小特集「メタモルフォーゼ」 1.対談 松尾恵×佐藤守弘 1

対談:松尾恵(MATSUO MEGUMI+VOICE GALLERY pfs/w)×佐藤守弘(京都精華大学)|森村泰昌とダムタイプの80年代京都文化|聞き手:門林岳史、林田新|記事構成:林田新

—— 森村泰昌さんとダムタイプは、80年代のほぼ同時期に京都で活発な活動を開始しており、また、両者とも変身、つまり他なるものになることといった主題と密接に関連する作品を制作してきました。しかし、これまで両者の関係について論じられることはどちらかというと少なかったように思います。今回は、VOICE GALLERYを運営し、長い間京都のアート・シーンを見つめ続けてこられた松尾恵さんと、京都市立芸術大学で教壇に立っていたY・アーネスト・サトウを父に持つ佐藤守弘さんに、森村泰昌やダムタイプを輩出した80年代京都文化について語っていただきたいと思います。

「美術」から「アート」へ

佐藤:松尾さんは京都市立芸術大学を卒業された後、1986年にVOICE GALLERYを創設されて、ずっと京都のアート・シーンのど真ん中にいらっしゃってシーンを見てこられたわけです。そこで、森村泰昌さんやダムタイプ以前の世代の京都のアート・シーンってありますよね、例えば走泥社のような。そういうところから、森村さんたちが出てこられた時期以降変わったような気もするのですが、そこで意外と重要なのが、京都市立芸術大学が1980年に移転したことだと思うんです。京都駅から鴨川を越えて東の側にある今熊野キャンパスの木造校舎から、洛西ニュータウンの大枝沓掛町、中心地からかなり離れたところのいま思えば信じられないくらいピカピカの校舎に移転した。あれに関してはものすごい反発があったみたいですね。うちの父も大反対していた。芸術家があんなところに、みたいな。けれども、それがひとつの起爆剤みたいになっていたようなところがある。

松尾:80年というのは、私がちょうど大学を出た年で、大学院に行かなかったのでその年から社会に出たんだけれども、すごく状況が変わったときだった。今熊野は今熊野ですごく閉ざされたサンクチュアリ的な感じもあったんですけどね。私はそのまま卒業したけれど、移転するって言っても、学生一人当たりの広さが1.2倍にしかならへん(笑)、とか、いつか地下鉄ができるらしいよって聞くけど、えらい果てのほうでしょ。私は大学出てすぐに京大の医学部でイラストを書く仕事をしていたんですけど、毎日YMO聞いてました。テクノの第一期。80年ちょっきりというのは、そんな印象です。

佐藤:父・アーネスト・サトウの研究室、通称「映像教室」にいる人たちで、うちの家に遊びに来る人たちも、急にオシャレになるんですよ。ロンドンに行ったお土産にThe JamやらPigbagやらのテープをくれたり(笑)。ニューウェーブのお兄さん、お姉さんたちだったんですね。

松尾:いま言うと恥ずかしいけど、テクノカットですよね(笑)。おかっぱやねんけどその下は剃りあげてるみたいな。私もそんなんしてましたけどね。あとEP-4とかね。懐かしい。

佐藤:〔EP-4といえば〕クラブ・モダーンですね。あと、新京極にある詩の小路ビルのDEP’Tの下にあったカフェ、dee-Bee's。そういうクラブ・カルチャーとアーティストたちのつながりというのは……。

松尾:どうだったんでしょうね。私は卒業しちゃったので知らないんだけど、新しくなった校舎の学祭でね、銀猫っていうキャバレーを〔ダムタイプの〕古橋悌二さんとかがやりだすんですよ。それがドラァグクイーンの前兆で、すでにそのころリップシンクだとか女装とかしてたらしい。木造の校舎から鉄筋コンクリートに移っていく過程で、かつての演劇集団が終息していくんですね。のちにカルマっていう演劇集団を古橋さんが旗振り役になってダムタイプに変えていく。

佐藤:クラブ・カルチャーの話にはあとで戻ってくるとして、ダムタイプが新しい京都を象徴するみたいなところがあった。でも森村さんは微妙なんですよね。

松尾:そうなんですよ。《肖像(ゴッホ)》をギャラリー16に出さはったのは85年でしたっけ。森村さんはいまから思えば遅咲きの方だったでしょ? 森村さん本人もいろんなところで語ってらっしゃるけれど、大学のころって何やったらいいか分からんかったし、長いあいだ模索してた、と。で、ある日作ったゴッホの作品、あれなんですよね。私はあそこからしか知らない。

佐藤:世の中に出た時期でいうとダムタイプと変わらない。ただ、森村さんは確実に今熊野キャンパスで専攻科〔後の大学院〕まで学生生活を送っていた。で、そのあと80年から非常勤講師として、アーネスト・サトウの映像教室の世話を見てくださっていたんです。それは沓掛に移ってからなんですよね。それこそ著書などで回想されているように、全然作品を発表しない、学生に見せない。同期で一緒にいたのが木村浩さん。あっちは明るくってサーファー髭はやして、フランク・ザッパとかが大好きで……(『芸術家Mのできるまで』筑摩書房、1998年、pp. 30-31)。

松尾:85年の展覧会が、木村浩さんと石原友明さんと一緒にやった「ラデカルな意志のスマイル」っていう展覧会だったんですよ。私は森村さんだけ知らずに行ったんです。木村さん、石原さんは存じあげていて……。

佐藤:その三人が全員、非常勤講師として映像教室にいらっしゃいました。

松尾:石原さんがその後88年にヴェネチア・ビエンナーレに作品を出したり、という時期ですね。それが篠原資明さんが80年代の関西アート・シーンをものすごく持ちあげて評価してくださったときの第一グループでした。石原さんはスター級、木村さんも頑張ってらして……。私は森村さんだけ知らないまま展覧会に行ったのだけど、作品を観てちょっと度肝を抜かれた。

123456