寄稿3 ラファエッロを殺した女 評伝的語りのなかのフォルナリーナ
はじめに
伝記やそれに基づくイメージは、人物の生涯を語る形式でありながら、その内実は社会文化的欲望を語る装置でもある。とくに近代以前の芸術家を対象にした伝記は、当該の芸術家を理想的な人格として神話化したり、あるいはその堕落を強調することで教訓譚として提示したりする。だが、語る主体が芸術家を「完成された人物」として提示しようとするとき、そこには必ず実際の人物像とのズレが生じ、その歪みがフィクションとなって現れる。
本稿では、このような語りの構造を浮き彫りにする人物として、ラファエッロ・サンツィオ(1483-1520)という「完璧な芸術家」に愛されたとされる一人の女性、フォルナリーナを取り上げたい。彼女は、画家の愛人として、霊感の源として、あるいは画家を破滅に導く者としてさまざまに語られてきた。だが、実のところ、この女性が存在したかどうかさえ明確には分かっていないのだ。以下、ヴァザーリの評伝における最初の言及から19世紀の神話化、そして現代の批評的再読解に至るまで、フォルナリーナがどのようにラファエッロ神話のアポリアとなってきたのかを跡づける。
なお、ここでの考察は語りの枠組みや表象の力学に焦点を当て、フォルナリーナという存在を文化的に構築され変奏されてきた「語りの場」として捉える。したがって、フォルナリーナという女性の実在をめぐる史実の解明には深入りしない点をおことわりしておく。
1 ラファエッロの名もなき愛人──ヴァザーリの伝記記述
フォルナリーナという語られざる存在が最初に伝記に姿を現すのは、ジョルジョ・ヴァザーリの『美術家列伝』(初版1550、第二版1568)におけるラファエッロ伝においてである。ヴァザーリはラファエッロ伝の終盤に、画家が死に至るプロセスとして以下のような記述を残している。
一方ラファエッロはというと、その間も相変わらず密かな恋愛沙汰に余念がなく、いささか度を超して情事に励んでいた。あるとき、いつも以上に激しい情事を楽しんだ後、高熱に襲われて帰宅するに及んで、医者たちはてっきり彼が熱病にかかったと思い込んだ。彼は自分がはめを外したことを話さなかったため、医者たちは軽率にも放血を施し、本来ならば滋養が必要なところをいっそう衰弱させてしまい、ついにラファエッロは自分の死期が近いことを感じとった。*1
*1 ジョルジョ・ヴァザーリ『美術家列伝』第3巻、森田義之・越川倫明・甲斐教行・宮下規久朗・高梨光正監訳、中央公論美術出版、2015年、192頁
この女性はここでは名前を与えられず、ただ愛人として示される。彼女はヴァザーリの語りの中で、ラファエッロの死を招いた原因として機能する一方で、その人物像はあえて曖昧に保たれているのだ。伝記において主題化されるのは、あくまで「語るに値する人物=英雄」であり、それ以外の人物は、たとえ死因に関わるほどの存在であっても、物語の背景として処理される。
ヴァザーリは、ラファエッロを神に等しい才能をもった人物と形容し、彼の技量の高さ、高貴な振る舞い、親切心、善良さを称賛している。そのような人物が「激しい情事」に倒れたという物語は、神話的芸術家像に後ろ暗いところを与えてしまうだろう。こうした問題を回避し、あくまで神話の一部として収めるため、ヴァザーリは愛人のアイデンティティには深く踏み込まず、相手の女性を記号化された他者にとどまらせるという手法を取った。こうして、ラファエッロの死は過剰な愛の寓話とされ、彼の人格を脅かすものではなく、むしろ人間的魅力の証左として処理された。女性の存在はそのための物語装置となる。
とはいえ、こうした処理はあまり成功したとは言えない。実際、この逸話はのちの時代の美術愛好家たちをおおいに困惑させることとなったのだ。理想と模範を体現したはずのラファエッロが、愛人との逢瀬で死ぬとはいったいどういうことなのか? この「語られざる女性」は、18世紀以降の美術史において徐々に「フォルナリーナ(パン屋の娘)」という名称と結びつき、特定の絵画──すなわちラファエッロ作とされる《ラ・フォルナリーナ》(図1)──と重ねられていくことになる。その過程において、名前を持たぬ匿名の存在は、かえって過剰な意味を帯びるようになっていく。
