小特集:現場から学会に期待すること

インタビュー(2) キュレーションの現場から 住友文彦(アーツ前橋館長/東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科准教授)

聞き手:江口正登、横山由季子

── 今回の『REPRE』では「現場から学会に期待すること」という小特集を企画しています。アートやさまざまな実践の現場で活躍しつつ、同時に学会や大学、研究という領域とも接点を持っている方にお話を伺うというのがその趣旨です。住友さんはキュレーションの現場で活躍しつづけ、現在はアーツ前橋の館長をお務めになられていると同時に、東京藝術大学で学生の指導にもあたっておられる。また、表象文化論学会とも関係が深く、今度の第12回大会の実行委員長をなさってもおられ、現場と学会との関係ということについては色々お考えがあることと思います。今日は学会員で、国立新美術館アソシエイトフェローの横山由季子さんにも聞き手として加わっていただき、お話を伺っていきたいと思います。

学生時代、ヤン・フート、ダムタイプ

── では、まずはこれまでの歩みを振り返って、学術や研究というものとどのような接点があったか、またそれに関連して、影響を受けた研究者や学術的著作など、といったことについてお話いただけますでしょうか。

住友 僕は学部は東大の美術史学科でした。僕が入ったのはちょうど高階秀爾さんが辞めたすぐ後の頃で、そして辻惟雄さんの最後の年だった。つまり美術史学科のスター二人とすれ違って入ったという感じでしたね。

でも、別に美術史学科でこういうことをやりたいということを具体的に持っていたわけでもなかった。高校のときから美術の勉強をしたいとは思っていて、何も考えずに美術史学科に行くという感じだったので、美術史学科というのはこういうことをやるんだっていうのは実際入ってみてから知ったようなところがあるんですが、はっきり言うとあまりワクワクしなかったんです。ただ、じゃあ何が自分の中でヒットしたかというと、例えば助手の方が、ゴンブリッジの『芸術と幻影』の読書会をやったりしていて、これは面白いなあと思ったりした記憶があります。もちろん、助手の方がやった読書会なので、大きくは大学の中のことであるわけですけれど。

でも、考えてみれば辻さんの授業も面白かったですね。日本美術史じゃなくてホイジンガのことをやっていたんですけど(笑)。それから、中国美術史の戸田禎佑さん。日本美術がいかに中国の影響を受けているかという論文を発表されていて、とても刺激的な内容を含んでいました。この論文の中身について話す会というのがあった記憶があるんですが、これはすごくワクワクしたんですよね。ともあれ、基本的にはやはり授業以外の場に価値を見出していて、全然いい学生ではなかったですね。

その理由のもう一つとして、当時は日本が経済的に不況になる時期でした。80年代にはどんどん美術館ができて、先輩たちがそういうところに就職していく、という流れがあったのですが、それがもうなくなると言われていた時期で、自分の同級生たちの中では、学校でちゃんと勉強をしてそういうところに行くっていうのは少なかった気がするんですよね。東大の美術史の中で、前の代とかと比べても美術の仕事をしている人ってすごく少ないと思います。付き合いが悪いし、同窓会もやらないから、僕が把握してないだけかもしれませんが。上の代とかに優秀な先輩がいて、そういう人たちでもずっと大学院に残っていないといけないんだな、みたいな感じに見えていました。

でも、やっぱりゴンブリッジを読んで、心理学を使って考えることに関心があるんだなって思ったりとか、あと同じ歴史学でも、たとえばギンズブルグの『チーズとうじ虫』とか、そういうのは面白いなと思ったりとか、そういう風になんとなく自分の関心の確認はできたので、一度スパイラルというところで仕事はしていたんですけれども、大学院は表象文化論の方がいいなと思ったんですよね。

── それで駒場の表象文化論に進まれる、と。

住友 美術史学科で、自分は違うことをやりたいと思っていた点に関しては、表象文化論は受け皿としてすごくよかったなと思いました。当時影響を受けたものについて考えると、やはりヤン・フートが大きかった。95年だったかな、「水の波紋」展というのがあって、ヤン・フートをワタリウムが呼んで、青山近辺で街のなかの展覧会会場だけではない場所も含め、いまでいうところの地域型の芸術祭みたいなものをやったんですね。

自分の学生時代はヴェネツィア・ビエンナーレとかドクメンタとか、いまの学生なら誰でも知っているようなものを何も知らなかった。インターネットのない時代ですからね。でもヴェネツィア・ビエンナーレにはたまたま行ったりしてるんですけど。普通にイタリアに旅行に行って、美術史の学生だったから普通に教会に行ったり美術館に行ったりしているときに、ヴェネツィアに行ったらたまたまやっていて、何だこれ、と思った記憶がある。それがヴェネツィア・ビエンナーレだったというのは後で知りました。そのくらいだから、いまの学生だったら相当奥手ですよね。だからヤン・フートも当時は知らなかったんです。

