研究ノート 金井 直

「アルテ・ポーヴェラ2011」消息
金井 直

いささか平俗な話からはじめたい。すなわち、美術の国イタリアについて。過去において、そして当節なお、イタリアほど美術の栄光と結び重ねられる国は稀であろう。レオナルド、ミケランジェロ、ラファエッロ。あるいはカラヴァッジョ、ベルニーニ。彼らの作品を目当てに世界じゅうから旅人がこの国を訪れる。確かにフランスも美術が看板の国ではあるが、ルーヴルで来館者を引き寄せているのは、なんといってもモナリザであろう。とすれば、まさしく美術の国イタリアという話。

にもかかわらず、上の芸術家たちが「イタリア国民」ではなかったことを、あらためて思い出させてくれたのが昨年のできごとであった。イタリア統一150周年(わずか150年なのである)にあたる2011年、美術分野の記念行事として打ち出されたのは、ルネサンスやバロックの巨匠ではなく、ポヴェリスティ(直訳すれば「貧しき人々」だ)と称されるイタリア人たち(とひとりのギリシア人)の展覧会であった。すなわち「アルテ・ポーヴェラ 2011」である※1

アルテ・ポーヴェラ(Arte povera 貧しい芸術)とは1967年にはじまる美術運動、芸術家たちのゆるやかな連帯である。アルテ・リッカ(Arte ricca 豊かな芸術)、すなわちop(オプティカル・アート)やpop(ポップ・アート)の流行に逆らい、材木や石、鉛、ぼろぎれなど、非芸術的なモノそのものに、作家自身の身体や思考を結びつけた表現/態度で知られる※2 。前号の池野絢子氏の研究ノートも参照していただきたい※3 。一方、過去150年のイタリア史のなかで、もっとも名の通ったイタリア美術といえば、もちろん未来主義(「未来主義宣言」は1909年の発表)であろう。このことは、文化相ジャンカルロ・ガランのコメントを筆頭に、アルテ・ポーヴェラの重要性を語る際、多くの論者が「未来主義とならんで」といった言い回しをとることからもうかがえる※4 。にもかかわらず、かくも重要な周年事業がアルテ・ポーヴェラ展でおさまったのはなぜだろう。公式には、経済の成長モデルが潰え、環境対策が喫緊の課題となる現代社会の人心に訴える表現として、つまり機械と速度を賛美する未来主義の近代主義的修辞とはまったく逆の芸術として、いまアルテ・ポーヴェラをみつめることが提案されたわけだが(筆者自身、豊田市美術館において、同様の「公式見解」で、2005年に愛知万博に絡めてアルテ・ポーヴェラ展を企画運営した)、より実際的な理由は、ファシズムと関わる未来主義の扱いにくさ、未来主義宣言100年記念展がごく近年(2009年)開催されていたこと、そして現存作家のプロモーション(ポヴェリスティのうち、物故者はピーノ・パスカーリ、アリギエロ・ボエッティ、マリオ・メルツ、ルチアーノ・ファブロ。他の作家たちは六十代のジュゼッペ・ペノーネ、ジルベルト・ゾリオはもちろん、1933年生まれのミケランジェロ・ピストレットにいたるまで、精力的な制作・展示活動を続けている)といった点に求められるはずだ。それなりの「熟慮」に支えられた今回の展覧会とみて差し支えあるまい。

開催地の広がりにも統一記念という主催者側の思惑がうかがえる。すなわち、トリノ近郊のカステッロ・ディ・リヴォリ現代美術館における「アルテ・ポーヴェラ・インターナショナル」、トリエンナーレ・ディ・ミラノにおける「アルテ・ポーヴェラ 1967-2011」、ボローニャ近代美術館(MAMbo)における「アルテ・ポーヴェラ 1968」、ローマ国立近現代美術館における「国立近代美術館のアルテ・ポーヴェラ」、ローマの国立21世紀美術館(MAXXI)における「アルテ・ポーヴェラへのオマージュ」、ナポリのドンナレジーナ現代美術館(MADRE)における「アルテ・ポーヴェラ+アツィオーニ・ポーヴェレ 1968」、バーリのマルゲリータ劇場における「アルテ・ポーヴェラ・イン・テアトロ」である。テーマを変奏し、会期を重ねつつ開催された展覧会群であるが、留意したいのは、ミラノ、バーリ以外の開催地が、アルテ・ポーヴェラの歴史とそれぞれに関わりをもつということだ※5 。ゆかりの地を結ぶことで、イタリア南北がつながるという事実は、ミラノを中心とし、むしろパリをはじめ各国の大都市へと展開した未来主義のインターナショナリズム、コスモポリタニズムとは別の魅力を、主催者側に感じさせたことだろう。