図1 ラファエッロ・サンティ《ラ・フォルナリーナ》1518-19年、板に油彩、ローマ、国立古典絵画館蔵
2 「天才殺しの女」としての神話──19世紀の道徳化とロマン主義
18世紀後半から19世紀にかけて、ラファエッロの名もなき愛人は、次第に「ラ・フォルナリーナ」として特定のモデルや絵画と結びつけられるようになり、その道徳的意味づけも変化していく。とりわけ19世紀的価値観のもとで、彼女は芸術家の死を招いた「危険な女」として、糾弾と幻想化の両義的な対象となった。
18世紀から19世紀にかけて頻繁に制作された、過去の芸術家の逸話を主題とした美術作品において、ラファエッロとフォルナリーナの親密な関係を取り上げたものは少なくない*2。とりわけ有名なものとして、フランスの画家ドミニク・アングルの《ラファエッロとフォルナリーナ》(図2)がまず思い浮かぶだろう。この作品でアングルは、芸術家のアトリエという空間における創造と欲望の絡まりを可視化している*3。イギリスの画家ウィリアム・ターナーもまた、ラファエッロとフォルナリーナを主題とする作品を制作している。《ヴァチカンから望むローマ》(図3)において、フォルナリーナとラファエッロがともにヴァチカンのロッジャにいるところが描かれているのだ。この作品において、彼女は単なる愛人ではなく、芸術的霊感の化身として位置づけられ、記憶と創造の連関を媒介する存在となっている*4。
*2 こうした主題の絵画の歴史については、以下を参照。Michael Levy, The Painter Depicted: Painters as a Subject in Painting, New York: Thames and Hudson, 1981.
*3 サラ・ベッツァーは、この主題を「芸術家=恋人」という神話として読み解き、フォルナリーナの身体が「見る/描く/欲する」の交差点に置かれることによって、芸術の源泉でありかつ破綻の契機として機能していると指摘する。Cf. Sarah Betzer, “Artist as Lover: Rereading Ingres’s Raphael and the Fornarina”, Oxford Art Journal, vol. 38, no. 3, 2015, pp. 313–341.
*4 ロバート・マクヴォーが示すように、ターナーの構図は記憶と芸術的理想が交差する象徴的空間を形成しており、フォルナリーナはその中心的な軸をなしている。Cf. Robert E. McVaugh, “Turner and Rome, Raphael and the Fornarina”, Studies in Romanticism, vol. 26, no. 3, 1987, pp. 365–398.
図2 ドミニク・アングル《ラファエッロとフォルナリーナ》1813年、カンヴァスに油彩、ケンブリッジ、フォッグ美術館蔵
図3 ウィリアム・ターナー《ヴァチカンから望むローマ》1820年、カンヴァスに油彩、ロンドン、テート・ブリテン蔵
このように、愛人をいわゆるミューズ的な存在として捉え、芸術家に霊感を与える存在とする見方は、画家とモデルの関係性の一種のトポスとなっている。フォルナリーナはその典型例で、彼女の例のみならず、さまざまな画家について同様の物語が今も繰り返し再生産されている。
一方、フォルナリーナを糾弾するもっとも極端なケースとしては、イタリアの画家アンジェロ・コモッリが書いた文章が挙げられるだろう。コモッリはヴァザーリのラファエッロ伝を読み、以下のように記した。
何という屈辱の道具立てだろう! ウルビーノのラファエッロ、この世の最高の画家、その時代の最も優れた天才、あらゆる徳において最も尊敬すべき人物が、栄光の頂点に立っていたまさにその頃、若さの最盛期に、女の犠牲者となった…しかもなんと恐ろしい女か!*5
*5 Angelo Comolli, Vita inedita di Raffaello da Urbino, Rome, 1790, pp. 92-93.