ともあれ、「水の波紋」のときにヤン・フートがスパイラルの会場でやったのが、アンジェラ・ヴェルガラ・サンティアゴというアーティストのプロジェクトで、カフェをつくったんですね。サンティアゴはヤン・フートお気に入りのアーティストで、当時彼の展覧会によく参加してたんですけど。500円、5000円、50000円のコーヒーがあって、お客さんがどれをオーダーするか決めるんですね。500円はただのコーヒーなんですけど、5000円、50000円になると、お客さんと相談しながら、パフォーマンスをやるとか、その人がその値段で求めることを実現する、というようなものでした。最初は何だこれ、と思って、なんだかわからないなあと思ってたんですけど、それが楽しかった。それを通じて、会場がアクティベートされる場面を何回も見るんですよね。来場者とサンティアゴのあいだに化学的な反応が起きていく様子を何度も見る。表参道の交差点でパフォーマンスする、というようなことが即興的に起きるんですけど、それを自分も一緒に現場でつくる。生きている同時代の作家と何かをつくるということを初めて経験して、ものすごく面白いことだなと思いました。

ただ、どちらかというとやっぱり古いものを勉強している経験からすると、それが自分の仕事とどうつながるのかよくわからない部分もあった。たまたまヤン・フートという人が来たからやった、というだけのことだったんですよね。でも、同時に決定的だったのが、ダムタイプの『S/N』を観たことですね。同時代の社会とここまでアーティストが関われるんだっていう実感は、『S/N』が大きかった。影響というとそういうものですね。美術史時代のことを思い出してゴンブリッジやギンズブルグや、それから戸田禎佑という名前も先ほど出しましたが、でもいまの仕事に決定的な影響を与えたのは、当時だとやはりヤン・フートと『S/N』ということになりますね。

キュレーターの仕事というのは、アーティストがいて、観客がいて、その間に入る仕事なわけですよね。アーティストは過去の人かもしれないけれども、いま見るのは確実にいまの人たちです。だから同時代の社会への意識というものを常に持っていなければならない。たとえばスパイラルがある青山ってショッピングゾーンですよね。あそこに来るときは、買い物をした後に展覧会を見るとか、あるいは展覧会を見てから買い物をするとか、来場者はそういう経験をすることになる。そうしたときに、展覧会や美術というものが、どう観客と関係を結ぶのだろうということをすごく考えていました。そのとき、ヤン・フートとダムタイプと出会ったことが、キュレーターの仕事って面白いなって思わせてくれたことでしたね。

── じゃあやはり研究というよりは、それ以外の同時代の実践に触発される部分が大きかったということなのですね。

住友 そうですね。でも大学院についていうと、表象文化論では僕は田中純さんのところにいたんですけど、田中さんはすごく厳しかったんですよね。最近はすごく丸くなったと聞きますけど、僕は丸くなられた田中さんというのをよく知らない(笑)。田中さんが自分に対しても厳しい姿勢で、海外で発表される論文とかも読み込んで話す姿勢が授業にも出ているわけですね。だから、それは学ぶものは大きかった。アカデミックな研究者というのは何をしていて、どうやって自分の考えを発表していくのかということ、授業自体というよりも、この人はどうものを考えて、たとえば文章を書くうえでも何をいちばん大事にしているのかというようなこと。たぶんその時点では解決していない問題のようなものも含めて、そういうことも授業の中で表れてくるじゃないですか。そういうダイナミックなものがありました。

たとえば、「ディープ・ストレージ」(Deep Storage)という展覧会の図録を使った授業がありました。僕は見たことのある展示ではなかったんだけれども、田中さんがこの図録を使ってゼミをやるという風におっしゃって。展覧会という空間体験はあまり関係なく展覧会図録というものを対象としたものだったかもしれないけれども、かなり現場の実践に近いものだったから、僕にとってもすごく有益でした。「ディープ・ストレージ」のことは、いまでも近い関心を持っている学生には伝えたりとかしていますし、やっぱりすごく影響はありましたね。

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── 話が前後してしまいますが、卒業論文や修士論文ではどういうことを書かれたのでしょうか。

住友 卒論は、建築家の堀口捨己です。堀口は建築界の精神上の父と言われている人で、建築は芸術であるという宣言を出した分離派のメンバーだった人ですね。それから数寄屋造りをインターナショナル・スタイルと結びつけたり、すごく理論的に文章を書いたりしている人なんですけど、僕は矛盾だらけの人だなあと思ったんです。学部時代の若気の至りもありますが。でも、そんな矛盾や「建築は芸術である」というようなことをなぜこの人はこのとき言わなければならなかったのだろうと思ったんですよね。だから、どちらかというと言説研究だったので、たぶん美術史学科の中で求められていたアプローチではなかったと思うんですが、河野元昭さんという、いま静嘉堂文庫の館長をやってる方ですが、いいんじゃない、みたいに言ってくれてやらせてもらえた。なので、そのときに堀口捨己のことを考える上で自分の関心を自覚していたので、方法論としては美術史じゃないなということは思ってたんですよね。

