 80–84.

いずれにせよ、このような批判的視点を導入することで、「惑星的親族関係(planetary kinship)」の再学習が、振付実践において重要なタスクとなる。「惑星的親族関係」は、人間を特権的存在とする近代的思考から離れ、人間と人間以外の存在──動植物、鉱物、気象、微生物といった他なるもの──との間にある共生的なつながりを再発見し、倫理的な共振性を身体的に編み直すことである。ダンスにおいては、そうした関係性を身体のレベルで試み、実験し、記述するためのメディアとなる。「誤動」はそのなかで、逸脱であると同時に、惑星的共振へと向かう創造の回路として位置づけられる*11

*11 すでに述べたニーナ・リュッケによる詩的実践や、筆者がかつて参加したアート・コレクティブにおける人外の振付をめぐる創作プロセスの詳細な検討も、本論の文脈に連なるが、ここでは紙幅の都合により割愛する。
Shuntaro Yoshida, Alex Viteri Arturo, Catalina Fernandez, Maharu Maeno, Jun Yamaguchi, Mapped to the Closest Address “Living archival practice and the choreographical navigations: Encounters and approaches with other-than-human persons,” Open Research Europe (4):171, DOI: https://doi.org/10.12688/openreseurope.17447.1.

したがって、「環境パフォーマンス」という視点に立つことで、ダンスはもはや単なる芸術表現としてではなく、異質な他者との関係を築き直し、倫理的に応答し、私たちの感覚そのものを再編成するための実践として捉え直すことができるだろう。換言するならば、こうした視座の転回を通じて、ダンスは人間と人外のものがともに生きる惑星的な共振の場へと開かれた、批判的かつ創造的な行為となるのである。

おわりに

本稿では、「誤動」という概念を人間と人外の関係性の文脈において環境的な振付との結びつきから再考しようと試みた。その上で、本試論を次のような仮説的定義によって締めくくりたい。

誤動とは、人間が環境や人外の存在に接触するなかで派生させる運動と、人外の振付から生成される運動の織りなす、共振体としての運動の概念であり、従来の制御可能な動きを不服従な動きへと転換させる試みである。

なお、本論で提示した「誤動」は、環境との共振的応答を強調するものである点で、ダンスの文脈で語られる「アフォーダンス(affordance)」の概念とどのように関与しているのかを簡単に以下に記しておく。アフォーダンスは主に知覚主体によって「可能にされる」行為性の構造を示すのに対し、「誤動」はむしろ主体と環境との境界があいまいになり、意図せざる関係性や障害、ズレから生じる運動に価値を置く。言い換えれば、アフォーダンスが環境の「与える」行為の可能性であるとするならば、誤動は、環境との関係性のなかで不可避に生じる逸脱や誤作動が、振付的な再編を導く点において、その応答性と倫理性において差異を持つのである。

※本稿の執筆にあたり、ダンスドラマトゥルク/研究者の呉宮百合香氏、関西ダンス研究会の皆さまより貴重なご助言を賜りました。この場を借りて、心より御礼申し上げます。
また、本研究は、2025年度にEUの助成を受けて採択された研究プロジェクト「Environmental Turn of Dance: Convergence of Therapeutic Practice, Art Creation with AI and Community Practice(ETD)」へと継続されていく予定です。

広報委員長:原瑠璃彦
広報委員:居村匠、岡本佳子、菊間晴子、角尾宣信、堀切克洋、二宮望
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2025年6月29日 発行