全展覧会の監修はジェルマーノ・チェラントである。「アルテ・ポーヴェラ」の命名者として、1967年以来、作家たちとの信頼関係を基盤に一貫してこの運動=態度の輪郭と方向を定めてきた批評家であり、今回の展覧会図録においても、巻頭で自らのアルテ・ポーヴェラ観を披瀝している※6 。チェラントは、まず、物質や実践の異種混交性や、コントロールの拡大に対する抵抗を重視して、アルテ・ポーヴェラの根本精神をゲリラ戦とみなした自身のかつての立場を確認・肯定する。そのうえで、そのラジカルな詩学は、今日なお、一元的なグローバリズムに抗するものとして、美術史家・批評家をひきつける特質を有しており、そうであればこそ、通り一遍の歴史的回顧には終わらない、複数の歴史/物語を示す展示が求められると主張する。チェラントにとっては、それこそが今回の展覧会群ということになるのだろう。つまり「アルテ・ポーヴェラ 2011」には「その成果がヘゲモニーや中心性を強化するのではなく、むしろそれらを完全に取り除くことを意識しつつ、基準なき未知の状況に身を開くこと」が求められるのである※7

まさに功なり遂げた批評家の泰然とした構えのうかがえる文章である。図録のイントロダクションということもあり、全体に論争的なトーンは抑制されている。しかし、そうであればこそ、註内ではあるが、あえて実名でジョヴァンニ・リスタを批判する点は否応なく目につく※8 。リスタは未来主義の研究者として著名だが、アルテ・ポーヴェラについても著書がある※9 。そのページを繰れば、確かに作家・作品の説明に「イタリア・アルカイック文化」や「イタリアの美学的伝統」、「イタリアのアイデンティティ」、「ルネサンス美学」といった語が頻出し、チェラントのテキストとはおよそ趣の異なるものである。チェラントはこの点を「ナショナリスト」、「イタリア中心主義」と批判するのだ。無論、リスタはリスタでチェラントのアルテ・ポーヴェラ理解を批判している。つまり、チェラントは「アルテ・ポーヴェラの芸術家たちのなかに、芸術のベトコン・ゲリラを求めた」のであるが、「それが誤りであったことは、運動の展開自体をみれば明らか」ではないか、と※10 。  チェラントがポヴェリスティをゲリラ化するのに対し、リスタは言わば国民軍へと再編する。もちろん現代美術史の言説においては展開力あるゲリラ化のほうが有効だろう。しかし、「美術の国イタリア」という意識の前では、むしろ正規軍内の遊軍といったところか。いずれに分があるのか。そんなことを思いつつ、「アルテ・ポーヴェラ 2011」の展示を振り返る。

はじめに断らねばならないが、筆者が実見した展覧会は、7会場のうちの5ヶ所に留まる。残念ながらボローニャとバーリには足を運ぶことができなかった(とくにボローニャ展は、同市で1968年に開催されたアルテ・ポーヴェラ展を起点に歴史的考証をおこなう重要な企画だったのだが)。カステッロ・ディ・リヴォリ展は同館の収蔵作品を活かしつつ、アルテ・ポーヴェラ作品とともに同時代の、あるいは同傾向の作品を並置・対置するもので、「インターナショナル」というタイトルのとおり、運動のコンチネンタルな、あるいはトランス・アトランティックな性格を示唆するものであった。トリエンナーレ・ディ・ミラノの展覧会は、ポヴェリスティの新旧作品をあわせて多数展観するもので、歴史的事象としてのアルテ・ポーヴェラを精密にとらえたい向きには、捉えどころのない展覧会であったかもしれないが、時代様式やイズムには括りえない個々の作家の魅力を直に感じるには貴重な機会であった。筆者にはとりわけジョヴァンニ・アンセルモの展示が常にも増して印象深かった(《軽やかに群青に向かうグレー》図1)。壁に連なる花崗岩の下、小窓のようにウルトラマリンの矩形がひとつ描かれ、その質量と色相の強度の均衡が、視る者の意識を研ぎ澄ます。ローマ国立近現代美術館は同館所蔵のパスカーリ作品を中心とする小企画。パスカーリの没後(1968年)、間髪を入れず遺作を収集し、個展を開催した当時の館長パルマ・ブカレッリの先見の明、公的機関の価値創出的なコレクショニズムの実例が示される。一方、2010年に開館した国立21世紀美術館(ザハ・ハディドの設計)はコンテンポラリー・アート専門の美術館らしく、クネリス、ゾリオ、ペノーネとの新規のコミッション・ワークによって、大規模なインスタレーションを実現していた。ここではゾリオの作品が出色であった。ハディドの個性が際立つ同館内部に順々に割りつけられた展示空間は、けっして美術作家を満足させるものではない。他の二人がその制約を甘んじて受け入れているのに対し、ゾリオは建築の外部に、壁に突き刺さるような彫刻作品を設置してみせた(《ローマのカヌー》図2)。筆者には建築家主導の昨今の美術館建設ラッシュに対するマエストロ・ゾリオならではの一擲のように思われたが、穿ちすぎだろうか。

