2025年8月31日(日)13:30-15:30
11204

  • 「組み立て」と「透明性」──戦間期ドイツにおけるラースロー・モホイ=ナジの造形美学/保科泰(立教大学)
  • ベルリン・ホロコースト記念碑におけるグリッドについて──ピーター・アイゼンマンのグリッド概念の変遷に関する分析/待鳥天志(横浜国立大学)
  • 天気を描く──17世紀後半から19世紀における風景画と気象学の交差/村山雄紀(日本学術振興会)

【司会】池野絢子(青山学院大学)


「組み立て」と「透明性」──戦間期ドイツにおけるラースロー・モホイ=ナジの造形美学/保科泰(立教大学)

 ハンガリー出身の芸術家ラースロー・モホイ=ナジ(1895-1946)が活動した戦間期ドイツは、機械化を背景として、工場における組み立て作業と、芸術の領域のモンタージュという手法が、断片を組み立てるという観点において不可分に結びついていた時代であった。モホイ=ナジもまた、組み立て作業と芸術におけるモンタージュとの相互関係から多様な形態の芸術作品を作り上げた芸術家の一人といえる。本発表では彼の立体作品と平面作品に通底する美的特徴を「組み立て」と「透明性」という概念をもとに明らかにする。
 立体作品の分析では、機械部品の組み立てがモホイ=ナジの立体作品の制作の契機となっていたことを確認した後、芸術の領域からその立体作品に影響を与えたクルト・シュヴィッタース(1887-1948)のメルツとの比較検討を行う。都市の廃材を主な素材としたメルツとモホイ=ナジの立体作品は共に、素材同士の「関係性」を共通の美学としている一方で、モホイ=ナジの作品ではガラス等の透過性のある素材の関係性が生み出す光の効果にその美学の力点が置かれていることを指摘したい。
 平面作品の分析では、モホイ=ナジのフォトプラスティックに焦点を当てる。フォトプラスティックは同時代のダダのフォトモンタージュとは異なるモンタージュ法として彼が編み出した手法であるが、この手法においても透明性の美学がダダのフォトモンタージュへの批判として前傾化していることを明らかにする。

ベルリン・ホロコースト記念碑におけるグリッドについて──ピーター・アイゼンマンのグリッド概念の変遷に関する分析/待鳥天志(横浜国立大学)

 ベルリンの《虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑》(1997-2005年。以下、ホロコースト記念碑)は、約2万平米の敷地に2,711本のコンクリート柱がグリッド状に並ぶ記念碑である。デザインを手がけた米国の建築家であるピーター・アイゼンマンは、異なるふたつのグリッド面を重ねることでこの記念碑のデザインを作り出した。ホロコースト記念碑のグリッドを巡る思考はいかに編み出されたのか。アイゼンマンはグリッドを操作してデザインを作り出す手法を、その操作の仕方は異なるものの、初期作品以来度々用いており、ホロコースト記念碑のグリッドはアイゼンマンの過去作品の延長線上にあるといえる。この記念碑以前のアイゼンマンのグリッド概念は主に次の対立的な在り方に整理できる。第一には初期の《住宅》シリーズ(1969-78年)に見られる自律的なデザインのために外部環境の要因を排除して作り出すためのグリッドで、第二には主に“Cities of Artificial Evacuation”のプロジェクト(1978-88年)における対象敷地の周辺地形等の外部要因を抽象化して導入するためのグリッドである。本発表では、アイゼンマンのこうしたグリッド概念の変容は、ホロコースト記念碑において次のように結実することを主張する。すなわち、ホロコースト記念碑のグリッドにおいては、自律性と外部要因導入の両要素が取り入れられるが、その対立は乗り越えられることなく残されることでホロコースト記念碑は独自の内部景観を形成するということである。

天気を描く──17世紀後半から19世紀における風景画と気象学の交差/村山雄紀(日本学術振興会)

 ルイ14世の治下に設立された王立絵画彫刻アカデミーは、歴史画を絵画ジャンルの頂点に位置づけたが、17世紀後半にはニコラ・プッサンやクロード・ロランに代表されるように、風景画も一定の芸術的価値を認められていた。18世紀に入ると、クロード・ジョゼフ・ヴェルネやピエール=アンリ・ド・ヴァランシエンヌらの登場により、風景画の地位はさらに高まっていく。このような風景画の発展と軌を一にして、18世紀中葉には気象学が萌芽し、19世紀初頭には理論化・体系化されていった。例えば、イギリスの気象学者ルーク・ハワードは雲の分類を行い、その観察のために多数のスケッチを描いた。一方、同時代の風景画家ジョン・コンスタブルは「絵画は科学である」と述べ、自然を精密に写し取った彼の作品は気象学の発展にも寄与した。すなわち、ハワードが雲の観測に絵画的手段を用いたように、コンスタブルもまた自然現象の一瞬の変化を絵画によって捉えようとし、科学に貢献したのである。このように当時において、風景画と気象学は相互に協働し、天気という曖昧な現象の解明に取り組んでいた。ところが、19世紀初頭に写真が発明されると、両者の均衡は大きく崩れる。自然を正確に記録するという点において、写真は画家の筆致を凌駕したからである。本発表では、天気の移ろいを捉える手段として風景画と気象学が密接に結びついていた時代から、写真の登場によって絵画が記録媒体としての役割を終え、芸術として固有の表現を模索しはじめるまでの過程を明らかにする。