こうした言説はフォルナリーナを「天才殺し」、あるいは「芸術の堕落を招く誘惑者」として構築するロマン主義的想像力を典型的に示している*6。ここでフォルナリーナは、「芸術家を破滅させる女」=ファム・ファタールへと変貌しているのだ。
*6 Marie Lathers, “‘Tué par un excès d’amour’: Raphael, Balzac, Ingres”, The French Review, vol. 71, no. 4, 1998, pp. 550-564.
さらに、文学においてもフォルナリーナは再解釈されていく。オノレ・ド・バルザックの『あら皮』(1831)では、主人公ラファエル・ド・ヴァランタンが愛と欲望に身を滅ぼす過程が、明らかにラファエッロの伝記的モチーフを下敷きに構築されており、フォルナリーナ的な女性像が「愛=死=芸術の破壊」を媒介する象徴として描かれている。ここでは、女性の身体は欲望をかき立てると同時に、死を呼び寄せる「制御不能な自然」としての意味を帯びている*7。
*7 Ibid.
こうした19世紀的語りの特徴は、フォルナリーナを人間的主体として捉えるのではなく、芸術家を神話化するための装置、あるいは神話そのものの「裂け目」として扱う点にある。彼女は能動的な意思を持つ人物ではなく、ラファエッロ神話の成立を支える「影」として、その欲望や崩壊を象徴的に引き受ける。同時に、19世紀のロマン主義的芸術家像──感受性に富み、社会から理解されず、愛に殉じる天才──にとって、フォルナリーナの存在は都合のよいフィクションでもあった。このようにして、ヴァザーリが「愛人」とだけ記した空白は、19世紀の道徳的想像力とロマン主義的欲望によって埋められ、肥大化されたのである。
3 語りの構造の解体──1990年以降の批評的読解
20世紀以降、芸術家神話の解体とジェンダー批評の進展の中で、フォルナリーナという存在は再び問い直されることになった。前章においてもすでにフィクションとしてフォルナリーナを捉える観点を提示したが、フォルナリーナのような伝説的な愛人に関する史実はいったん脇に置いておき、彼女のような存在の象徴的役割を検討する論考が複数現れたのだ。そこで露わになるのは、評伝という語りの形式にみられる虚構性とそれを下支えするジェンダー観である。
たとえば、ポール・バロルスキーは美術史そのものがしばしば「詩的想像に満ちたフィクション」であることを指摘し、フォルナリーナ像の系譜が、アペレスの恋人カンパスペ、ペトラルカの恋人ラウラなどと同じく、「詩作に必要なミューズ」として繰り返し構築されてきたことを論じている*8。バロルスキーにとって、評伝はもはや事実の記録ではなく、文化的欲望を語る装置であり、その意味でフォルナリーナは歴史の被写体というよりも、欲望の投影スクリーンである。このような読みは、絵画《ラ・フォルナリーナ》のウルリヒ・フィステラーによる再解釈にも通じる。フィステラーは、この絵を単なる「愛人の肖像」としてではなく、ラファエッロ自身による自己神話化の試みと捉え、フォルナリーナを「描かれた女」ではなく「描かせた女」として再評価する*9。彼女の乳房に触れる仕草や、署名入りの腕輪といった細部は、創造的インスピレーションの源泉としての女性身体の操作とともに、芸術家の欲望と権力の発露として機能していると考えられる。
*8 Paul Barolsky, “Art History as Fiction”, Artibus et Historiae, vol. 17. No. 34, 1996, pp. 9-17.
