愛と孤独のフォルクローレ ボリビア音楽家と生の人類学

本書は、著者がボリビアのフォルクローレ音楽に関わる人々のもとで行ったフィールドワークをもとに、「フォルクローレ音楽とは何か」といった問いを人類学的に検討するとともに、ラテンアメリカ的な孤独を描き出そうとした民族誌である。この書評では後者の狙いに重点を置いて、本書を紹介しよう。人類学者による報告にもとづく学術的な文章が、一体どのように孤独というものを記述しうるのだろうか。
「序章 孤独とつながりの人類学」は、まず、文化人類学が親族、民族集団、同業者関係などのつながりに焦点を当てて人々を記述してきたと述べる。後述のように、とりわけ音楽人類学は音楽における身体やモノの結びつきを追いかけてきた。しかし、近年の英語圏の人類学もまた問題視するように、つながりの重視によって「フィールドの中のつながりたくてつながれない人々や、 つながりをあえて拒否しようとする振る舞いが見にくくなっている」(本文4ページ)。そこでポスト関係論を標榜する本書は、音楽のうち、関係が希薄と思われるような状況に焦点を当て民族誌的な記述を行う。
加えて序章で著者は、孤独と同様につながりに対置されるもの、つまり分離や切断、無関心などではなく、孤独という概念をもとに本書が議論を展開する理由を述べる。それは、孤独がラテンアメリカにおいて独特の意味合いを持つ重要な問題だからである。オクタビオ・パスの『孤独の迷宮』(2007)やホセ゠マリア・アルゲダスの「ケチュア語詩における宇宙的孤独」(Arguedas 1961) 、ガブリエル・ガルシア゠マルケス『百年の孤独』(2025)が書くように孤独という主題はラテンアメリカ世界で広く共有されている。パスによる「我々は本当に異なっている。しかも本当にひとりぼっちである」(2007: 50)という一節は繰り返し引用される(本文28, 196, 221, 285ページ)。
このように視座を設定し、「1章 旅の前にあるもの」で1970年台のボリビアにおけるフォルクローレ音楽の成立とその変遷を概観した上で、本書はその前半において、アンデスの都市、ラパスのフォルクローレ音楽家について主に記述する。
「2章 不器用な音楽家たち」は、生業における戦略や同業者関係を分析する「生計戦略論」という枠組みをもとに、音楽家の実践を捉えようとする。しかし著者によれば、フォルクローレ音楽家はグループが離合集散を繰り返すなど同業者関係が脆弱であったり、生計戦略的には非合理に振る舞ったりしているため、生計戦略論はフォルクローレ音楽家のあり方をうまく説明しない。
そこで「3章 物語を愛する人々」は、著者が自らフォルクローレ音楽を音楽家とともに演奏した経験と、人々の身体を介したやりとりを緻密に描く「対面相互行為論」をもとに、演奏における身振りや音の即興的な絡まりあいを論じようとする。だが、音楽家が練習よりもおしゃべりに熱中する様子や、あるコンサートの開催の企画から準備にいたる一部始終を追うと、現象としての音や音楽における身体の動きには還元できない「アネクドタ」の作用が浮かび上がる。アネクドタとは、人間関係の揉め事や成功談など、人間関係の機微や人物の性格が現れる逸話である。著者によれば、音楽家の間で語られるアネクドタが演奏の動機を作り、実践を条件づけるとともに、それにより生じたなりゆきが再び新しい物語となって広がっていく。つまりアネクドタはフォルクローレ音楽家の実践を構成する重要な部分であり、音楽家はそうしたアネクドタ的思考にもとづいて音楽を理解しているとされる。
3章が色恋や、確執を超えた共演といった陽気なアネクドタを紹介したとすれば、「4章 孤独の内に立ち上がる者たち」は苦しさを伴うアネクドタを扱う。ここで記述されるのは、音楽家がフォルクローレ音楽にかかわるようになった人生の転機を語る物語であり、そこには人間関係からこぼれ落ちるような孤独の経験が見出される。
さらに「5章 他者に抗する戦士/旅人」は、二人の中年の音楽家のライフヒストリーを取り上げ、孤独にかかわるアネクドタを論じる。二人はフォルクローレ音楽の黎明期に活躍したものの、その後は音楽活動が停滞した人物であり、しかし著者の調査時には、再び活動を再開しようとしていた。その語りに現れるのは、フォルクローレ音楽が先住民的なものを隠そうとしてきた先行世代への反抗であることや、ボリビアで音楽が戦争に際して敵軍を撃退するために使われてきたこと、つまり音楽につながりを積極的に断ち切る役割が認められていることである。