それから修士論文では実験工房について書きました。なぜ実験工房だったかというと、まずは日本の戦後美術の描かれ方として、60年代の反芸術とか、もの派や具体とか、そういう大きな運動を中心とした描かれ方がありますが、美術作家たちはそれらの運動の中で自分の関心とかスタイルをつくったわけではないだろうなと漠然と思っていました。むしろ終戦直後に、「世紀」とか夜の会で、文学者とか色々な分野の人たちが議論したりとか雑誌を出したりとかしているのを知って、そこに関心を持っていたんですよね。つまり、戦後の前衛美術運動の前史となる領域横断的な芸術運動に関心があった。よく見てみると、その中に、武満徹とか山口勝弘とか、その後すごく活躍していくアーティストたちがデビュー当時に作っていた実験工房というグループがある、と。錚々たる面子ですよね。でも、実験工房はいまではかなり取り上げられることも多いけれども、その頃の戦後美術の描かれ方としては「その当時実験工房というのがありました」くらいの感じで、あまり具体的に紹介されてないんですよね。その問題の一つは、彼らが中心的にやっていたものは、スライドと音楽を同期させる作品なんです。それはやっぱり展覧会の中で扱うのが難しかった。いまはビデオとかDVDとかに変換したもので紹介されますが、でも90年代くらいまでは、それを見せる方法というのはかなり難しかった。そういう制度の問題がたぶんあるだろうと思ったんですよね。制度の問題であるならば、それは本質的な問題ではない。だから、実験工房というグループ自体が本当に研究されていないかというとそんなことはなくて、91年に佐谷画廊が個人でつくった立派な図録があるんですよね。研究者はそれに当たれば、実験工房の重要性というのは見つけられるんだけれども、たとえば、1994年だったかな、横浜美術館の「戦後日本の前衛美術」(Japanese Art after 1945: Scream against the Sky)という戦後日本美術を振り返る展覧会とか、その時点でやられていた展覧会の中でも具体、もの派、反芸術を重視する見方が強いなと思っていたので、そうじゃない戦後美術の見方を考えてみたいと思った、というのが実験工房を取り上げた理由ですね。

── そして修士で大学院を出られる、と。ちなみにその頃は表象文化論学会が立ち上がるよりも全然前ですよね。

住友 はい、学生が表象文化論を出ても就職先がないんじゃないかという心配は聞いていて、だから学会でもあった方がいいんじゃないかみたいな話は出ていましたね。

── 博士課程に進むことは当初から全然考えていらっしゃらなかったのでしょうか?

住友 そうですね、美術館という風には限定していなかったけれど、基本的には大学を出て仕事をすることを考えていました。

学会との関わりと評価

── はじめに述べた通り、住友さんは今度の表象文化論学会第12回大会の実行委員長でもあります。これまでの表象文化論学会との関わりについてお話を伺えますでしょうか。

住友 学会に関しては、表象文化論学会の準備大会が2005年にあって、「現場でやっている人として出なさい」と言われてシンポジウムに登壇しました。自分が何の話をしたのかも覚えていませんが、そのときに小林康夫先生が、会場での発言だったか忘れてしまいましたけれども、「表象文化論というのは本当は現場との結びつきを重視したいのだけれども、どちらかというと研究偏重になりすぎている」ということをおっしゃっていました。僕はそもそも学生の目で見ても、表象文化論がそんなに現場志向が強いとは思っていなかったから、学科としてはそういう志向を持っていたんだなということをそのときはじめて認識したという感じでした。

── 現場との結びつきということは、理念としては常に語られていると思うのですが、実際には必ずしも十分に実現できてはいないというところはあるかもしれませんね。

住友 学校のカリキュラム自体がそうならないと難しいかもしれません。

── 話を戻しますが、準備大会に参加されているということは、表象文化論学会設立のときから会員になって、ということだったんですね。

住友 一応そうなんですけれど、僕はたぶん会費を払ってない時期もあるから、実質は途中で外れているんじゃないかと思います。こういう風に言うのは適切かわかりませんが、学会で発表することというのは、キュレーターをしている自分のパフォーマンスとしてはあまり重視できないんですよね。正直なところ、表象文化論学会で何かを発表するということをいままでちゃんと考えたことはありませんでした。学会ができてしばらくは、どういうものか分からないまま入っていたと思います。

── では、学会に所属していた時期も、あまり大会にいらしたりはしなかったのでしょうか。

住友 行っていないですね。準備大会と、あともう一度青山学院大学のときにもシンポジウムに登壇したので、その自分が関わった2回と……あと1回京都造形芸術大学に行ったかな。それもパネルをちょっと見てみたいなと思ったのと、何かの用事の京都出張と重なったんですよね。だから本当に様子見で覗いて、その後用事があったので抜けた、という感じでした。だから学会に参加しました、とは言えないな。

── 翌年の青山学院大学でのシンポジウムはいかがでしたか。

住友 そのときは現代美術を扱うものだったのでかなり積極的に、シンポジウムの内容などにも意見を出しながら関わっていました。それとそのあとの学会誌の特集(「ネゴシエーションとしてのアート」『表象05』)で、翻訳に何の論文を選ぶかに関わりました。

