日時:2014年11月8日(土)
場所:新潟大学五十嵐キャンパス 総合教育研究棟 F275教室
12:00-14:30

・弘田龍(一橋大学)「声と文字――ゲオルゲ・クライスの符牒」
・入江哲朗(東京大学)「パーシヴァル・ローエルとフランク・ノリス――世紀転換期米国における科学、ロマンス、およびフロンティアの複合的表象の検討」
・鈴木賢子(東京藝術大学)「W. G. ゼーバルト『アウステルリッツ』『土星の環』における視覚イメージ」
・下山大助(京都大学)「フィリップ・メランヒトンの「夢解釈」論」
司会;佐藤良明

弘田 龍(一橋大学)「声と文字――ゲオルゲ・クライスの符牒」

20世紀初頭、詩人シュテファン・ゲオルゲは自身を取り巻く若者によって形成されたサークル、いわゆる「ゲオルゲ・クライス」においてしばしば詩の朗読を行っていた。このこと自体はヨーロッパにおいて珍しいことではないが、ゲオルゲ・クライスの「詩」の朗読において特徴的なのはそれがしばしば「暗誦」という形態を取っていたということである。「暗誦 Hersagen」とは語義通りに見れば「向こう側からこちら側へともたらされる」何かしらの言葉であり、である以上常に他者の存在を必要とし、そうした言葉の流通の仕方自体が既にクライスという秘教集団における隠された交流を暗示するものであった。このような文字媒体を参照することのないいわば一種純粋な「声」としての詩の朗読を弟子たちに課す一方で、ゲオルゲはおのれの詩集を極めて凝った装丁・造本・活字のもとマテリアルなものとして作り上げることに並々ならぬ情熱を注いでおり、その執心は彼をして「ゲオルゲ文字」と呼ばれる独自のフォントを開発させるほどであった。本発表ではこうした詩人の詩作品におけるマテリアルな存在としての書物・文字と、それを参照しないで発せられることを強いられていたという声との一見いささかアンバランスにも思える関係に着目し、詩作品それ自体とそれを取り巻く「クライス」という世紀転換期において生じていた現象との連関について探ってゆきたい。


入江哲朗(東京大学)「パーシヴァル・ローエルとフランク・ノリス――世紀転換期米国における科学、ロマンス、およびフロンティアの複合的表象の検討」

19世紀から20世紀にかけての世紀転換期において、米国は巨大な変動を経験した。この時代に注目する研究者たちは、たとえば急速な産業化に翻弄される知識階級の苦闘のなかに反近代的な抵抗の姿勢を見出したり、あるいは1890年代に誕生したアメリカ自然主義文学のなかから消費社会の黎明を記録する資本主義的ディスクールの産声を聞き取ったりして、変動の諸側面の解明に努めつづけてきた。本発表が主題とするふたりの人物のうち、ボストンの上流階級に生まれ東洋旅行家や天文学者として文名を挙げたパーシヴァル・ローエルは前者の側面の一事例であるとしばしば見なされ、ゾラの影響のもとで『マクティーグ』などの自然主義的作品を著したフランク・ノリスはまさしく後者の側面を代表する人物であると広く考えられている。
本発表は、ふたりを対極の位置に置くこうした図式を批判し、両者の思想的親近性に注意を促す。すなわち、自ら設置した天文台での観測をもとに描いた火星の「運河」のイメージを提示したことで多くの読者に地球外生命への想像力を植えつけたローエルと、現実を背後から支配する科学的法則の存在を暴き出す自然主義作家はリアリズムではなくロマン主義の嫡子であると信じながら西部の物語を書いたノリスとに共通して見られる、科学、ロマンス、およびフロンティアの複合的表象を検討することによって、世紀転換期米国の思想史に新たな光を当てることを試みる。


鈴木賢子(東京芸術大学)「W. G. ゼーバルト作品における視覚イメージについて」

W. G. ゼーバルトの散文フィクション作品の版面には、新聞や雑誌などの印刷物に由来する画像と、紙焼き写真を再撮影しただけの画像が、キャプションなしで分け隔てなく並んでいる。これらの視覚イメージについては、写真という媒体を軸にして議論されることが多かった。本発表では、ゼーバルト作品における多くの図版が印刷物から取られていることに着目して議論を展開する。まず、従来不明な点の多かった画像の出典ならび処理方法について、これまでの調査で分かったことを報告する。次いで比較項として、ゲルハルト・リヒターの《アトラス》についてのB. H. D. ブークローの議論を参照する。《アトラス》の初期パネルには印刷物由来の画像が多く含まれるが、写真論をベースに論じられたブークローの議論には或るバイアスがかかっていると思われる。さらに、以上より引きだされた論点に応じて、ゼーバルト作品において視覚イメージがどのように働いているのか考察する。たとえばゼーバルトの『アウステルリッツ』(2001)では、或る特定のテーマ系列に包摂されるような視覚イメージが反復するが、調査の結果、その反復を形成している画像の多くは印刷物に由来することが判明した。これらの画像は転写を繰り返してどんどん劣化しているのだが、ゼーバルトはそうした劣化を排除せずむしろ入れ子のように知覚的に提示している。結論として、ゼーバルトによる画像の選択とプロセスが、歴史叙述の可能性と視覚表象の問題との密接な絡み合いから導出された方法であるということを論証する。


下山大助(京都大学)「フィリップ・メランヒトンの「夢解釈」論」

古今東西に見られる人間の社会的営為としての様々な「卜占・予言」の形態の中で、「夢占い」という形態は、すでに人間の精神・身体により創り出されたイメージや言葉を「解釈」しようとする点で、他とは非常に異なっている。というのも、人は夢を解釈する前に、すでに夢によって解釈されているからであり、いわゆる古来の「夢解釈」とは、夢に現れるイメージや言葉がいかに「夢によって解釈されている」かを言語化することにほかならなかったからである。それはすでに「解釈の解釈」を孕んでいた。宗教改革者フィリップ・メランヒトンは、16世紀ドイツで出版されたアルテミドロス『夢の書』のドイツ語訳に付された小論において、自身の「夢」解釈理論を展開しており、そこで、中世を通して大きな影響力をもったマクロビウスやアウグスティヌスによる夢の分類論を退け、夢およびその解釈の自然哲学的・キリスト教的な再定式化を図っている。新プラトン主義的な「夢解釈」が、星辰の現れ・動きや身体現象、夢に現れるイメージや言葉を不透明な表面として措定し、その裏に意味を見出そうとしたのに対し、メランヒトンは、ダンテにも通ずるキリスト教的な意味の透明性を追求しつつ、自然現象そのものの不透明性を確保しようとする。これまで、メランコリー論や占星術を巡る議論において多く言及されてきたメランヒトンを、「夢」の理論の系譜という文脈から捉え直すことが本発表の目的である。