このように、本書がフォルクローレ音楽家の実践と人生についての分析を徐々に深めてきたからこそ、本書の後半、「6章 「不真面目」なひとりの楽器職人」と「7章 アマゾンの開拓者」が音楽家ではなく、それぞれフォルクローレ音楽の楽器製作者や楽器の素材の採取者に調査対象を移し、議論が直接的には音楽家や演奏を扱わなくなることは読者を混乱させるだろう。
6章は、アンデスの小さな町、アイキレがいつから、そしてなぜ、民族楽器チャランゴの中心的な生産地になったのかという問いを立て、そこに住むある一人の新進気鋭の「女性楽器製作者」の噂とその実態を語る。
続いて7章は、チャランゴのための木材を採取する生業である「カバドール」を取り上げ、なぜそのようなニッチな作業が成立するに至ったのか、なぜカバドールが自らチャランゴの製作に乗り出さないのか、という謎を検討する。この疑問を追って著者はアンデス高地からアマゾン低地に、さらにその開拓地に向かい、カバドールのある家族のアネクドタを示す。
「終章 すでにそこにあるもの」は本書の内容をまとめるとともに、それが取り上げたさまざまな人々に共通する「すでにそこにあるものへの信頼」について述べる。
本書後半が楽器の製作者や木材採取者を扱う理由にかんして、著者は6章を中心に三つの理由を挙げる。まず、本書の前半の議論が基づくのは、音楽家の実践に参与するフィールドワーク、つまり「関係論的」な方法だったので、「ポスト関係論的思考」の可能性を描くためには、フィールドワークとは別のやり方によりフィールドの人々を理解することが必要だと言われる。第二に、フォルクローレ音楽とは、音楽家や楽器製作者、木材採取者の間に緊密な関係をもたらすどころか、互いのことをほとんど知らないまま行われる実践により再生産されているという事実を示すためである。そして第三の理由は、ラテンアメリカ的な孤独を描くためである。最後の点を詳しく紹介しよう。
著者は言う。本書の前半、すなわちフォルクローレ音楽家についての記述だけを取り出せば、音楽家を突き動かす孤独は、典型的に西洋近代の音楽家に想像されるような個人主義的な傾向だと読まれるだろう。しかし著者は、それが実際には、強くラテンアメリカ的な孤独であると主張する。このことを示すために、本書はフォルクローレ音楽家とチャランゴ製作者とカバドールのあり方に並行性を見出し、「すぐ隣にいる他者と共に生きつつも交わりきらないというラテンアメリカ的/アンデス的なテーマがここでも[評者補足:音楽家や楽器製作者、木材採取者においても]反復されているのかもしれない」(本文196ページ)と書く。
この手続きはおそらく、2025年の読者の多くにとっては異様に思われるだろう。フォルクローレ音楽家とチャランゴ製作者とカバドールが別の職業であり、それぞれに違う文脈を持っていることは明白である。職業ごとに持たれる孤独は原理的に異なるのではないか、という疑問は当然である。
しかし、このような意味で原理的に突き詰めれば失敗が免れない孤独の比較を、記述の積み重ねによって実践的に成立させたのが本書の最も優れた点であると評者は言いたい。すなわち、異なる生業、違う場所に別々に暮らす人々に、それにもかかわらず、繰り返しているものがあることを、本書に散りばめられた具体的な報告が私たちに納得させる。音楽家の語る、突飛で愉快ながら切なくもあるさまざまなアネクドタ。チャランゴ製作者による計算高いのか単に不真面目なのかわからない語り。大地震で家族や財産を失った後、アンデスで結んできた人間関係をすべて捨ててアマゾンへ移り、カバドールとなった男性の悲痛さとあっけらかんとした前向きさ。これらにはどこか共通する情感があり、それは孤独であると、しかもヨーロッパの芸術家や現代日本とは異なる孤独だと評者には感じられた。そもそも、単にフォルクローレ音楽家だけに持たれた感情ではない「何か」があること、その内実を理解することは、フォルクローレ音楽家以外にもそれに類似するものがあることを経由する他ない。そのような反復によって初めて、その「何か」を孤独として捉えられ、フォルクローレ音楽家を突き動かすものを私たちは想像できる。
本書は、その前半においてのみ音楽家を扱う、一見奇妙なフォルクローレ音楽の民族誌であった。しかし、そのような構成を採用しないかぎり喚起できない音楽家の孤独があり、それを民族誌という学術的な文章において描き出したのが著者の達成である。
(藤田周)