学会誌というものがどうあるべきかということで意識したのは、当時『オクトーバー』が100号特集前後で、編集メンバーを入れ替えたんですが、そのとき誌面に掲載された議論が頭にありました。というのは、『オクトーバー』ってやっぱり現場には関われていないメディアだったと思うんですよね。具体的に言うならば、100号のラウンドテーブルの中に出てたと思いますが、「大陸では関係性の美学の影響を受けているアーティストが大勢いる、というようなことが話題にあがっているけれども、それは『オクトーバー』で取り上げられたことがない」というようなことを若い世代の編集者が指摘するわけです。で、それから少し後の号にクレア・ビショップの「敵対性と関係の美学」が掲載されるという流れがあるわけですね。だから、現場で起きていることに自分たちがレスポンスするのだということをすごく明確にやったわけですよね。でも、僕はあの論文自体は勇み足だったとも思っています。それまでのオクトーバーの査読だったらあのレベルの論文は掲載しなかっただろうと思っています。だからこそ、載せたというところにある種の焦燥感もある。そういったことを意識していたというのが一つ。

それから、ボリス・グロイスは日本のアカデミズムの中ではロシア・アヴァンギャルドの人として認知されていたわけだけど、2000年だったかな、国際美術館会議のキーノートを彼がやったことがあったんですよね。会場がハンガリーで、東欧なわけですけれども、そこにボリス・グロイスを呼ぶ。美術館会議のメンバーというのは、出身地こそポーランドとか色々な人たちが混じっているけれども、すごく西洋的な価値観を美術館というものに対して持っている集まりなわけです。それに対してボリス・グロイスのキーノートというのは、東側の異なる声を響かせるものだったんですね。この人は確実に現場にものを言おうという意識を持ってやっているなという気がしました。そうしたら2002年のドクメンタの図録に面白い論文が載った。アカデミズムの中で蓄積されてきたものが現場と結びつこうとする動きとして、そういうことを意識していました。

あとは、その頃は館長という仕事もしてなかったからか、現場で起きていることと理論の関係をかなり意識して読んでましたね(笑)。『オクトーバー』や『アートフォーラム』とか『フリーズ』とかを通してヨーロッパのアーティストが普段、日常的にどういうものに接していて、かつアカデミックな文脈で何が研究されているかというのを両方見ていると、あの特集で推薦した論文は影響力を持つだろうなと思いました。

でもあの回以降はそんなに関わっていないですね。そのあと駒場で授業をやったりしますけど……それは学会とは関係ないか。でも授業に行くあいだに、大学のあり方みたいなことは考えましたね。

── では次に、現場の立場から見ての、表象文化論学会のこれまでの活動に対する評価や、また今後望むことについてお聞かせいただけますでしょうか。

住友 学会への評価というのは僕は語れないような気もしますが、先ほども出ました第5回大会についていうと、あのときは自分としてもすごく得るものがありました。でも基本的には、アカデミックなフィールドでパフォーマンスするということを、自分は求めていないので……。研究者の人たちが発表していることと、アーティストだったりキュレーターだったり現場の人たちが、どう関係を結べばいいんでしょうね。考えてみるとやっぱりあのとき(第5回大会)がそうできたとは思えないところがあります。

うーん、しかし、評価というのは難しいですね。

── 印象ということでも結構です。

住友 それはまあどちらかといえば、僕には研究者の場所という印象がある。皆さんがそう思ってやっていることを悪くは思わないし、現場の人だけどアカデミックな関心を持ってやっている人が学会やシンポジウムを聞きにいく、そういう役割も十分ありうるんだろうけれども、現場とのコミットというものを志向していくのならば、それだけでは足りないと思います。

現場の側の実感から話すとするならば、僕はたとえばここ[東京藝術大学]でキュレーションを教えるということにあたって、もともと自分自身が大学でそういう教育を受けていなくて、むしろ大学の外に実践の場があるという意識だったから、初年度はどう教えればいいか試行錯誤していました。

キュレーターがやってることって、順番からいくとやっぱり一次資料に触ることが一番重要だと思っています。それは作品だったり資料のこともあれば、かなりのところ「人」だと思います。アーティストだったりアーティストの遺族だったり、それから展覧会の来場者というものも含めたものを僕は一次資料と考えています。作品だけではなくて、そういう風に考えるのが重要だと思っているんですが、そのときに、例えば心理学的なアプローチと文化人類学的なアプローチってすごく有効なんですよ。一次資料に触るという点において。だから、博物館学でいうところの、たとえば「軸物をどうやってしまうか」とか、そういう話ではないんですね。物を扱うアプローチとは違うものとしてこの仕事を考えているところがあるから、美術史とか、心理学とか文化人類学、社会学、文化政策、思想や哲学といったものがすごく有効になってくる。文化政策や思想、哲学というのは、たとえば「公共性とは何か」とかそういうことを考える上ですごく有効なんですよね。もちろん理論だけでなく現場の実践から得るものもすごく大きい。

なぜ心理学や文化人類学かというと、つまり学芸員というのは日常的にフィールドワーカー的なことをやっていると思うんです。だから、これらのディシプリンが有機的に結びつくものとしてキュレーターという仕事を僕は考えています。それを本当はもっと言葉で説明できるようにしなきゃいけないとは思っているんですが。