ドンナレジーナ現代美術館はプライヴェート・ギャラリーからの借用作品を中心に、アルテ・ポーヴェラ以外の作品も組み入れた展示で、カステッロ・ディ・リヴォリに近い多様な内容であったが、コンパクトで明澄なホワイトキューブ風の展示空間(アルヴァロ・シーザによる優れたリノヴェーション)が、作品をより親密なものにしていたように思う。加えてドンナレジーナ美術館には、聖堂遺構をほとんどそのまま用いた別会場があった。これは「アルテ・ポーヴェラ 2011」全会場のなかでおそらくもっとも特殊な展示であっただろう(図3,4)。身廊から内陣にかけて、無造作に、つまり、1968年アマルフィで開催された「アルテ・ポーヴェラ+アツィオーニ・ポーヴェレ」を想起させる「気軽さ」で、歴史的作品の数々(プライヴェート・ギャラリー蔵の高額作品)がちりばめられていたのである。かくさず言えば、ここまで各都市で見てきた近代的な美術館展示(それは日本でもやってきた)の単調さからようやく抜け出して、この堂内でついにアルテ・ポーヴェラが正真正銘のゲリラ戦であった頃の、ゲリラ戦そのものが有効であった時代の空気を嗅いだような気分だった。この臭いたつ再構成のただなかに身を置きながら、筆者は、アルテ・ポーヴェラの紹介に少なからず関わってきた元学芸員として、これがやりたかったのだと、心中深く首肯いたのであった。

さて、しかし冷静に。ギャラリストたちの寛大さが可能にしたこの「気軽な」展示も、ともあれ「再構成」なのである。考え直せば、これは近代美術館風の作品展示を、現代の博物館お得意の再現展示に置き換えただけではないのか。言ってしまえば、ミュージアム的理性のヴァリエーション内の出来事ではないだろうか。そう考えるとき、ドンナレジーナ聖堂は、脱美術館のゲリラ的身振り自体が疑似体験可能なコンテンツとなった現状を指し示すようにも思えてくる。ゲリラであることが展示されているのだ、ここでは。美術作品はいまや人類学的な展示のレトリックに委ねられる。60年代の臭いは、じつは今、キュレーターの手で調合されている。 とすれば、チェラントとリスタの対立にもあらためて留意すべきかもしれない。イタリア性といったナショナルなものにかかずらうリスタと、脱中心と未完を尊ぶチェラントは、なるほど言説上の衝突は繰り返すものの、拡張するミュージアム概念・実践の前では、もはや双方武装解除、体よくタンデム状態にあるとみるべきかもしれない※11

アルテ・ポーヴェラも齢四十五にして概ね博物館行きということか。しかし、そうは思いつつも、たとえば上でふれたアンセルモとゾリオの作品が、ナショナルなものにも、ゲリラ的なものにも括れない、それらのさらなる外部の可能性を指し示してくれていることを、筆者は重視したい。リスタ好みのイタリア性に乏しく、ゲリラ的な状況判断とブリコラージュ的順応にもさして関わらないふたりのトリノ人が決定的に、いま、「アルテ・ポーヴェラ」の外部を拓く。その外部こそが、かえって、60年代のアルテ・ポーヴェラが持ちえた遠心力を、より端的に継承しているということはないだろうか。このたびイタリアを縦断しつつ、筆者が垣間見たのは、アルテ・ポーヴェラという運動=態度が、ミュージアムのコンテンツへと巧みにアーカイヴ化されていく実情ではあったが、同時に、そうした状況を破断する、芸術家個々の変わらぬ外部ぶりに触れえたことは幸いであった。