*9 Ulrich Pfisterer, “Raffaels Muse – Erotische Inspiration in der Renaissance”, Jahrbuch der Staatlichen Kunstsammlungen Dresden, vol. 38, 2012, pp. 62-83.
バロルスキーやフィステラーのフォルナリーナ解釈は、ラファエッロという天才に愛された女が実在したか否か、彼女がどのように画家の生涯や制作に影響したかという点には力点を置いていない。むしろ、フォルナリーナを完全にフィクショナルな人物として捉え、そのキャラクターが象徴している内容に着目するものだ。こうしたフォルナリーナ像がどのような社会的背景のもと成立したのかについては、ルネサンス期イタリアにおける創造をめぐるジェンダー観が鍵となるだろう。
フレドリカ・ジェイコブズは、ルネサンス以降の創造概念がいかに性別化されていたか──すなわち、創造=形相=男性性/受動性=質料=女性性というアリストテレス的構図──を指摘し、そこに女性芸術家やミューズ像がどのように組み込まれてきたかを批判的に問い直す*10。ジェイコブズの分析は、ルネサンス期において女性芸術家がいかに当時の芸術論と矛盾する存在であったかを浮き彫りにするものだが、その思想的背景はフォルナリーナのような「霊感の女性」の表象にも敷衍できる。女性の霊感源としての位置づけもまた、能動性を奪われた制度的な構造の一部であり、フォルナリーナ像もまたその枠組みの中に閉じ込められてきたのだ。
*10 Fredrika Jacobs, Defining the Renaissance Virtuosa: Women Artists and the Language of Art History and Criticism, Cambridge University Press, 1997. とりわけ第3章 “(Pro)creativity” を参照。
このように、ここ30年ほどのあいだに提示された各種の読解は、フォルナリーナをめぐる言説そのものの構造──それがいかにして成立し、繰り返され、当然のこととして受け入れられてきたのか──を問い直してきた。彼女の像が過剰な意味を背負わされるのは偶然ではなく、ルネサンス以来のジェンダー化された創造観のうえに成り立っている。すなわち、「語られたフォルナリーナ」は、制度的ジェンダー秩序の継続と変奏の表れでもある。フォルナリーナの虚構性を批評的に解体する営みは、語りの制度そのものにひそむジェンダーの非対称性を露呈させる。評伝という形式において、「語られる女」がどのように構築されるのか。その構造に目を向けることこそが、ラファエッロ神話とその陰画としてのフォルナリーナ像を問い直す鍵となるのだ。
おわりに
フォルナリーナは、芸術家ラファエッロを語る評伝のなかで、常にその中心には据えられず、しかし周縁にもとどまりきれない存在であり続けてきた。名もなき「愛人」として始まった彼女の像は、時代ごとの欲望や規範のなかで「天才殺し」「霊感の女神」「ファム・ファタール」といった複数の意味を背負わされたのだ。このような語りの複数性は、彼女が決して一義的には語りきれない存在であることを意味する。それは単に知識の欠如ではなく、むしろ彼女がラファエッロという天才物語のなかにあってはならない不都合を押し付けるための空洞であったことの現れである。
このような視点から見たとき、フォルナリーナとは単なる芸術家の愛人でもミューズでもない。彼女は、評伝という制度の限界を内包する存在であり、断片的なエピソード群のあいだに浮かび上がる裂け目である。語りのなかで周縁化されながら、同時に不可欠な核心として機能する彼女の像は、我々に芸術家像の構築がいかに女性という他者に依存してきたかを問いかける。
フォルナリーナの沈黙とは、単なる不在ではなく、問いを生成する力である。その沈黙が、語り続けたいという欲望を喚起し、歴史のなかでさまざまなかたちを与えられてきたのである。ラファエッロ神話の影に沈むこのアポリアは、語りの制度に常に穴を穿ち続ける。だからこそ、フォルナリーナは忘れられず、繰り返し立ち現れるのである。