編著/共著

大久保 恭子 (著)、 池野 絢子 (著)、増田 哲子 (著)、 山口 惠里子 (編著)、河本 真理 (著)、 池田 祐子 (著)、石井 朗 (監修)

躍動する古典、爛熟する時代 アンリ・マティスからオットー・ディクスへ (ヨーロッパ戦間期美術叢書 1)

ありな書房
2024年12月
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「我々文明なるものは、今や、すべて滅びる運命にあることを知っている」。ポール・ヴァレリーが第一次世界大戦後に執筆した名高いテクスト「精神の危機」は、この一文によって始まる。そこでヴァレリーが表明したのは、軍事的危機や経済的危機が過ぎ去ったあとのヨーロッパの知的精神の「危機」であり、個々の国家ではなく、「ヨーロッパ」がいままさに崩壊に瀕しているという認識だった。

ヴァレリーがそのテクストを通じて改めて問いに付した「ヨーロッパ」という単位を、同時代の美術を通じて思考することは可能だろうか。本書は、両大戦間期のヨーロッパ美術を対象とした叢書の第1巻である。戦間期の美術に関しては、これまでにも各国の美術史研究において膨大な研究成果が積み重ねられてきた。そのなかで本書は、フランス、イタリア、スペイン、イギリス、ドイツ、オーストリア諸国の美術を対照し、同時代のヨーロッパという地域全体における美術の多面的な相貌を俯瞰するものだ。第一次世界大戦後にアンリ・マティスが印象派の画家たち、とりわけルノワールへ再接近したことによって果たした「古典的主題とモデルニテの総合」(アンリ・マティス──ニースにおける「印象派」との再会/大久保恭子)。ジョルジョ・デ・キリコがローマで受けた、過去の偉大な芸術作品に学ぶことの重要性とその新しさ(「われ古典的画家なり」──ジョルジョ・デ・キリコの『ヴァローリ・プラスティチ』時代/池野絢子)。イグナシオ・スロアーガが描く典型的なスペインの風景と風俗にたいする、大戦前後での劇的な評価の変化(熱狂と反発のはざまで──イグナシオ・スロアーガの「スペイン像」/増田哲子)。男女が向き合う不在の空間と、厚塗りの化粧により「顔」を失った俳優・女優たちが登場する、虚構的な舞台としてのウォルター・シッカートの絵画(アンニュイとピエロ──ウォルター・シッカートの「ドラマティックな真実」/山口惠里子)。戦争によって傷つけられ、貶められた人々の姿を過剰なまでに冷徹に表現したオットー・ディクスの作品群(ヴァイマル期ドイツの〈狂乱の時代〉と残存する戦争──オットー・ディクスの戦争と三連画《大都会》/河本真理)。世紀末ウィーンの正統な嫡子であることを感じさせる多彩な才能を持ちながら、政治的変遷に翻弄されたアルベルト・パリス・ギュータースローの描く日常の風景(アルベルト・パリス・ギュータースロー──ウィーン・モダンのプリズムと幻想的リアリズム/池田祐子)。いずれの章も、第一次世界大戦後を生きた芸術家たちの息遣いをいきいきと伝えると同時に、当時の政治的状況が芸術家たちの制作にいかに影響したかを伝えている。充実した各論の詳細については、ぜひ本文をご一読いただきたい。

ここでは、一読者として全体を通読したときに感じた論点を二つほど挙げておきたい。一つは、多くの章で、人間の表象が共通の論点になっていたことである。それはマティスの描く浴女たちのように、古典的で美しい身体であることもあれば、ディクスの作品のように、戦争によって無惨に歪められた身体もある。あるいはまた、シッカートが厚塗りの絵具によって示したように、人工的な化粧の下に潜む身体であるかもしれない。「秩序への回帰」と呼ばれる戦間期の芸術の傾向において、人間の形象がもっとも重要なモチーフの一つとなったことはしばしば指摘されてきたが、その身体とは、戦争によって踏み躙られ、傷つけられ、あるいは見えないように押し込められたそれと、不可分の関係にあったのではないか。

そして第二に、本書の主人公たちの世代の問題を挙げることができる。試みに、この巻の主人公たちを生年順に並べ直してみると、以下のようになる。

ウォルター・シッカート(1860-1942):イギリス
アンリ・マティス(1869-1954):フランス
イグナシオ・スロアーガ(1870-1945):スペイン
アルベルト・パリス・ギュータースロー(1887-1973):オーストリア
ジョルジョ・デ・キリコ(1888-1978):イタリア
オットー・ディクス(1891-1969):ドイツ

こうしてみると、シッカート、マティス、スロアーガの三人は第一次世界大戦勃発時点ですでに四十歳以上の年齢であり、比較的長いキャリアを積んできた芸術家たちであるのにたいして、ギュータースロー以下の三名は、大戦勃発時にみな二十代であり、従軍経験があることが改めて指摘できよう。もちろん、戦争体験は実際に前線に赴いたかどうかにはかぎらないとはいえ、とくにデ・キリコやディクスに見られるような戦後の劇的な作風の変化──たとえばスロアーガの場合、作風自体よりも受容者の評価が変化したのとは対照的だ──は、それがモチーフとして画面上に可視化されていようがいまいが、第一次世界大戦という歴史的な断絶の存在をまざまざと感じさせるように思う。

さらに他の角度からの論じ方も可能かもしれないが、あとは読者にお任せしたい。通読したときに、個々人がさまざまな論点を引き出すことができるのが、この論集の一番の魅力であろう。

(池野絢子)

広報委員長:原瑠璃彦
広報委員:居村匠、岡本佳子、菊間晴子、角尾宣信、堀切克洋、二宮望
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2025年6月29日 発行