金井直(信州大学)

[脚注]

※1 同展で取り上げられたポヴェリスティは以下の13人である。すなわち、ジョヴァンニ・アンセルモ(1934-)、アリギエロ・ボエッティ(1940-94)、ピエル・パオロ・カルツォラーリ(1943-)、ルチアーノ・ファブロ(1936-2007)、ヤニス・クネリス(1936-)、マリオ・メルツ(1925-2003)、マリザ・メルツ(1931-)、ジュリオ・パオリーニ(1940-)、ピーノ・パスカーリ(1935-68)、ジュゼッペ・ペノーネ(1947-)、ミケランジェロ・ピストレット(1933-)、エミリオ・プリーニ(1943-)、ジルベルト・ゾリオ(1944-)。

※2 以下を参照。拙稿「アルテ・ポーヴェラの現在」『ユリイカ』2001年7月号。拙稿「『貧』の範囲―アルテ・ポーヴェラ再検討―」『豊田市美術館紀要』1号、2008年。

※3 池野絢子「蛍は消えたのか―『アルテ・ポーヴェラ2011』展に寄せて」、『REPRE』14号、2012年

※4 「アルテ・ポーヴェラ 2011」の公式図録である以下を参照。Germano Celant (ed.), Arte Povera 2011, Milano, 2011.

※5 トリノ、ローマはともにポヴェリスティの活動拠点であった。ボローニャとナポリ近郊のアマルフィは、1968年の歴史的展覧会の開催地として重要である。バーリは多少例外かもしれない。パスカーリの出身地という縁はあるが、むしろ同地で建設中の新美術館のプレイベントといった性質が強そうだ。留意すべきはミラノの立場である。同地ではメルツやファブロが活動していたので、もちろん無縁ではないが、その都市規模からすると、1960年代から今日にいたるまで、アルテ・ポーヴェラに関わる動向・展覧会が意外なほどに少ない。アルテ・ポーヴェラを牽引する批評家ジェルマーノ・チェラントのライヴァルにしてトランスアヴァングァルディア(1970年代にはじまるイタリアのニュー・ペインティング)の主唱者アキーレ・ボニート・オリーヴァ側の街ということだろうか。実際、ミラノでもっとも有名な展覧会会場パラッツォ・レアーレでは、「アルテ・ポーヴェラ 2011」の会期に合わせるように、「トランスアヴァングァルディア」展が開催されていた。とすれば、今回、展覧会を受け入れたトリエンナーレ・ディ・ミラノ(一種のデザイン・ミュージアムである)は、アルテ・ポーヴェラ=チェラント陣営のミラノへの橋頭堡=楔といったところだろうか。

※6 Celant, op. cit., pp. 41-49.

※7 Ibid., p. 48.

※8 Ibid., p. 49.

※9 Giovanni Lista, Arte Povera, Milano, 2011.

※10 Lista, op. cit., p. 197.

※11 実は1980年代のチェラントは、台頭するトランスアヴァングァルディアに抗すべく、未来主義からアルテ・ポーヴェラに至る「イタリアのアイデンティティ」を強調する展覧会をおこなっている。ゲリラ、ノマド一筋ではないのである。拙稿、2008年、10−11頁参照。

ジョヴァンニ・アンセルモ《軽やかに群青に向かうグレー》1982-86年
Giovanni Anselmo
Grigi che si alleggeriscono verso oltremare
1982-86
dimensioni variabili
Courtesy Archivio Anselmo, Torino
Photo © Nanda Lanfranco

ジルベルト・ゾリオ《ローマのカヌー》2011年
Gilberto Zorio
Canoa di Roma
2011
1050 x 70 x 40 cm
Collezione Unicredit in deposito permanente MAXXI Roma

「アルテ・ポーヴェラ+アツィオーニ・ポーヴェレ 1968」展示風景、ドンナレジーナ現代美術館(MADRE)
MADRE, Arte Povera più azioni povere 1968, Installation view
Photo © Nicola Baraglia

ピーノ・パスカーリ《ブラシ製の蚕》、「アルテ・ポーヴェラ+アツィオーニ・ポーヴェレ 1968」(ドンナレジーナ現代美術館MADRE)における展示
MADRE, Arte Povera più azioni povere 1968, Pino Pascali Bachi da setola
Photo © Nicola Baraglia