第5回大会報告 研究発表 7

パネル7

2010年7月4日(日) 16:30-18:30
東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム

研究発表7:なぜ罪か ── その言語使用と理由をめぐって

「罪」と「対立」
── ルソーの自伝的なテクストに見られる「罪」の語とその使用理由
飯田賢穂(東京大学)

罪の根源 ── W・ベンヤミンにおける罪と歴史
茅野大樹(東京大学)

途絶した神話の再開? ── キリスト教の脱構築と精神分析
柿並良佑(東京大学)

【コメンテーター】宮﨑裕助(新潟大学)
【司会】三河隆之(日本学術振興会)

当パネルでは、「罪」という語を様々な角度から新たに読解しようとする三つの発表が行われた。人はときに自分の行為にやましさや後ろめたさの意識を抱くものだが、司会の三河隆之氏は、パネルの争点がそうした個々人の罪責感情にはなく、個人の罪意識に原理的に先行しそれを可能にする、いわば構造的な次元における「罪」であることを事前に確認した。

1760年前後のルソーのテクストに散見される「分裂」のモチーフを辿った飯田賢穂氏は、「自分自身との対立」(『エミール』)という主題から「罪」の問題へと迫った。ルソーが措定する個人や共同体の原初的「統一性」は、その内部にあらかじめ「分裂」を宿しており、この「分裂」が理想的「統一性」の必要性を再度呼び寄せ、それがルソー独自の国家論の形成へと繋がっていく。飯田氏は、ルソー的「国家」の成員が、「対立する感情」を抱きながら良心に従った正しい選択を行い、それによって幸福を感じるような諸個人として描かれていると論じ、ルソー的国家とプラトンの「共和国」との類似性を指摘した。発表後の質疑応答では、ルソーの観念的な「国家」が、現実の国家の形成へと向かう可能性について質問がなされた。飯田氏は、ルソーが現実の国家を妥協の産物として捉えており、まさしくそうした現実に対する挑発として独自の国家論を提示したという点を確認した。それについて、コメンテーターの宮崎裕助氏からは、ルソーの国家論をある種の「神話」的な批判として捉えることはできないかという、柿並氏の議論へと接続される指摘がなされた。

茅野大樹氏の発表は、ベンヤミンにおける「罪」と「救済」の概念を、そのバロック悲劇論を介して分析するものだった。ベンヤミンによれば、バロック悲劇は劇全体を意味づける決定的な終局を目指さず、出来事の意味が常に未決定の宙づり状態のままに展開される「中間形式」によって構成されている。茅野氏は、このバロック悲劇固有の時間性がベンヤミンにおける「歴史」の時間性と響き合うものであり、どちらも終末目的へと直線的に向かう「閉じた時間」ではなく、不確定な出来事の生成と反復の終わりなき過程である「開かれた時間」として展開されると論じた。質疑応答では、バロック的時間とメシア的時間の関係の明確化や、「救済」のイメージの具体性について質問がなされた。茅野氏は、ベンヤミンの提示する逆説的時間の様態を具体的なイメージとして提示する困難について述べつつ、いずれにしても「歴史」の時間を未来の目標に向けて意味づけられる時間として考えるのではなく、変化の可能性に曝されたものとして捉える点に、ベンヤミンの歴史概念の重要性があることを改めて強調した。

柿並良佑氏は、主にフロイトと「神話」の問題を扱いつつナンシーにおける「罪」の射程について報告を行った。ナンシーは、フロイト自らが欲動理論を一つの「神話」であると述べている点に注目し、「無意識」が事実の発見というより「物語の発明」であったと考える。一見否定的に響くこの「神話」の「発明」を、ナンシーは、知の不確実さや不完全性そのものと向き合いながらそれに言葉を与えようとする肯定的な「語り」の方法としてむしろ評価する。柿並氏は以上の議論を進めた上で、知の閉じた体系を内側から揺るがそうとするナンシーの言説のうちに、「自閉」を「罪」と捉える前提的思考が含まれていることを指摘し、自己固有化とそこからの離脱がフロイトの神話学、ひいては「キリスト教の脱構築」に固有の律動であることを論じた。柿並氏の発表について宮崎氏は、「神話」の形象を再考するナンシーの試みを評価しつつ、同時に、フロイトの説を「神話」と規定することが妥当であるか、またナンシーの議論に含まれるロゴスとパロールの同一視を看過してよいのか、といった慎重な留保を行った。柿並氏は「神話」論の争点が、大きな物語を打ち立てることではなく、他者からの「小さな挨拶」に敏感であること、自らを「小さく」開くことに存していることを確認し、解答とした。

