2025年8月31日(日)16:00-18:00
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  • リオタールの「装置」概念について──その芸術作品論での応用と思想的意義/浅野雄大(東京大学)
  • 我々は変われるか──ジャン=リュック・ナンシーの哲学から考える到来の問題/金田瑞樹(広島大学)
  • ドローイングにおけるエクリチュール・フェミニンの触覚性──エレーヌ・シクスーの「画家のように書く」身振りを手がかりに/竹山真熙(東京藝術大学)

【司会】柿並良佑(山形大学)


リオタールの「装置」概念について──その芸術作品論での応用と思想的意義/浅野雄大(東京大学)

 本発表は70年代J-F・リオタールにおける「リビドー経済」の理論的枠組みの位置づけと、彼の芸術批評という実践を連関させて考察するものだ。そこで問題となるのは「装置[dispositif]」という概念である。
 「装置」については特にフーコーとの関連で注目されてきた(Agemben, 2007)。しかしフーコーがその概念を定式化する70年代後半にさきだって、リオタールは独自の文脈で装置論を展開していた。彼は学校や刑務所などだけでなく、表象一般や言説、さらには絵画、小説などの芸術作品を欲望の鬱積によって有機化した装置だと捉え、デリダの書字の差延経済に対して、形象的な欲望の経済を志向した。さらにこうしたリビドー経済理論は、大量に行われた芸術批評とともに構想されており、彼の装置論はこの実践と切り離すことができない。数少ないリオタール芸術論と装置の関係についての理論的研究はこうした70年代リオタールの形象論との関係と、芸術批評実践との関係を問う議論が不足している。
 本発表が主張するのは、以上の二点、リオタールの形象論と作品論が密接に関わっており、この関係が彼の「装置」論の意義をなしていることである。そのために本発表では①特に『言説、形象』における形象-絵画論との関係で思想的位置づけと②特に重要であるジャック・モノリとデュシャンにおける「装置」概念の意義を連関的に考察する。

我々は変われるか──ジャン=リュック・ナンシーの哲学から考える到来の問題/金田瑞樹(広島大学)

 この発表では二十世紀後半から二十一世紀初頭までのフランス哲学に表れる「到来」に関する理論の文脈で、ジャン=リュック・ナンシーの「共存在論(co-ontologie)」における到来、共存在の「予期せぬ到来(la survenue)」の理解及びそこに含まれる重要な前提について、特に彼の一九九〇年代以降の身体と共存在に関わる著書を頼りに考察を行う。ポストデリダ派とも形容される哲学思想のうちナンシーのそれを哲学、美学や政治の文脈で解説する研究や著書はフランス語圏外でも見られるものの、彼の思想体系や到来の構造についてより批判的な精査を行うもしくは疑問を投げかけるような研究は、おそらく時間的な要因もあるが故に依然として少ないように思われる。ここでの考察は彼の到来の理解とその構造を理論-実践的問題として扱い、そこに含まれる前提、彼が「世界」と呼ぶ意味の全体的な領域の青写真の所与性、そして共存在もしくは到来の実演や実践の神秘性、この「世界」と共存在に関わる二つの前提について議論を行う。これらについての議論によって導かれる疑問は現存の「世界」の権威や現状維持の間接的肯定及び「世界」自体の柔軟性や可塑性の忘却、さらには到来の神秘性の保存による共存在やリアルの未来性の盲目的な崇拝及び共存在の実演そのものの実現可能性に関わる疑問である。この発表が貢献を試みるのはナンシーの哲学の前提や立場のさらなる理解及び到来に関する議論の発展である。

ドローイングにおけるエクリチュール・フェミニンの触覚性──エレーヌ・シクスーの「画家のように書く」身振りを手がかりに/竹山真熙(東京藝術大学)

 本発表は、「エクリチュール・フェミニン」の代表格として知られるエレーヌ・シクスーの「私は画家のように書く」という言葉を起点に、ドローイングを描く身振りに内在する触覚性について考察するものである。その際、シクスーが1991年にルーヴル美術館で開催された展覧会「修正」の図録に寄稿したエッセイ「絶え間なく、いいえ、素描している状態、いいえ、むしろ処刑執行人の斬首」とその草稿をもとに、実際の書くプロセスを観察し、「描くように書く」身振りと「女性的に書く」実践との関係性を確認する。シクスーにおいては、書くときの身体の状況・文体・意味は不可分であり、書くときの脱中心的な自己の身体と、触覚的な特徴をもつ「女性的なリビドー・エコノミー」の構造とが、ともに「画家のように書く」ときの感覚的回路を可視化している。これを踏まえ、ドローイングの身振りにも同様の触覚性が内在している可能性について、カレン・バラッド、ティム・インゴルドを援用しながら論じる。ドローイングとは単に輪郭線を描く行為ではなく、素材との応答的関係性を通じた感覚と思考の非線形な生成のプロセスであり、描かれたフォルムの背後にある身振りこそがメディアとして意味を伝達する詩的効果を発揮することを示す。「クィアな親密さ」を体現する表現形式のひとつとして、ドローイングを再解釈するためのオルタナティブなレンズを提供する。