小特集:「評伝的なるもの」をめぐって

寄稿1 九鬼周造の生涯と作品

星野太(東京大学)

このたび「評伝」というテーマで『REPRE』への寄稿依頼を受け取ったとき、まずは大いに恐縮してしまった。今回わたしに白羽の矢が立った理由は、『群像』で「九鬼周造」という連載を始めたからなのだろうが、この文章を書いている時点でまだ2回分(2025年1月号および4月号)が掲載されるにとどまっており、とてもその来し方を振り返るといった段階にない。ただ、とにもかくにも引き受けてしまったので、この場では本連載を開始するにあたって、わたしがみずからに課した心構えのようなものを書き連ねることをお許し願いたい。

いましがたのべたように、「九鬼周造」は『群像』という月刊誌の連載であり、基本的には隔月のペースで毎回40枚の原稿を載せてもらう約束になっている。ただし、連載開始までにわたしがかなりの時間を浪費してしまったこともあり、数回の不定期掲載(2025年1月号、4月号)を経て、今年の8月号から本来の連載ペースにのる予定である。この点については担当編集者をはじめ、関係する方々にはお詫びの言葉もない。

さて、この連載には「評伝」という言葉こそ冠していないが、基本的には哲学者・九鬼周造(1888-1941)の書いたテクストを時系列順に論じながら、かれの実人生についても必要な範囲で記述を確保するようにしている。つまり本連載は、九鬼の哲学的アーギュメントのみをひたすらに論じる、という格好にはなっていない。

そのようなスタイルをとる理由は、第一に掲載媒体の性格によるものだ。いまから数年前、同じ雑誌で「食客論」という連載をしていたときに体感したことだが(『食客論』講談社、2023年)、文芸誌という媒体でひたすら思弁的な議論に邁進するというのは、明らかにその場の雰囲気になじまない。むしろそこで要求されるのは、具体的な出来事の次元と、それに較べていくぶん抽象的なお喋りの次元をいかに重ね合わせるか、という独特な技法ではないか──これはあくまで私見だが、何はともあれ人に読んでもらうのが「文」の「藝」である以上、読者の目と手を一秒でも長く自分の文章に縛りつけておかねばならない。そうした問題意識から、「食客論」では掲載誌とほぼ同一の版面をPCのモニター上に設計し、読者の視野に収まる二頁あたりの情報量や視覚的効果も含めて、議論の流れを差配していた。

そうした理由もあり、今回の「九鬼周造」論でも、この哲学者の著作物だけでなく、その周辺の人間模様にも話題を広げることははじめから織り込み済みであった。しかしその準備のために、これまで書かれてきた九鬼周造論にいろいろと目を通していくと、無性に気になることが出てきた。それは、九鬼の実人生にかんする記述が、どれもこれも判で押したように似通っていることである。

もちろん、これにはいくつかの事情がある。九鬼の生涯は、良くも悪くも耳目をひくエピソードに満ちている。それはこの哲学者の出生前から、すなわち帝国博物館の初代総長を務めた父・九鬼隆一と母・波津子、そして周造の出生直前にそこに加わった岡倉覚三(天心)の三角関係にすでに始まっていた。そればかりではない。足かけ8年におよぶヨーロッパ留学中にハイデガー、ベルクソン、サルトルといった20世紀を代表する哲学者たちとじかに親交を結んだこと、なかでもパリでは現地のさまざまな女性たちと浮名を流したこと、またさらに、帰国して京都帝国大学で教鞭をとるようになってからは、しばしば祇園から車で乗りつけて講義にむかった──そのため、講義はいつも数十分遅れて始まった──こと。九鬼について書かれた大小さまざまな文章を読んでいると、その肝心の著作物ではなく、こうした豪華絢爛と言うべき実人生をめぐるさまざまなエピソードが繰り返し語られる。その一部は、なまじ人の俗情に訴えるものとも読まれかねないだけに、拙文においてこれらを繰り返すことは避けたい、というのが正直なところだった。

ということで、本連載における九鬼の「評伝」部分は、連載初回にそのほぼすべてをいったん書き尽くしてしまうことにした。ここでは前段落で見たような紋切り型/クリシェをむしろ積極的に踏襲しつつ、そうした俗情との結託によって覆い隠されてしまうものに目をむける必要性を宣言することに大部分を費やした。そこで覆い隠されてしまうものとは、言うまでもなく九鬼のテクストそのものである。

ここに、九鬼周造について書かれた文章の多くが、どれもこれも似通った記述に終始してしまう第二の理由がある。この哲学者は腹膜炎のため53歳で没している。そのため、一般に主著と呼べる書物は『「いき」の構造』(1930)と『偶然性の問題』(1935)を数えるのみであり、それ以外の論文集や随筆集を含めても、生前の単行本は5、6冊にとどまる。のちに編纂された『九鬼周造全集』(全12巻、岩波書店、1980〜82年)の大半が講義草稿や未発表原稿のたぐいで占められているという事実が、そのことをもっとも端的に物語っていよう。

しかしわたしには、まさにここにこそ読むべきものが残されているように思われた。すなわち、天野貞祐や沢瀉久敬といった九鬼に縁ある人々の多大な努力によって残された、これらの活字化された草稿群、そして活字化こそされていないものの、甲南大学の九鬼周造文庫に適切に保存されてきた、いまだ知られざる資料群──これらを読むことなく、九鬼の実人生を飾るエピソードによってお茶を濁すことこそ、もっとも避けるべきことであるようにわたしには思われたのである。

逆説的なことだが、われわれは九鬼のテクストをふたたび読むためにこそ、その伝記的な記述についてもいまいちど批判的なまなざしを注がなければならない。これまで流通してきた、この哲学者をめぐる「客観的」事実のうち、その哲学理論との関わりにおいて、いったい何が本質的で、何が本質的でないのか。それらをいまいちど切り分けるような、そうしたクリティカルな目を養わなければならない。ひとことで言えば、九鬼のテクストを読みなおすことと、その実人生を掘りかえすことは、まったく並行的に行なわれなければならない。これこそが、わたしが「九鬼周造」を開始するにあたって自分に課した格率だった。むろん、そうした企てが成功しているかどうかは、同連載の行く末を見守ってくださる読者によって問われることになるだろう。

広報委員長:原瑠璃彦
広報委員:居村匠、岡本佳子、菊間晴子、角尾宣信、堀切克洋、二宮望
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2025年6月29日 発行