でも、ヨーロッパの大学のキュレーションコースは、結構実践的なものが多いですよね。それはもちろん悪くないし、むしろこの大学でもそういうことを求められているのかもしれないけど、僕はなんかあまり大学という場にそういう実践的なものを求めようとは思っていないんです。どうせ大学を出れば実践はいくらでもしなければならないのだから、その前にアカデミックな場所でキュレーションというものを考えるときには、いまいったようなディシプリンがどうやって現場と結びついているのかとか、そういうことをもっと考えていけるといいなと思っています。

── ベースをつくるのは大事ですよね。美術館に入って来る若い学芸員と話していると、共通の言語がない、と感じることがあります。

住友 それと、いま心理学とか美術史とか簡単に言ってしまいましたが、やっぱりアカデミズムのいいところは、それぞれの分野の掘り下げ方があることですよね。研究のための手法がある。だから、研究者の人たちはその分野の中で深入りしていけばいいのだけれども、しかし、現場で必要なのはその方法論に対して自覚的になることですね。「いま自分には心理学的なアプローチがすごく重要だな」とか思いながら、でも別にそれを掘り下げるわけではなくて、フィールドワーカーとして文化人類学的なアプローチともきちんと結びつける。そういうことに意識を集中するのがすごく重要だったりします。

「心理学的なアプローチで対象に向かい合うのだ」と一心にやることは現場ではむしろ破綻することの方が多い。結局僕が研究者の人の現代美術に関する発表とかを聴くときに不満を覚えるとすれば、だいたいそういうことです。現場で起きていることというのはすべて有機的につながっていて、どこかで切れるものではない。でも研究をするときにはどこかで枠組みを作って、その中でものを言わなければいけないわけじゃないですか。もちろん、研究する上では区切ることが必要だとは思います。でも、有機的な総体が見えていないと、その区切り方が適切にできないのではないかと思う。そこはもっと現場とアカデミズムの相互関係があるといいなと思うんですよね。

僕たちキュレーターは、その有機的な関係をなるべく途切れさせないように仕事をします。たとえば展覧会をつくるときに作家と交渉をする。新しい作品をつくるためにマネージメントとか文化行政的な自分の経験を活かすこともあれば、その作家が作ろうと思っているものの内容、たとえばいまの社会問題を取り上げるとか、そういうことに関しては、自分が持っている知識も持ち寄って一緒になって作り上げる。この間にコンフリクトが生まれてくることも必ずあるわけですが、でもそのコンフリクトを切ってしまうのではなくて、結びつけることに意味があるわけです。そんな風に、すべてがつながっている状態で認識しているかどうかということが、現場とアカデミズムの大きな違いではないかと思います。学会やアカデミズムへの評価としてどうということよりも、そういう役割分担なのだということかもしれませんが。

学会に望むこと

── 今後学会に期待することはいかがでしょう。

住友 美術評論家連盟のニューズレターに、たしか「普遍言語」というテーマで書いたことを思い出しました。いまは英語が普遍言語になってしまっているわけですよね。水村美苗の『日本語が亡びるとき』をめぐって『ユリイカ』とか『中央公論』で色々議論が起きたときがあって、そのことを書いたんです。もちろん、普遍言語がないとお互いに意思疎通できないし、絶対に英語で書くべきだし発表すべきなんだけれども、そのことによって失っているものがないか、ということです。

日本の場合には、「翻訳」という局面において研究者やアカデミズムが関わってくることが多いですよね。単に本の翻訳ということだけではなくて、海外とシンポジウムを組んだり、研究発表や著作を通じて、国際的な美術の状況の中に日本の美術がどう位置づけられるかとかそういう話になるときに、やはり学芸員や作家本人というよりも研究者の介在する割合というのが高くなると思うんです。これに関連して気になっていることがあります。

97年にはじめて中国に行ったぐらいのときから、アジア美術に関わるようになりました。それまでは西洋一辺倒で、西洋美術史以外のアジアのことなんて全然知らなかったのだけど、アジアの美術というものを知ることでそれが相対化されて思うようになったのは、最近アジアでは、欧米で教育を受けて帰ってきた若い人たちというのが圧倒的に増えているんですよね。僕がアジアに行きはじめた頃は、そういう人はむしろ珍しかった。現場でずっと仕事をしているアーティストやキュレーターや研究者の人たちというのは欧米では教育を受けていなくて、そういう人たちが、すごく下手な英語なんだけど、自分たちの美術はこうですと発信して、こっちも下手な英語でやりあう、みたいな、そういう状況が長かったんですよね。

でも最近は欧米で教育を受けた人たちの数が増えていて、ボキャブラリーとか使う理論が圧倒的に欧米中心になってきている。彼らはローカルなものも、グローバルアートヒストリーの価値観も、あるいは多文化主義の意味というようなこともよく理解してやっていると思うんだけれども、でも結果的には欧米の価値観を内面化してそれぞれの地域でそれぞれの美術を語るという状況が非常に生まれている気がしていて、これに関しては僕は批判的なんです。そのカウンターとなることも研究者の役割としてあるのではないでしょうか。研究や大学というのは基本的にはすごく植民地主義的なパワーが生まれやすい場だと思うんです。日本の美術が海外で紹介されるというときにも、いま言ったような状況が起きてると思うし、アジアの美術はいまそういう状況にある。現場から見てすごく危機感を感じています。国外への発信というときにアカデミズムの持っている役割が大きいがゆえに、その植民地主義的な側面に注意をしなければならない。

