村上シネマ──村上春樹と映画アダプテーション

村上春樹と映画アダプテーションはいずれもそれぞれに一大研究ジャンルを形成しており、両者を交差させた研究が世界中で陸続と刊行されている。全11章+4つの補章からなる本書『村上シネマ』は、同テーマをめぐってこれまでに書かれたもののうち、もっとも包括的な研究書である。村上春樹と映画アダプテーション研究の最前線に踊り出した本書は、今後、末長く参照され続けることになるだろう。
本書のスタイル上の最大の美点は、映画研究者としての著者の卓越した技量と、村上文学に対する鋭敏な感性が融合したところに求められる。著者一流のバイブスが遺憾なく発揮されている「まえがき 二台の赤い車のあいだ」に接した読者は、そのまま襟首をつかまれるようにして第1章以降の記述へと引きずり込まれることだろう。映画『風の歌を聴け』(大森一樹監督、1981年)の赤いフィアットと、映画『ドライブ・マイ・カー』(濱口竜介監督、2021年)の赤いサーブ900を、時空間を超えて接続してみせる手腕の冴えは、本書全編を貫いている。各種資料を丁寧に読み解きながら、的確に先行研究を参照し、映画研究の方法論と文学研究の方法論を巧みに掛け合わせて展開されるダイナミックな議論は、きわめてスリリングな読書体験を提供してくれる。
村上春樹の許諾を得て製作されたオーセンティックな映画化作品にとどまらず、世界各国で学生が制作してYouTubeなどの動画共有サイトにアップロードしている(必ずしも許諾を得ているとは思えない)ような短編映画を射程に捉え、世界文学としての村上作品と、その翻案の広がりの実態を「ユーザー生成コンテンツとしてのアダプテーション」として位置づけた第3章にはとりわけ学ぶところが多かった。一般的にはそれほど知られているとは言い難い『森の向う側』(野村惠一監督、1988年、原作は「土の中の彼女の小さな犬」)を取り上げた続く第4章も、(映画とともに)私のお気に入りである。
世界的な注目度の高い『バーニング 劇場版』(イ・チャンドン監督、2018年)や『ドライブ・マイ・カー』を論じる終盤の章(および補章)の緻密なテクスト分析と作品の倫理を問う著者の透徹した姿勢には清々しさを覚えた。とりわけ『バーニング』の「不可視性」をめぐる鮮やかな分析など、映画研究者としての著者の面目躍如たるものがある。
友人に好きな本を一方的に贈りつけては困惑させていた、かつての自分に贈ってあげたい一冊でもある(本書「あとがき」参照のこと。身に覚えのある方は少なくないのではないか)。
(伊藤弘了)