PRE・face

学会が終わる日

熊谷謙介

私は学会の経理を担当しているが、深夜に帳簿の整理をしていると、ふとよぎる妄想がある。学会がもし終わることになったら、今まで繰り越してきた資金をどのように会員に返せばいいのか。

おそらく、一人ひとりの口座情報を聞き、頭割りしたお金を振り込む形になるのだろう。「学問的使命を果たし終え…」など、分かるようでよく分からない文句の手紙を添えて。

しかし、最後に大会を盛大に開くのもよいかもしれない。アーティストたちの数々のパフォーマンス、海外から特別ゲストが続々登場するシンポジウム、山海の珍味をそろえた懇親会を開き、大団円を迎える…。そんなことをしたら、むしろ学会継続に向けての運動が起こるかもしれない、とまた夢想する。

学会の終わりについて想像することは、学会がなぜ始まったのかについて考えることである。なぜ、かくも忙しい日々の中、体を休めるべき週末に、わざわざ遠くまで出向いて難しい話を聞くのか。純粋な学問的興味、アカデミズムの伝統の継承、はたまた、単純に友人たちと語らう機会を持ちたいなど、さまざまな理由が挙げられるだろう。伝統的には、学会発表や学会誌に論文を掲載してポイントを稼ぐことで、就職の道も開けるという実利も期待できたが、今ではその機能も弱まりつつある。

「来週の週末に学会があるんだ」という人に対して、「学会ではなく大会だ。学会は365日あるのだから」と応じた先生のことを思い出す。某学会で幹事長を勤め上げた方だが、こうして事務局に所属してみて、けだし、名言であると感じた。実際、学会運営に休みはないのである。

とはいえ、会員の立場から、学会についてもう一度考えてみる。ふつう、学会が可視化されるのは、学会誌が送られてくるときを抜きにすれば、大会のときぐらいである。そして発表者にとっては、大会というよりも、自分が発表する時間にのみ全神経を集中しているのかもしれない。

表象文化論学会は大会の際にライブパフォーマンスを積極的に主催しているが、研究発表はもう一つのパフォーマンスである、と言えまいか。語るべき内容をこれでもかと詰め込み、聞き取れるか聞き取れないかの限界にまで圧縮したスピードでまくし立てる姿は、どんな学会でも見られる研究発表のドラマであろう。それが何本も、緊張感を持って続いていくのが、大会という舞台なのだ。それが本学会では、学会員でなくても1日1000円の当日会費で味わえるのだから、ちょっとした芝居を見に行くよりもよほどスリリングな体験になるだろう。

やはり学会は大会であり、大会は祝祭なのである。長年の研究成果が25分間に凝縮され、懇親会での語らいとともに消尽されていく。とりわけ本学会の研究発表が、学会誌の論文執筆の条件にはなっていないことを考えれば、これはまさしく過激な贈与、ポトラッチの場なのである。

表象文化論学会は、本ニューズレターがいちはやく研究発表の報告をしたり、学会誌が一般の書店で販売されたりするように、多分に外部に開かれたスタンスをとっている。少なくとも、それに向けて努力をしているはずだ。さらにはアーティストを招いたパフォーマンスやトークを通じて、現場とのアクセスを常に試みている。しかしそれと同時に、大会や研究発表集会では、専門家集団が見守る中、研究発表が密やかに、しかしながら熱気をはらんで繰り広げられている。赤く燃える炎のように──、いやむしろ青白い炎といったほうがよいかもしれない。一見クールに見えるものであるが、実際には非常に高い温度の熱を発している光である。

今回の特集では、アートやファッションの現場に属する3人の方にインタビューをし、学会に向けての思いを三者三様の形で語ってもらっている。しかしそこで意外にも指摘されているのは、ある種の専門性であり閉鎖性の必要性である。「コラボ」や「対話」という言葉が叫ばれる中でも、このような秘密の空間を死守すること──いや、「死守」などと言わずに、ある場所がなくなったら新たな領域にゲリラ的に侵入してしまうようなフットワークの軽さを持ち続けること──、これが安定期に入りつつある学会の身の処し方なのではないか。

…といいながら、このような場を確保するために、365日、会費徴収に余念のない私である。祭りを開くには、ともあれ先立つものが必要なのである。

広報委員長:横山太郎
広報委員:江口正登、柿並良佑、利根川由奈、増田展大
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2017年7月29日 発行