翻訳が増えること自体は、いろいろなものの見方を増やしているという点ではいいことが多いはずなんだけれど、価値基準の内面化というのはまた違う問題ですよね。そこにもう少し自覚的になると何かが変わるんじゃないかという気がします。

たとえば、北澤憲昭さんの『眼の神殿』とか、ああいう日本の近代美術制度の研究って80年代のものですよね。そこから30年も経っている割にはあまり進んでないなって愕然とするのですが、僕は藝大に来てからそういうことに意識的にならざるを得なくなった。藝大というのはやっぱり、芸術が近代化されていくときの一番のプレーヤーだったわけですから。そういった言説や、大学、美術館といったものが相まっていかなる価値のヒエラルキーを作っていたのかということに、去年ここにきてから自覚的になりました。それゆえにさっき言ったような危機感を感じています。まあアジアに行ってそういうことを感じはじめたのはもっと4、5年ぐらい前になりますが。やたらと流暢な英語の発表者が増えたなと思う一方で、そこで展開されている理論は「え、ちょっと待って」となるようなものだったりする。それ以前の韓国の民衆芸術の研究者だったら絶対そんなことは言わないような、労働者運動の人たちからすれば言ってはいけないようなことを若い人たちが言ってしまっている、というようなことが起きている気がするんですよね。

── 海外の文脈を導入しつつも、その価値基準を無批判に内面化しないようにするというのは、基本的なことだけれどとても重要なことですね。一方で、学会誌の『表象』に関しては、住友さんも関わられたという「ネゴシエーションとしてのアート」など、重要な外国語文献の翻訳を行っているということで評価されることも多いように思います。

住友 翻訳の出版が少ないからね、いま。だからそこで翻訳を載せるのはいいことだと思いますけど。

でも、「ネゴシエーションとしてのアート 」のときのラインナップは正直ちょっと古かったと思っています。ジャーナルという特徴を考えたらなるべく同時代のもの、せめて4~5年ぐらいの間のものを載せられるとよかったと思うんですよね。特に、中東のアートのこととかね。日本には全然入ってきてないけど、ヨーロッパではかつて他者として眺めていた中東やアフリカのアートが中心的な場所にかなり入り込んでいる。自分たちと全然違う社会背景を持っているものこそ、翻訳を通して知るということの意味があるはずですよね。翻訳がなければみんな自分からはあまり読まないし、そもそもアラビア語ができる人って日本にどれだけいるんだろう、みたいなところもあるから。

── 欧米中心ではない価値観をもっと紹介することが必要、と。

住友 そうですね、それは本当にそう思うな。表象文化論に限らず日本の学会で、欧米中心ではないところで議論をしているものってあるのかな。カルチュラル・スタディーズとかはそうなのかな? でもイギリス中心な感じがありますよね。同僚の毛利嘉孝さんが関わっているから去年のカルチュラル・タイフーンは顔を出したんだけれど、まさしく先ほど言ったような、流暢な英語を喋るアジア人パネリストがすごく多かった。

── カルチュラル・タイフーンは使用言語は英語なのですか?

住友 日英ですが、英語のパネルがかなり多いです。英語を使うこと自体は別に悪くないと思いますけど、でもやっぱり使われている理論とかを考えるとひっかかるものがあります。

でもカルチュラル・タイフーンは展覧会をやったりパフォーマンスをやったりという部分があるからね。言語的でない方法で表現する場があるだけでだいぶ風通しがよくなるなと思うんですよね。これを研究者の人たちに言うのは何ですが。でも、ものを考えるときに絵を描くとか、造形的なものによって思考することってありますよね。踊ることや歌うことでもいいんだけれど。そういう部分はカルチュラル・タイフーンには結構あって、そのことで、さっき僕が懸念していたようなことをかなり回避している面があって、そこはいいなと思いました。発表者の人の身体と声とか、写真作品だったり映像だったり、そういうものがあることによって全然コミュニケーションとか議論のされ方が変わるっていうことはある気がしますね。

── 少し話を広げて、同業の学芸員の方たちが一般に学会などに対してどのようなスタンスを取っているのかもお聞きしたいと思います。

住友 学会というのは表象に限らず全般的に、ということですか。どうだろう。美術史学会は学芸員で入っている人はかなりいますよね。

── そうですね、入っている人は入っていますが、必要に迫られて、という場合も多いように思います。たとえばフランス美術の展覧会を企画すると、それにからめた研究発表会を日仏美術学会が企画してくれる、ということもあるので。
一方、フランスの場合――たぶんヨーロッパに共通してだと思うんですけど――日本みたいなかたちの学会というものはないんですよね。そうじゃなくて、何か研究テーマがあって、それにあわせて発表者を募集して、人が集まってカンファレンスをやる、というようなかたちです。そういうところに行くと、美術館の学芸員の人が、自分たちのコレクションについての調査とか、展覧会にまではいかなかったけれど何かリサーチをしたこととかのアウトプットをしていて、それが大学の研究者と美術館の学芸員とのコミュニケーションの場になっていたりする。それから美術館の存在をアピールする場にもなっていますね。

住友 それはそのシンポジウムを企画する学会側の人が、このテーマにはあの美術館のコレクションが関係しそうだなというかたちで結びつけるわけですよね?

