2020年12月20日(日)
午後 15:30-18:00

「国際的同時性」をめぐる美術言説の文脈と「日本」性──1960年代の「前田常作」論を手がかりに
山下晃平(京都芸市立術大学)
本発表は、1960年代の日本の美術言説に見られた「国際的同時性」の文脈を検証し、戦後日本の美術史形成過程についての一考察を行う。その際、根幹にある日本文化の構造に照らして解明する。近年、戦後日本美術再評価の動きや、アジア各地でコレクティブな活動が展開するなかで、「国際性」と「地域性」に関わる議論が生じている。近現代美術史を上書きするためには、西洋に起因する美術制度と各地域の文化構造とを検証することが重要となるが、1960年代の美術言説「国際的同時性」の文脈を明らかにすることは、そのような美術史形成過程に関する研究において重要な視座をもたらす。
美術言説「国際的同時性」は、1960年代の画壇に所属しない前衛的な若手作家らに対する批評の中で登場する。そこで、本研究では美術雑誌等より「国際的同時性」に関連する言説を抽出し、それら言説が生じる背景や批評の価値基準そのものを読み解く。同時に、彼らの一つ前の世代である作家「前田常作」に焦点を当てる。前田常作は、具象から抽象へと進む同時代において国際性における独自性の議論とともに国内外で高く評価された。本研究では、当時の主要な美術評論家らによる「前田常作」論にも注目することで、1950年代の「国際性」と「民族性」に関する議論と「国際的同時性」への接続を試みる。
結果として、美術言説「国際的同時性」の文脈には、「国際性」に対する価値基準の偏向の問題と、一方で画壇から個へという国内制度の問題とが重層的に関わり合っていることが捉えられる。この美術状況はまた、日本文化論を援用することで、日本が独自性を発信することへの「不安」の構造としても捉えられる。
最終的には、日本における真の「国際的同時性」は、いわゆる1960年代の「反芸術」の一つ前の世代で既に獲得していたこと、その主要な作家である前田常作の美術史上の再定位について提起する。

李禹煥における日常とパフォーマンスの関係──「仕草」の概念を中心に
権祥海(東京藝術大学)
本発表では、李禹煥(1936-)が日常と芸術作品としてのパフォーマンスの関係をどのように捉えたかについて「仕草」を中心に考察する。
李禹煥は、1960年代後半から「もの派」と呼ばれる現代美術の動向の中で中心的な役割を担った美術家であり、絵画か彫刻かに関わらず身体的行為によってもの同士や周囲の空間との関係を呼び起す作品を制作してきた。李は、産業社会をもたらした近代主義への批判という論点を軸に作家活動と評論活動を始めた。彼にとって日常は「物象によって覆われた空間」「オブジェとなった空間」のように警戒すべき対象であった。パフォーマンスについてもそれが日常に埋没されたものである限り、芸術が持つべき毒気や違和感を失ってしまうことを指摘した。
一方、李は1960年代後半に「仕草」という独自な概念を提示した。彼によれば「仕草」とは「何をしているか分からないような行為」であり、日常の現象を新しく捉えるための営みである。「仕草」を打ち出した文章「存在と無を超えて」(1969)では、関根伸夫の行為がいかに日常から飛躍できたかを分析している。李は「仕草」の概念化と共に、同じ時期に自らによるパフォーマンスも行っている。大きな紙3枚を地面に広げる「物と言葉」(1969)は、素材の限定、反復する行為による「仕草」を繰り広げた作品である。
「仕草」は、一切の日常性を追い払ったものというよりは、むしろ日常での反復される行為によって成立する面を持つ。李が関根を始め、千利休や川端康成などのエピソードを取り上げるのは、日常での地道な行為に根付いたパフォーマンスを裏付けるためと思われる。つまり「仕草」は、理性によって支配された日常を乗り越えるために、素朴で自然な日常的行為によって芸術的創造の意味を無力化する手法と言える。

アグネス・マーティンの芸術実践における「Innocence」の概念について──映像作品《ガブリエル》(1976)の再解釈を通して
進藤詩子
本発表では、アメリカ合衆国の美術家アグネス・マーティンの作品群のうちでただ一つの映像作品《ガブリエル》(1976)を取り上げ、彼女の芸術実践のなかの本映像作品の意義について論じる。自らの芸術を語る際、マーティンは「Innocence」という概念を繰り返し用いており、本作品でも「Innocence」が鍵概念だと述べている。だが、それにも関わらず、批評家R.クラウスは、マーティンの作品における「Innocence」概念を看過しているのみならず、マーティンの作品群における本映像作品の意義も認めていない。他方で、批評家D.クリンプは、マーティンの絵画と映像の関連に着目し、その鍵概念として「Innocence」に着目しているが、この概念が何を意味するのか詳らかにしてはいない。
近年、「Innocence」概念は、マーティンの絵画論(ドローイング論)のコンテクストで再評価されている。美術史家A.ロバットは、「Innocence」概念を、「ナイーブでセンチメンタル」といった一般的な意味ではなく、むしろ、これまでの芸術実践の枠組みを超えるラディカルな意味として捉え直している。ロバットによれば、「Innocence」概念は「Shimmer(微かなきらめき=揺らぎ)」のうちに体現されている。
本発表では、ロバットのこの指摘を本映像作品《ガブリエル》の読解に援用し、この映像作品の、輝きまた陰るモチーフの繰り返しといった対立関係を打ち破る構成にこそ、「Innocence」概念はもっとも鮮烈に体現されていることを明らかにしたい。さらに、この「Shimmer」が、観客の側にも、これまでの枠組みを超えるラディカルな立場を与える役割を果たすことをも示したい。
映像作品《ガブリエル》における「Innocence」概念の意義に光を当てることで、マーティンの芸術実践全体を一貫する思想の一端を明らかにすることができるのではないかと考える。

図解したくなるとき──チャートジャンク論争とダイヤグラムのリアリズム
伊藤未明
インフォグラフィックスや視覚コミュニケーションデザインの領域における有名な論争として「チャートジャンク論争」がある。この分野の第一人者とも言われるエドワード・タフティは、図やダイヤグラムから装飾的要素を出来るだけ排除することが、グラフィックスが事実を正しく伝えるために重要であるとして、ミニマリズムの立場を取る。これに対してナイジェル・ホームズは、グラフやチャートを印象深いデザインとすることによって、見る人の直観に訴えることが重要だと主張するが、タフティはホームズのデザイン中心主義に激しい批判を加えている。この論争は、視覚コミュニケーションデザインにとって重要なのは工学的な精密さなのか、あるいはアーティスティックな独創性か、という論点を浮き彫りにしている。本発表ではチャートジャンク論争を手掛かりにして、図解するという行為において我々は何をしているのかを考察する。特に議論の中心とするのはダイヤグラムである。ダイヤグラムは、量的な関係の直接的な表現(数量グラフのような表現)ではなく、装飾的な要素とミニマリスティックな構成を見分けることが難しい。その点において、チャートジャンク論争の2つの立場の違いが際立つことになる。ダイヤグラムの形式的特性からチャートジャンク論争を再訪し、図解することの意味を探ってみたい。

【司会】加治屋健司(東京大学)