以上の発表では、発表者それぞれがルソー、ベンヤミン、ナンシーの複雑な諸概念を整理しつつ、自身の専門に深く踏み込んだ議論を展開し、テクストから数多くの論点と可能性が引き出された。だが他方で、パネルの趣旨である「罪」の批判的再考に関しては、それについて議論が尽くされたとは言い難い。質疑応答でも問われたが、飯田氏のルソー読解は、「分裂」や「対立」がルソーに「罪」と捉えられている事実を出発点としたものであり、その関係に深く踏み込むものではなかった。同様に茅野氏の発表は、ベンヤミンの「可能態としての歴史」を「救済」の可能性として提示することに向けられており、決定論的歴史観自体がなぜ「罪」の形象と結びついているのかについては詳しく言及されなかった。その点、西洋=キリスト教の思想の根幹に「自閉」=「罪」の図式が存在することを指摘する柿並氏の発表は、ルソー、ベンヤミンの思想を規定する「罪」の概念に対しても光を当てるものであったが、限られた時間の都合上、発表後半に問題提起の形で触れられるにとどまった。

発表後、コメンテーターの宮崎氏は、現代の社会においても「罪」の形象はアクチュアリティを失っておらず、社会全体が作り出す表象としての「罪」や、あるいは無意識化に形成される「罪」といった、複数の次元から考察されるべき射程を帯びていることについて述べ、この問題に対する新たな問い直しの可能性と必要を指摘した。それだけに、各発表者の議論が、「なぜ罪か」という問題設定に対してはやや離散的であったことは惜しまれるが、とはいえ、当パネルの成果は、むしろ、西欧の思考が、時代を越えて、かくも強く「罪」という形象に対し想像力をはたらかせているという事実を、あらためて浮き彫りにした点にあったのではないだろうか。

大池惣太郎(東京大学)

【パネル概要】

フーコーが近代性を「人間の死」と評して以来、彼以前に盛んに論じられてきた道徳的「意識」もまた、暗黙の前提の地位を放逐された。つまり、罪責性の共有を前提したうえで共同体を論じる立場は相対化され、また罪責性それ自体も概念としての実効性を失っていると見なされるようになった。ただその一方で、法的言語空間の基底材としての「罪」は、今日なお機能しつづけていると見受けられる。しかし、「罪」は当該共同体の規定する広義の「法」の侵犯行為へと還元されるだろうか。あるいは逆にこうも問える、「罪」のいっさいを括弧入れしたうえでなお共同性を思考できるとまでは言いきれないのではないかと。

そこで本パネルでは、「ポスト罪意識時代の罪」を改めて問題化するための基礎的考察を試みる。より具体的には、罪意識がそれとして抱かれること自体を可能にする「罪」の原理的先行性をめぐって、その言語的機構としての諸特性を検討対象とする。

ただし、この巨大な問題をめぐる議論の蓄積は膨大であり、また時代、地域、論者ごとに議論は多様なコンテクストを内包しているため、本パネルでは、近現代西洋思想史から三人の議論を召還し、順次検討するという方針をとる。まず飯田は、ルソーにおける「罪」の前提を形成する「自分自身との対立」という事実性を、自伝的テクストの分析を通じて明らかにする。ついで茅野は、神話的な罪の連関に歴史性を導入するというベンヤミンの方法を、「根源」に着目しつつ考察する。そして柿並は、フロイトが「発明」したとされる欲動の神話、そしてそのナンシーによる再解釈をめぐって、罪意識の論議可能性を検討する。

「罪」と「対立」
── ルソーの自伝的なテクストに見られる「罪」の語とその使用理由
飯田賢穂(東京大学)

本発表の主題は、「罪」という言葉をめぐって展開するジャン‐ジャック・ルソーの論が、「自分自身との対立」と表現される一つの事実を前提として成立していることを明らかにすることである。このことは、1762年前後に書かれたルソーの自伝的なテクストを分析することで明らかになる。