── そうですね。

住友 結局そういう場が日本は少ないということなのかなという気がします。たとえば美術館だったら、全国美術館会議とか、情報交換に役立っている場があるわけです。そういうところに行くと、あの美術館は来年こういうことをやるとか、そういうのが分かるわけですよね。そういう場と、学会とかアカデミズムを行き来する人がもっと増えないと、たぶんそういうパネルは組めないですよね。各フィールドにどういう人がいるのかも互いに分かってないしね。

だから大学の先生が学芸員になったり、学芸員が大学の先生になったりと、もっと頻繁に行き来しないと無理だと思いますね。現状では、なんとなく「学芸員やめたら先生になろう」という感じで先生になって、そうしたらもう現場からは完全に離れちゃいますからね。大学にずっといるのではなくて5年とか10年とかいて、また現場に戻る、というのであれば、両方の人脈が分かるっていう人になると思うんだけど、そういう人が少ないのかもしれないね。

── 美術館は、一回就職したら同じ館にずっといる、という人が多いですよね。住友さんは例外ですけど。

住友 でも、よくないことだけれど、今は年限付きの雇用によって、玉突き的に人の移動が起きているということはありますよね。

── そうですね、私はまさにそれによってあちこち移動しています(笑)。

住友 けどそれは人的ネットワークというのとはまた別の仕組みで動いているものですものね。
なんとか相互の人的な交流が促進されるネットワークづくりが進む仕組みができるといいなと思いますね。

── 現場と学会/大学の結びつきというのは、一回集まってシンポジウムを開いてどうにかなるというようなことではなく、具体的な雇用の部分まで含めて交配が進む必要がある、と。

住友 そうですね。

── 学会ではないんですけど、フランスにいたときにびっくりしたというか、すごくいい取り組みだなと思ったことがあります。向こうの美術館って、桁違いの数の所蔵品があるので、とても中にいる学芸員だけじゃ調査が追いつかいわけですが、そこで、パリ市内の大学の美術史コースで、修士や博士に進学したばかりの学生とかを美術館に一気に集めるんですね。それで、「いまうちにはこういう作品や資料があってこういう研究が可能です」ということを紹介して、学生の中で興味を持った人がいれば、ちゃんと実際に物に触って研究ができる、という試みが行われていました。

住友 へえー。その分野の専門の先生がいたら自分の学生を連れてきて、というのは日本の美術館でもある程度はありうるけれど、そんな風に修士ぐらいの学生に呼びかけてというのはかなり踏み込んでやっていますね。大学からすれば実物をちゃんと扱えるというメリットは大きいですし。うちでもやりたいですね。

まあ結局美術館って、外から見れば閉鎖的なのかもしれません。お金をかければできることもやってないだろうし。だからこれはアカデミズムの側の問題とか評価とかだけではなくて、美術館の側の問題としても考えるべきなのかもしれないけど。

キュレーションとリサーチ

── 最後に、住友さん自身の現場でのお仕事におけるリサーチ行為の位置づけについてお伺いしたいと思います。

住友 僕らが学芸員の仕事でやってることというのは、煎じ詰めればリサーチとマネジメントと何らかの創造的な部分、この三つのバランスがすごくいいときに、いい展覧会ができるんだろうなと思うんです。実際このどれかが手薄なものって、いい企画にならなかったりすると思うんですよね。そういう意味でリサーチは三本柱のひとつとして大きな役割を持っていると思う。でも別の言い方をするならば、つまり三分の一程度なんだ、ということですよね。そこは研究者と違うところだと思います。

マネジメントというのは、すごく実務的な話かもしれないけれども……とにかく決めていく仕事なんですよね、学芸員の仕事って。十個選択肢があって三つ選ぶとする。別にそこにすごく合理的な理由が見つけられなかったとしてもいいんですよ。実際見つけられないことが多いし、そもそも選ぶものが何か感性的なものかもしれない。でもそれをなぜ選んだのかということを説明しなければならない。公立美術館の場合は特に。だからそういう意味でのマネジメントのスキルとかはすごく重要なんですよね。決めるものが数多くある。そこで、さっき美術史とか人類学とか言ったけれども、自分の判断というものをどうやって人に伝えるか、そもそもどういう風にものを考えて判断を下すのかというときに、文化政策学とかアートマネジメントはもちろん、いわゆる思想哲学というものも重要になってくる。だからリサーチとマネジメントというのは分かれるわけではなくて、人文的なアカデミックなトレーニングを受けた人がマネジメントに活かせるものというのはたくさん出てくるはずだと思うんです。

