単著

桑原旅人

汝の「欲望」に従って行為せよ ジャック・ラカンの倫理学

ナカニシヤ出版 
2025年2月

ジャック・ラカンが、欲望に関して譲歩しないこと、欲望に従って行為することを「倫理」としたのはよく知られている。本書は、そのラカンの倫理学に、主にセミネールでの議論を対象としつつ、とりわけそこでの悲劇解釈に注目しながら、アプローチするものである。

本書の仮想敵は、他者への配慮、奉仕、責任を説く倫理である。それは「政治的正しさ」が言い立てられて久しい現代社会の雰囲気にも通じている。本書は、そうした倫理のあり方を、精神分析における、そしてラカンにおける大他者への服従や現実への適応と重ねながら、それらと袂を分かつ契機をラカン自身に見いだしていく。そこで見いだされるのは、どうしようもなく自身の症状に固執し、死、侵犯、悪、享楽へと突き進む人間主体のあり方である。

そうした人間主体のあり方は、大まかにラカンの遅い時期の議論の対象とみなされる傾向にあったが、本書は、セミネールを読解しながら、ラカンの理論的変遷における大他者の失墜と、現実界や対象aの前景化を、すでに1950年代後半から準備されていたと主張する。それは、ラカンがそのキャリアの決して遅くない時期から、必ずしもファルスや父の名を特権視していたわけではないということを含意する。

このことを示すための本書の最大の取り組みが、ラカンの悲劇解釈の読解である。本書は、シェイクスピア『ハムレット』、ソフォクレス『アンティゴネー』、ポール・クローデルのクーフォンテーヌ三部作(『人質』、『堅いパン』、『辱められた父』)をめぐるラカンの議論を丁寧に読み解いていく。数あるラカン論でも、前二者に比してあまり見ることのないクローデルの三部作をめぐる議論の読解は、本書の白眉だと言えるだろう。

そこで取り出されるのは、ファルスの彼方、父の名の彼方で、ということはあらゆる正常化や規範化の彼方で、ひたすら自身の症状に準じ、自身の欲望に関して譲歩せず、欲望に従って行為する主体の倫理であり、分析家の倫理であり、「精神分析の倫理」である。「フロイト゠ラカンの精神分析は、正常に生きられなくなってしまったとしても、そこであきらめて沈んでしまうのではなく、欲望に徹底してしがみつくことによって、壊れたままでも前進しようとする姿勢を称える」(p. 184)。

紹介者としては、フェミニズムや脱構築による批判を厳しく批判し返し、「非ファルス的なラカン」を強調しようとする本書の試みは、実はそれ自体がきわめて「政治的に正しい」振舞いなのではないか、ラカンの「毒」をむしろ抜いてしまうことではないか、という疑問を持った。そうした疑問や反論も含め、多くのアクチュアルな議論を引き起こすことができる強度を備えた書物である。ラカンの倫理学を主題とする優れた書物として広く読まれていくだろう。

(小倉拓也)

広報委員長:原瑠璃彦
広報委員:居村匠、岡本佳子、菊間晴子、角尾宣信、堀切克洋、二宮望
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2025年6月29日 発行