トピックス 2

ロベルト・エスポジト来日報告







イタリア哲学の回帰──その起源とアクチュアリティ

3月4日京都大学にて、このたび初来日したロベルト・エスポジト氏(イタリア国立人文科学研究所副所長)の特別講義が、岡田温司教授(京都大学大学院人間・環境学研究科)のはからいにより行われた。

この講義では、近年の現代思想の動向におけるイタリア哲学の台頭が指摘された上で、それが何に由来するのか、系譜学的な説明が試みられた。エスポジトによれば、分析哲学(アングロ=サクソン)、解釈学(ドイツ)、脱構築(フランス)といった「言語論的転回」にもとづく諸潮流とは異なって、イタリア哲学は伝統的に、「言語」よりも「歴史・政治・生」というカテゴリーを重視してきたという。つまりイタリア的思考は、「歴史」や「政治」との(緊張を孕んだ)結びつきから理解された「生」のカテゴリーを拠り所にして、国民国家的な発想とは別の仕方で繰り返し「共同」(エスポジトはここに「非人称」という意味を込める)の観念を掘り起こしてきたというのである。葛藤や闘争を回避し解消することで共同性を獲得しようとした(エスポジトの言葉では「免疫化」をおしすすめた)他国の哲学者たちとは異なって、マキアヴェッリ以来のイタリアの哲学者たちはむしろ対立や葛藤を前提として共同性を考えてきた。このようなイタリア的思考は、主体と共同体との絆を結びなおすという今後の哲学の課題にとって重要な参照点になりうるだろうことを示唆して、エスポジトは講演を終えた。

休憩をはさんで行なわれた質疑では、投げかけられたあらゆる質問に言葉を尽くして答えようとするエスポジトの姿が、一聴衆として印象的だった。講演に散りばめられた多数の哲学者や学派の名に呼応するように、あるいは来場者の多彩な関心を反映して、多くの方面から質問がなされた。その中でとりわけ興味深かったのは、エスポジト自身も認めるように、イタリアの哲学的伝統たる「葛藤」(複数の主体を前提にする)を、いかにして彼の提示する「非人称性」(主体を廃棄する)に接続するのかという問題が浮き彫りにされたことであった。

タイトルの通り、西洋哲学史上のイタリア哲学の特異性とその現代的な有効性を明らかにしようとしたこの講義は同時に、翌日の講演での「装置としてのペルソナ」という題材の哲学史的位置付けを示すものでもあった。






装置としてのペルソナ

翌日以降、京都(5日)、大阪(7日)、東京(9日)で連続して行なわれた講演においては、生を「主体」とその否定的、従属的残余に分割する装置としての「ペルソナ」(=人格、人称、位格、仮面)を題材に、キリスト教神学、ローマ法にみられるその来歴と稼働メカニズムの跡づけが行なわれた(なお、本報告は京都での講演をもとに書かれている)。

エスポジトによれば、キリスト教神学においては、キリストという「ペルソナ」(位格)の内で神と人が二重性を保ったまま同居しつつ区別されているが、この考えが人間一般の「ペルソナ」(人格)に転用される際には、肉体に対する魂の優位というヒエラルキー的な区別に移し替えられるという。神のペルソナに近づきうるのは魂だけであり、肉体的条件に由来する欲望の方は「病い」と規定されることにもなる。こうした発想は、ローマ法の法典化によって、実効的なものとして西洋世界に根付くことになる。ローマ法は、所有し使用するものとしての資格を与えられた主体を規定するために、「ペルソナ」をもちいた。その結果、生が「ペルソナ」という装置を通過して「自由民」としての主体が生み出される時、同時に所有される対象たる「奴隷」が非人間として、物として規定されることになる。人間の内部に分割を導入するこうしたペルソナの機能に対し、エスポジトは警告を発する。そして、シモーヌ・ヴェイユの提示する「非‐人格的なものの神聖さ」に言及し、「非‐人格=非‐人称」という観点からの法と哲学の新たな基礎付けを喚起して、講演を締めくくった。

会場からは、「テロリズム/反テロリズムにおける兵士のペルソナについて」や「アジアやアフリカなど、主体という概念がそもそも西欧と異なる地域についてどのように考えるか」など、多くの質問が寄せられたが、なかでも重要と思えるものは、エスポジトの提示する「非人称」的な世界において権利が与えられるのは誰なのか、というものだっただろう。これについてエスポジトは、ペルソナによる分割以前の「生」、決定力や人格をもたないとみなされてきた身体そのものをひとつの手掛かりとしたいと応答した。ヴェイユの示唆した「非人称」という刺激的な概念を、エスポジトが今後この「生」という視点からどのように深化させていくのか、注目していきたい。(報告:岸本督司)