日時:2011年7月3日(日)14:00-16:00
場所:京都大学総合人間学部棟

・民主主義の不可視なる「敵」──デリダにおける自己免疫の政治/宮崎裕助(新潟大学)
・民主主義の自己免疫とその反転──残虐性なき死の欲動をめぐって/佐藤嘉幸(筑波大学)
・デリダによる超越論的病理論──カント、フッサールを導きの糸とするデモクラシー再考/長坂真澄(京都大学)
【コメンテーター】鵜飼哲(一橋大学)
【司会】佐藤嘉幸(筑波大学)

パネル概要
 デモクラシーとは民主主義と訳されるように、統治のための意思決定を人民全体で行うような政体のことである。しかし、代表制民主主義という形態の下で行使される国家主権は、その根源的な暴力性を恒常的に顕わにしている。例えば、アメリカ合衆国は、2003年に開始されたイラク戦争において、「ならず者国家」(「テロ支援国家」の意味)イラクの民主化(democratization)を標榜し、そうした「民主主義的な」理念の下に、イラクの国土と統治機構を徹底的に破壊した。本パネルでは、「民主主義」と切り離しがたい仕方で現前するこのような国家主権の根源的な暴力性と、その変容可能性を、ジャック・デリダが「来たるべきデモクラシー(démocratie à venir)」という概念を練り上げた一連の政治的著作、とりわけ『ならず者たち』、さらには同書の最重要概念である「自己免疫」の問いから出発して考察する。
本パネルにおいて、デリダから出発して私たちがとりわけ問題にするのは、民主主義という政体が保持する主権の暴力性、また、それと切り離し難い形で存在する資本主義の暴力性、そして、それら暴力性の変容可能性(「来たるべきデモクラシー」概念の射程)である。(パネル構成:佐藤嘉幸)

民主主義の不可視なる「敵」──デリダにおける自己免疫の政治/宮崎裕助(新潟大学)
 「来たるべきデモクラシー」は、90年代以降、積極的に政治的な主題を論じるようになったデリダの著作にとって、一種のスローガンのように機能してきたフレーズである。長らく問題含みであり続けてきたこのフレーズは、デリダが死の一年前に発表した『ならず者たち』(2003)において、はじめて中心的な主題として議論の俎上にのぼせられるにいたった。
 デリダは本書のなかで、民主主義が自由と平等の狭間で陥らざるをえないパラドックスに、ひとつの自殺的論理を指摘している。デリダはこれを「自己免疫(l’auto-immunité)」と呼んでいるが、この生政治的形象は、「来たるべき民主主義」にとっていかなる意味をもつのだろうか。
 他方、9.11以降の「対テロ戦争」が特徴づけているのは、「敵」(ならず者)の潜在化と遍在化という事態である。「敵」の不可視の拡散は、民主主義を制限するような国家主権の回帰を促す一方、メディアを背景とした民衆的情動の波及をますます制御不可能にする。民主主義の新たな試練として課された「敵」の政治は、「来たるべきデモクラシー」の課題をどのように描き出すのであろうか。 
 本発表では、以上のような問いを立てることによって、デリダが最晩年に展開しようとしていた政治的思考の可能性を探ってみることにしたい。

民主主義の自己免疫とその反転──残虐性なき死の欲動をめぐって/佐藤嘉幸(筑波大学)
 デリダは『ならず者たち』の中で「自己免疫(auto-immunité)」という概念を導入し、民主主義の持つある種のパラドックスについて分析している。自己免疫とは、自己に対する侵害から自己を保護するために、自己そのものを破壊してしまうという逆説的な過程である。この概念によれば、民主主義は、「民主主義にとってよいことのために」、民主主義の理念そのものを停止してしまうことがある。こうした考えに従って、例えば、9・11以後のアメリカにおける「民主主義」や「対テロ戦争」について考えることもできるだろう。
 ところが、さらに逆説的なのは、デリダが、こうした民主主義という政体の自己性、自己権力性、あるいは「自権性(ipséité)」(その範例的な形象は「主権」である)の論理を乗り越えるために、再び「自己免疫」という概念を持ち出していることだ。私たちが別の場所で「残虐性なき死の欲動」と名づけたこの「自己免疫」は、いかにして主権に固有な「自権性」を乗り越えることができるのだろうか。私たちはこのような「自己免疫」に関する問いを通じて、デリダにおける「来るべきデモクラシー」の射程について考察してみたい。

デリダによる超越論的病理論──カント、フッサールを導きの糸とするデモクラシー再考/長坂真澄(京都大学)
 理性の必然的な機能障害ともいえる超越論的仮象の問題を浮き彫りにしたカントと、啓蒙的な理性称揚の帰結でもあるヨーロッパの危機を訴えたフッサール。デリダが『ならず者たち』において、その危機とは異なる「地震」がグローバル化の姿をとって今このとき起きていると警告するとき、彼の考察が再び遡るのは、このフッサール、そしてカントへと向かってである。
 この両者の超越論的観念論の差異について敏感だったデリダは、すでに50年代から、カントにおける統制的理念を現象学の概念として独自に用いるフッサールの「カント的意味における理念」に注目してきた。理念を産出する働きは「理念化」と呼ばれるが、理念化は無限の課題としての超越論的目的論を自覚せしめる、すなわち「健康」へと向かわせると同時に、客観主義という理性の「病」へと導く当のものでもあることをフッサールはわれわれに教える。それは理性に内的な病、自己免疫疾患にほかならない。
 フッサールの病理論的な比喩を受け継ぎながら、かつそれをグローバル化の中に置きなおしてデリダが向き合うのは、こうした理性そのものの暴力にほかならないが、暴力は超克されるのではなく、暴力そのものの危険によって「来たるべきデモクラシー」の今ここにおける可能性をあらわす。本発表はこうして、デリダの「来るべきデモクラシー」の理念を、カント、フッサールの導きのもとに捉えなおし、両者の批判的継承として提示する。