ルソーは、1755年以降、自伝を書くためのメモを少しずつ書き始める。この頃から、彼は、著作活動の一貫性のなさを周囲から非難され始めていた。この非難は、ルソー本人に自身の分裂と統一性という主題を与えた。こうした問題は、1762年に出版された『社会契約論』と『エミール』の二著作に対してなされたフランスとジュネーヴによる弾劾とルソーに対する逮捕令を契機として、自伝的な著作へと結晶してゆく。

以上の経緯を背景とし、本発表では、まず『告白(ヌーシャテル草稿)』(1764)の「序文」を分析し、そこから自身の統一性の根拠として、「魂の歴史」が読者に対して提示されようとしていることを確認する。ついで、過去に自分に起こった出来事を想起するという「歴史」記述の方法が、この統一性を保証するどころか、皮肉にも「魂」の分裂を明らかにしてしまうという事態に光を当てる。その際、『エフライムのレビ人』(1762)という、神話の形式を使って書かれた自伝的なテクストを基に、ルソー本人が自身の分裂を「罪」という言葉を通して把握しようとしていたことを明らかにする。

罪の根源 ── W・ベンヤミンにおける罪と歴史
茅野大樹(東京大学)

ヴァルター・ベンヤミンは1910年代半ばから20年代半ばにかけての一連の著作群の中で、一貫して運命、神話、法といったモチーフと共に罪の問題を論じているが、その際に言及される罪は、行為による倫理的な過失ではなく、一切の行為と無関係に人間の生に必然的に伴う罪(「被造物的な罪」、「自然的な罪」)のことである。こうした罪の思考は、それ自体で閉じた神話的な因果連関における不変の現実として罪を捉える、原因論あるいは運命論として特徴付けられる。とはいえ、ベンヤミンがバロック悲劇の考察に歴史性を導入したことの意図は、諸々の現象を歴史的存在として、つまりは潜在的に生成の可能性を孕んだものとして捉えることであったといえる。というのも、ベンヤミンは『ドイツ悲劇の根源』(1925)において、生成と消滅を繰り返す歴史性を孕んだカテゴリーとして「根源」を捉えることで、あらかじめ想定された起源によって原因論的に罪を根拠付ける思考とは別の思考を示唆していたからである。このことを踏まえ、本発表においては歴史において未だ成り来たっていない、潜在的なものとして留まっている「根源」が持つ、形成の力について考察することに重点を置きたい。その際にはベンヤミンが歴史の時間を一種の「中間形式」として、それ自体としては閉じることのない、別の形式への「移行点」として捉えていることに留意すべきだろう。

途絶した神話の再開? ── キリスト教の脱構築と精神分析
柿並良佑(東京大学)

自らの哲学的営為において精神分析と取り組んできたジャン=リュック・ナンシーは、『キリスト教の脱構築』の第二巻である『崇拝』(2010)の最後に収められた小論において、フロイトの「欲動理論はいわば精神分析の神話である」という一節をとりあげている。すでにナンシーは『無為の共同体』(1986)に収められた「途絶された神話」において、共同体の創設行為としての神話の、近代における「最後の発明者」たるフロイトに言及していたが、そこでの神話は途絶・中断すべきものであった。これに対し『崇拝』では、フロイトは「神の死」以後最も重要な思想家として参照される。フロイトの発明とは欲動という神話の創設であり、それは科学も宗教も与えることのできない人間の起源を、「物語」によって説明することである。ナンシーはフロイトの言う欲動すなわち運動的なものを存在と等置し、起源においてつねに駆り立てられている人間という観念を提起することで、起源という観念そのものを脱構築しようとする。以上の文脈を踏まえ、本発表ではまず二つのテクストにおけるフロイトならびに神話の位置づけの変化を明らかにする。ついで、共同体論では原父の殺害は共同体の統合ならびに成員の〈父〉への同一化と結び付けられていたが、この殺害から引き起こされる罪の意識が、キリスト教の脱構築――救済という装置の消失――という文脈ではどのように扱われるのかを検討したい。

飯田賢穂

茅野大樹

柿並良佑

宮崎裕助

三河隆之