日時:2012年11月10日(土)
場所:東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム
午前 10:30-12:00

・柿並良佑(慶應義塾大学)「存在論は政治的か?——ナンシー哲学における存在と政治」
・今村純子(東京大学)「音楽、あるいは神——映画『アワー・ミュージック』をめぐって」
司会:宮﨑裕助(新潟大学)

柿並良佑(慶應義塾大学)「存在論は政治的か?——ナンシー哲学における存在と政治」

フランス語圏の哲学・思想分野における近年の動向として、ボヤン・マンチェフら比較的若い思想家が、バタイユ、ブランショ、ナンシーら前世代の思想を継承・活用して、多様な差異を抹消するシステムとしての現代資本主義に抗う文化理論を提示していることが挙げられる。その際マンチェフは、特にナンシーが提案する「世界」概念や「物質」概念の刷新を核とする存在論をラディカルな政治理論と規定することで、変貌する世界そのものが内に秘めている革命性を明らかにしようとしている。このような活用はいわゆる「脱構築」や「ポスト構造主義」の理論のいまなお追求されるべき有効性を高らかに宣言してみせる一方で、存在と政治の全般的な重ね合わせという極めて重要な問題に対してナンシーが示す理論的立場の変遷には触れていないという問題を含んでいる。したがって今一度、後者における存在論と政治(学)の関連について考察することが必要である。本発表の目的は、ナンシーの初期の仕事から現在までの政治に関する思考を概観しながら、それが彼の思想の屋台骨である存在論とその都度どのような距離を取り結んできたのかを明らかにすることである。さらにこの点を通じて「存在」と「政治」の相互的所属関係をめぐる問題、あるいは一方が他方に先行するのかどうかという問題を考えるための一定の視点を獲得することを目指すものである。

今村純子(東京大学)「音楽、あるいは神——映画『アワー・ミュージック』をめぐって」

シモーヌ・ヴェイユ(1909~43年)は音楽のうちに、「無限の距離」に隔たれた神と人とのあいだに調和をもたらす役割を、あるいはまた「不在」というあらわれしかもちえない神の「沈黙における声」を映し出す役割を見出している。だからこそ歌は神を賛美するのに叶うのである、と。ジャン=リュック・ゴダール(1930年~)の映画制作には、シモーヌ・ヴェイユの思想からの影響が色濃く映し出されている。その影響が鮮烈にあらわれている映画『女と男のいる舗道』(1962年)から40年の年月を経て、ゴダールの作品においてシモーヌ・ヴェイユの思想はどのように息づいているのであろうか。『愛の世紀』(2001年)ではシモーヌ・ヴェイユの姿がはじめてスクリーンに登場する。だが一転して、『アワー・ミュージック』(2004年)ではシモーヌ・ヴェイユの姿や名前は消え、それらに代わってシモーヌ・ヴェイユの思想が織りなすイメージだけが十全にちりばめられている。『女と男のいる舗道』に見られる、カール・ドライヤー『裁かるるジャンヌ』(1928年)におけるジャンヌと司祭のやりとりの場面もふたたび登場し、「フィクションの重層性」によるリアリティの創出の可能性が賭けられている。本発表では、シモーヌ・ヴェイユの思想を遠景に置きつつ、映画『アワー・ミュージック』においてゴダールが「わたしたちの音楽」として表現しようとしたものとは何か、そしてそれはわたしたちの「生の創造」をどのように促すのかを少しく見定めてみたい。