まあもう一つのクリエイティビティ、創造的なものというのは、どこまでアカデミックなものと結びついているのか、よく分からないところもあるけどね。旅に行ったり本でも読んでる方がいいかもしれない、という感じの部分ですよね。それでも、少なくともマネジメント能力とリサーチ能力の部分は研究や学問とすごく結びついているところだと考えています。

── リサーチの具体的な内容についてですが、たとえば先ほど、『アートフォーラム』や『フリーズ』に目を通されるというお話がありました。そうした文献との付き合い方とか、あるいは現地調査をどのように進めるのか、といったことなどお話しいただけますでしょうか。

住友 これは、僕が館長という立場になってしまったことでだいぶ変わってしまいましたね。つまり、一つの展覧会を自分で持つということをやらなくなって何年か経ってしまってるんですね。例外はあいちトリエンナーレと銀座メゾンエルメスフォーラムでの「境界: 高山明+小泉明郎」展ですね。これらは外の仕事だったので。

館長の仕事というのは結局、もうほとんどは、何が起きているのか、何が問題なのかを把握することと、それに対して、その場で判断を下すこともあれば、これは保留にしておこうと決めること。そういうことばかりなんですね。だから、そもそも自分に報告がないものだってたくさんあるけど、状況をつねに分析したり把握しておかないといけない。

『アートフォーラム』とか『フリーズ』とかをとにかくずっと続けて読むというようなことは、館長になってからはやっていないです。でもそれをずっとやっていたので自分が直接アメリカとかイギリスとかにいかなくても、同時代の議論の焦点がどこにあるのかだいたい把握できる蓄積はあります。

とはいえ、もう開館して三年経ったからリハビリをはじめてます。いま授業で12誌挙げて、学生にとくにかくこれを読み続けることと言って授業ごとに毎回発表させています。全部読めということではないですよ。それぞれ自分の修論のテーマとかがあるから、それと重なる人ならそれでいいし、そうじゃなくても、とにかく目次と図版を見ろ、と。目次と図版をいかに見続けるかというのがすごく重要なんですね。それをやるだけでも、たとえばあるペインターの名前を聞いたときにピンと来る、とか、そういうことがトレーニングされるわけですよね。

それから、現地調査ですか。……学芸員って、やっぱりフィールドワーカーみたいなところがありますからね。大学の研究だったら、あるテーマを設定して、現地の研究者にアプローチしたり、そこに行かないとアクセスできない文献資料を見せてもらうとか、そういうことがあると思うけれども、学芸員の場合、そういうこともありつつ、むしろ美術館やギャラリーをばーっと見て回るというのが重要だと思うんですよね。たとえば、グローバルというようなことがすごく言われても、イギリスのギャラリーとか――まあ経済とかにも影響されるだろうし、最近変わってきたかとも思うんですけど――なんだかんだいって同じようなものばかり見せてるな、とか思うことがあるんですよね。つまり、本当に世界中から色々なものが集まっているのかというとそうではない。そういうことってやっぱり、ばーっとたくさん見ないとわからないですよね。だから、調査というときにいかにそういうノイズに触れるか、役に立たないものにどれだけ触れるかというのが重要だと思うんですよね。

それから、飯を食う、というのも重要ですよね。やっぱり打ち合わせの目的だけで行くと、ノイズがなかなか拾えないというのがあります。食事をするぐらいのリラックスした感じのときに、自分がいま知りたいこと以外の話が聞けるというのがひとつ。それから、なんていうのかな、キュレートって語源がcareという言葉と共通だというじゃないですか。だからある種メンタルなというか、心理学的なことと関わってくると思うんですけど、食事をするってそういうところがあると思いませんか? たとえば、美術館の付き合いの中で、ご遺族との関係というものは実はすごく大きいんですね。なんだかんだで美術館ってやっぱり死んでいくもの、死んだものを扱う場所なんですよ。そこでのご遺族との関係というのは、単に資料をお預かりしますとか、許諾をくださいとか、そういうだけの関係ではないんですよね。そういうだけじゃない関係にならないとダメなところがある。食事じゃなくてお茶でもいいわけですけど、書類だけでもちゃんとできるところを、そうじゃない関係になる、みたいな、そういうことが重要だと思っています。

こういうことも含めて、大学に来るまでは自覚的にしていなかったところをもう少し意識的に言葉にする必要があるなと最近は思っているけれど、まだできていないというのが正直なところです。授業で話していると言葉中心になってしまうけれど、美術館で授業をやっていればいまの話も伝わるかなと思うことがあります。ただ、それには群馬は遠いんだよね。でも何人かの学生は実際に来て展覧会を手伝ってくれたりとかするので、そのときにいまみたいなことが伝わればいいなと思いますけどね。

飯食うのがどうこうって、でも古い話だよね。なんかパワハラとか言われそうな感じがある(笑)。でも、経済行為でもないし、研究ということでもない、けれどキュレーションの大切な一部なのだ、という部分がそこにあるような気がするんですよね。


2017年5月28日
東京藝術大学住友研究室にて

広報委員長:横山太郎
広報委員:江口正登、柿並良佑、利根川由奈、増田展大
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2017年7月29日 発行