現代日本文化のネゴシエーション インタビュー2 イェンチン研究所 3

インタビュー
ヴェネチア・ビエンナーレ日本館 束芋展「超ガラパゴス・シンドローム」をめぐって
植松由佳(国立国際美術館主任研究員)

聞き手=門林岳史

——今度はむしろキュレーターとしての立場からの話を伺います。今回「ガラパゴス」と呼ばれているようないわゆる「日本的」なるものの固有性は、グローバルな舞台でのネゴシエーションとして現代美術を捉える場合、ひとつの商品価値を持つと同時に、国際的な水準という観点からネガティヴな要因にもなり得るのだと思うのですが、そのあたり、実際に現場でどのような問題に突き当たっているのか伺えますでしょうか。

植松 おっしゃるとおり、両面あります。日本的なものが求められる側面がある一方で、ワールド・スタンダードで日本のアーティストが海外のアーティストと同等の評価を得るためにどうすればいいか、ということもあります。今回、日本館のコミッショナー候補に、という話を国際交流基金からもらったとき、どういう作家を日本館代表に選べばいいか、通常の美術館での展示ではなく日本館代表の作家としてどういう作家を打ち出せばいいのか、ということをやはり考えました。日本館代表にふさわしい優れた作家は年齢を問わず数多くいるのですが、私自身ヴェネチア・ビエンナーレに数回足を運んでみて考えたのは、これまで日本館には何らかの戦略があったのか、今後どうすべきなのか、ということです。コミッショナーや作家の選定方法は各国ごとに違うのですが、日本館の場合、これまではそこに戦略が見られなかったように思います。今の現代美術の動向を見ると、東アジア内では少し前まで韓国の躍進がありましたし、このところは中国のパワーに押されています。もちろん個々の作家のクオリティの高さもあるのですが、その一方では作家自身の戦略もありますし、良かれ悪しかれ国やさまざまな機関が戦略を打ち出しているところもあります。では日本はどうなのかというと、戦略がなくこのままでは地盤沈下するのではないかという危惧を抱いています。もちろん作家たちは個々に表現していくのですが、日本という単位でもその時々の状況に応じて戦略を打ち出すべきだと思います。今はそれが見当たらないというのが正直な気持ちですし、そのなかで自分が何をしているかを考えても悩ましいところです。

——文化表象の次元では、日本の固有性を前提として日本の現代美術について語ることには問題があると思うのですが、その一方では日本という国が確固として存在していている以上、そのなかでの社会的基盤や文化行政のあり方を現代美術も前提とせざるをえないですよね。

植松 ええ。日本という確固としたものは否定しようもなく存在していて、そこにはいい面も悪い面もあります。中国、韓国の現代美術はマーケットレベルでは富裕層に支えられていて、いくつかの商業的なギャラリーはダイレクトに海外に結びついているのですが、日本の場合、国内で市場が担保されていて、作家にとっても国内ありきで直接海外につながっていかないところがあります。国内の環境が整備されればされるほど海外に向かう足が自然に止まっていくという印象があるんですね。

——国内の環境が整備されればされるほどガラパゴス化されていく…。

植松 日本以外の国を見ていても、環境が整備されればされるほど、作家はそこに留まって、外に出て行かなってしまう。そのなかで精度を上げていけばいいということになってしまうんです。日本の現代美術は実際クオリティが非常に高く、精度がどんどん上がっていくのだけれど、国内で満足してしまい、外で何が起こっているのか見ようとしていない。そのなかで外との差がどんどん広がっていってしまい、村上隆さんのように外を知る立場からは、忸怩たる思いで自分がなんとかせねば、ということになるんだと思います。

——束芋さんの場合、日本国内、国外に分けた戦略は特にないとのことでした。

植松 「ガラパゴス・シンドローム」という言葉を知る以前に束芋のなかには「井の中の蛙」という言葉がありました。ある種、ガラパゴス化した日本という井戸を潜っていくとそれが海外につながっているのを彼女は見つけた、というようなイメージだと思うんです。私もそうであってほしいと思います。国内でやってきたけれども、気がついたらそのままの手法がワールド・スタンダードで通用して、海外でも受容されるということを目指したいんです。ガラパゴス化したケータイの技術的発展もそれはそれでいいものだけれど、やはり海外に渡航したときに普通に使えるものであってほしい(笑)。国内市場でやっていけるからそれでいいということで終わってほしくないんです。束芋の場合も、浮世絵から色をとっているだとか、線ひとつひとつも日本的で、ということで取り上げられることが多いのですが、例えば2007年のヴェネチア・ビエンナーレでは束芋とウィリアムズ・ケントリッジの作品が同じイタリア館のかなり近い位置で展示されていて、私はとても興味深く観ました。束芋の作品を、同じくドローイングから発展したアニメーションを制作するウィリアムズ・ケントリッジと比べたときに、もちろんモチーフから何からまったく違うものですけれども、両者を同じアニメーションとして論じることがなぜできないのか。そういう意識で私は束芋と組んでいますし、束芋自身もそういう意識で作品に取り組んでいると思っています。

——楽しみにしています。ありがとうございました。

(2011年3月11日、国立国際美術館にて)

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