2025年8月31日(日)16:00-18:00
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クィアの外縁から──高齢のトランスジェンダー・Aro/Ace・「異性愛」

  • アメリカ合衆国における高齢のトランスジェンダーによるケアの歴史──無償のケアを再考する/両角詩穂(同志社大学)
  • 中年期以降のAro/Ace的な時間経験とオルタナティブな親密性──大谷朝子『がらんどう』を事例に/井ノ下朝陽
  • アートにおける「クィア」の再考──グレイソン・ペリーの実践を中心に/中嶋彩乃(京都大学)

【コメンテイター】久保豊(金沢大学)
【司会】両角詩穂(同志社大学)


パネル3 クィアの外縁から──高齢のトランスジェンダー・Aro/Ace・「異性愛」

 クィア理論という語が学術領域において提起された一九九〇年以降、クィア・スタディーズは既存のカテゴリーを絶えず問い直しながら、その輪郭を変容させ続けてきた。クィア理論内部のインターセクショナルな視点の欠如や、都会性規範への批判に応答しながら豊かな議論が開かれてきたことが示すように、クィアな営みの中には認識されることが困難な実践や関係性が多数存在する。クィア・スタディーズが過去の人物や表象にクィア性を遡及的に見出しながら不可視化された歴史を掘り起こしてきたように、大文字の歴史のなかで埋もれた実践を取り上げてゆくことは重要である。
 本パネルではこうした問題意識を共有し、これまでのクィア・スタディーズの中であまり焦点化されてこなかった主題を三者三様の視点から取り上げる。両角は、シスジェンダー中心的なものとされてきたケアを批判的に捉え、高齢のトランス女性がどのように互いをケアし、生き延びてきたのか検討する。井ノ下は、文学作品を用いて、中年期におけるAro/Ace的な時間経験と、恋愛や家族の枠組みに限定されない​​オルタナティブな親密性を検討する。不可視化されてきたマイノリティの親密性に焦点を当てる両者に対して、中嶋はマジョリティであるがゆえに自明視されてきたシスの異性愛男性であるグレイソン・ペリーを取り上げ、クィアと美術という枠組みにおいて捉え返すことを試みる。以上の発表を通じ、積み上げられてきたクィア・スタディーズの議論への批判的応答という側面を重視しながら「クィア」という視点がひらきうる可能性を探りたい。

アメリカ合衆国における高齢のトランスジェンダーによるケアの歴史──無償のケアを再考する/両角詩穂(同志社大学)

 本発表では、トランスジェンダーが担ってきたケアに着目し、特に高齢のトランス女性によるケアを論じる。近年、クィア・エイジングの議論が進み、高齢のLGBTQ+の経験が可視化されつつある。高齢のLGBTQ+に対しては、例えばアメリカ合衆国で最も歴史ある団体SAGEが幅広い支援を行ってきた。一方で、高齢のLGBTQ+への支援がゲイやレズビアン中心的なものに留まり、“happy, healthy, and proud”といった肯定的なイメージの推進に注力していることを批判的に捉える必要がある。なぜなら、高齢のトランスジェンダーに特徴的なケアの営みやままならない関係性を不可視化してしまうからだ。故に、本発表では高齢のトランス女性同士のケアに着目し、彼女らの経験を含めたケア論のあり方を再考したい。
 トランス女性は母娘のような関係性を築くことで、互いをケアし、居場所を作ってきた。彼女たちは、誰もケアしないトランス女性の住まいや仕事といった生活の世話を引き受け、生き延びてきたのだ。言い換えれば、彼女たちは当事者間でケアの責任を担わざるを得なかった状況にあったともいえる。このような当事者による無償のケアは、コミュニティの循環に貢献する一方で、燃え尽き症候群や当事者間のケアの限界といった問題を浮き彫りにする。こうした問題は、ある高齢のトランスジェンダーによれば“Voluntary Gender Workers”と表現される。
 本発表は、老いのクィア性を問い直しながら、高齢のトランス女性が無償のケアを担ってきた歴史を辿ることで、トランスジェンダーとケアの未来を検討しようとするものである。

中年期以降のAro/Ace的な時間経験とオルタナティブな親密性──大谷朝子『がらんどう』を事例に/井ノ下朝陽

 本発表では、恋愛的/性的惹かれを経験しない性的指向、アロマンティック/アセクシュアル(Aro/Ace)的な要素を持つ人々が、特に中年期以降に直面する親密性の問題と時間経験を取り上げる。
 社会における「成熟した大人」や「幸福な人生」のイメージは、恋愛を経て結婚・家族形成へと至る規範的なライフコースを前提としており、それに沿わないAro/Ace的な生のあり方はしばしば「未熟さ」や「空虚さ」と結び付けられる。こうした経験については、異性愛的な結びつきや再生産、健常性を基盤とした社会規範と、人間の「成長」に関する時間的規範が強く結びついていることを指摘するクィア時間論を参照することができるだろう。しかしながら、その中でAro/Aceについてはこれまでほとんど論じられてこなかった。本発表では、Aro/Aceを時間的観点からクィア・スタディーズの議論に位置づけるとともに、これまでのクィア表象における性的/恋愛的欲望が「ある」という前提を批判的に再考する。さらに、中年期という時間に着目することで、焦点化される「若さ」と「老い」の間で宙吊りになった時間を再検討したい。
 ケーススタディとして、大谷朝子の小説『がらんどう』を対象に、クィア・リーディングの知見を援用したAro/Aceリーディングを行う。「クィアな時間性」(Halberstam, 2005)の観点からAro/Ace的に読める主人公<平井>の経験を分析するとともに、アロー(非Aro/Ace)として読めるもう一人の登場人物<菅沼>との間にある、恋愛的パートナーシップとも規範的家族とも異なる親密性の在り方について考察する。

アートにおける「クィア」の再考──グレイソン・ペリーの実践を中心に/中嶋彩乃(京都大学)

 本発表は、イングランド出身の現代美術家グレイソン・ペリー(1960-)の制作実践をクィアという観点から分析することを試みるものである。美術史やアートにおける「クィア(性)」を語る際、しばしば問題化されるのがどこまでをその射程に含めるか、という点である。クィアやLGBTQ+であると(遡及的に)名指すことができるアーティストによる作品や、明示的な同性愛表象を指す場合に限ることもあるが、近年の議論の中では、ストレートなものや規範性に対する批判的態度をそこに読み取られ得るものを広く、アートや文化における「クィア」とみなす傾向が顕著である。
 ペリーは妻子を有する異性愛者の男性であるが、彼の異性装によるジェンダー表現の曖昧さや現代美術における伝統的メディウムの使用については、一定のクィア性が認められてきた(Roberts 2020)。その一方で、パントマイム・デイムやコメディにおける女装との類似性などから、異性装を含む彼の実践は非クィアなものであるとの批判も浴びてきた(Murphy 2015)。このようにペリーの異性装は、異性愛規範を脅かすことのない安全な位置へとおかれることで大衆に受容されてきたとも言え、そのクィア性は再考の余地がある。
 本発表では、異性愛男性像の構築という観点から改めてペリーの実践を造形作品と紐付けて解釈することで、異性愛的なものをクィアに読み解くクィア・リーディングを試みたい。こうした視座のもとにペリーを捉え直すことで、その自己表象が孕む揺らぎを検証し、自明とされてきた美術史およびアートにおける「クィア」をも批判的に再検討することを目指す。