2025年12月20日(土)
10:00-12:40

10:00-10:35 アニメ『ほしのこえ』に表れる思春期の生きづらさを記述する──映像編集のされ方を中心に/天野広樹(一橋大学)
10:40-11:15 日本のドキュメンタリー映画の劇場上映を再考する──1980〜1990年代の上映実践から/中村洸太(京都大学)
11:20-11:55 〈メタ映画〉の創造性と批評性──『語りかける庭』における映像編集と執筆の往還から/澤崎賢一(総合地球環境学研究所)
12:00-12:35 旅するファム・ファタール──ハリウッド・ノワールの女性像は中国大陸映画でいかに翻訳/反転されたか/蘇奕仙(一橋大学)

司会:角井誠(早稲田大学)


アニメ『ほしのこえ』に表れる思春期の生きづらさを記述する──映像編集のされ方を中心に/天野広樹(一橋大学)

 東浩紀は『セカイからもっと近くに』(2013)で、オタク系文化、とりわけアニメ映像を批評する際に用いる語彙は、映像と社会との関係を重視する映像の外在論と強く結びついており、実際のアニメ映像がどう表れているかといった映像の内在論は議論の射程外であると表明している。
 ところで、アニメ映像批評において、新海誠『ほしのこえ』(2002)の「世界、って言葉がある。私は中学の頃まで、世界っていうのは携帯の電波が届く範囲なんだって漠然と思っていた」というセリフが、思春期の生きづらさを強調する「セカイ系作品」を代表するものとして言及されることがある。このとき、セリフはひとまとまりで、映像がどう表れているかとは無関係に引用されるのが常である。
 本発表では、先のセリフを含む『ほしのこえ』冒頭2分間を克明に記述する。内在論的アニメ研究で名高いトーマス・ラマール『アニメ・マシーン』(原著2009、邦訳2013)の「アニメティズム論」では、積み重ねたアニメのセルを撮影する操作を重視するが、それらがひと続きのシークエンスとなった後の映像編集にはほぼふれていない。一方で本発表では、先のセリフが3つのショットにまたがって発せられている点を重視し、画面そのものの動き、カッティング等、映像編集のされ方を記述の中心にすえる。この内在論的アプローチにより、思春期の生きづらさの根拠を『ほしのこえ』の映像そのものから導出する。

日本のドキュメンタリー映画の劇場上映を再考する──1980〜1990年代の上映実践から/中村洸太(京都大学)

 本発表は、1980年代後半から1990年代前半にかけての、常設映画館におけるドキュメンタリーのロードショー上映の広がりに注目し、非劇場上映から劇場上映への移行の意味を問う。1960年代後半以降、小川紳介や土本典昭をはじめとするドキュメンタリー映画の作り手たちは、社会運動とも密接に結びついた非劇場での自主上映運動を展開し、日本のドキュメンタリーは活況を呈した。阿部マーク・ノーネス(2007)や田中晋平(2020)らが明らかにしてきた通り、こうした上映の場は、映画の鑑賞行為だけでなく、上映前後や上映中の制作者・上映者・観客間のコミュニケーションやパフォーマンス、空間演出を含めて成立する、いわば「ライヴ」な空間だった。
 1980年代、社会運動に支えられた自主上映は下火となり、ミニシアターが広がりを見せるにつれ、非劇場で作品を流通させていた作り手たちのドキュメンタリーが、「異例のロードショー」として常設劇場でも一般公開され始める。その代表例は、原一男の『ゆきゆきて、神軍』(1987年)と、佐藤真の『阿賀に生きる』(1992年)である。一見すると反「ライヴ」的な劇場上映への回帰はいかなる条件の下で成立したのか。また、非劇場上映をルーツとする作り手たちは、劇場上映に何を見出したのか。2010年代以降のデジタル化と自主上映の再評価にも目を向けることで、現在に至るまでの劇場・非劇場上映の併存のもつ課題と可能性を検討していく。

〈メタ映画〉の創造性と批評性──『語りかける庭』における映像編集と執筆の往還から/澤崎賢一(総合地球環境学研究所)

 本発表は、制作と受容を同一地平で記述する〈メタ映画〉の方法を、拙作『語りかける庭』を事例に検討する。制作過程・編集判断・展示時の反応といった限定的記録を横断し、発信者/受信者・制作者/鑑賞者の境界が攪乱される現代条件に即して、制作実践に基づく研究(practice-based research)の妥当性を示す。ここでいうpractice-based research は、作者の関与を前提に手続き(記録・根拠・判断過程)を公開し、検証可能性を担保する研究法を指し、自己言及的手法を包含する。
 分析の軸は「対比」「共鳴」「ズレ」の三原理とし、対比によって複数視点の同時性を立ち上げ、共鳴によって音・身振り・言い換えが意味を相互変調させ、ズレによって解釈の遅延を生じさせる過程を示す。 方法の核は映像編集と執筆の往還である。映像編集を素材配置による記述、執筆を概念配置による編集と捉え、往還が両者を相互更新し、両者をセットで一つの作品=批評として提示しうることを示す。
運用指針は、(1)立場性の明記、(2)オルタナティブな読解の併走、(3)意図と考察の仕分けの三点とする。実質的に匿名化が困難な領域では、立場の開示と手続の可視化を通じて透明性を確保する。以上により、「知はつねに更新可能である」という前提のもと、実践と記述の往還が生み出す創造性と批評性を可視化しつつ知を提示する有効性を論じる。

旅するファム・ファタール──ハリウッド・ノワールの女性像は中国大陸映画でいかに翻訳/反転されたか/蘇奕仙(一橋大学)

本発表は、ハリウッド・ノワール由来のファム・ファタール像が中国大陸のネオノワールにおいていかに翻訳(受容・転用)され、同時に反転(脱神話化・再配置)されるかを、具体的場面分析にもとづき再記述する。主要テクストは『白日焔火/薄氷の殺人』(2014)と『南方車站的聚会/鵞鳥湖の夜』(2019)である。先行研究は、前者がノワールの定型を中国的文脈で修正し、ファム・ファタールの中心性を相対化する点、後者がその相対化をさらに進める点を指摘する(Zhou 2024;Hou 2022)。本発表はこの議論を、ミザンセーヌの反復的モチーフ(喫煙/水辺/夜景照明)にミクロに着地させて検証する。方法は三段階──①1990年代以降のノワール文法の流入と本土化の確認、②シーン/ショット単位で視線・身体・労働の記号化を読み解く、③検閲や産業条件と連動し、官能や「危険」の焦点が女性の身体から治安・労働・規制といった装置へと移行のメカニズムの特定、である。
結論として、中国大陸ネオノワールは〈誘惑=破滅〉の神話を単に否定するのではなく、ファム・ファタールの「致命性」を生存取引・都市空間・制度的臨界へ再配置することで、女性主体の可視化/抑制の二重過程を作動させる。『鵞鳥湖の夜』の劉愛愛にみられる「ファム・ファタール→生活者」への転化(官能の罠から生存の取引への置換)は、その代表例である。
本発表の目標は、ハリウッドの規範が中国大陸でいかに翻訳→反転(脱神話化)されたかを形式面から可視化する点にある。あわせて、『白日焔火』を軸にノワールの定型の修正とファム・ファタールの脱神話化を再検討し、華語圏映画-ハリウッド関係の最新議論へ接続する。