2025年8月31日(日)13:30-15:30
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  • 「考現学」における視線の移動──挿絵、テクスト内空間に着目して/河﨑伊吹(大阪大学)
  • 新国家建設と越境する表象──マレーシア・エリトリアにおける「硫黄島の星条旗」図像の再構成/斉藤穂高(大阪観光大学)
  • 1923年のマンガの書字方向とコマ配置──「日刊アサヒグラフ」紙面のレイアウト分析/細馬宏通(早稲田大学)

【司会】佐藤守弘(同志社大学)


「考現学」における視線の移動──挿絵、テクスト内空間に着目して/河﨑伊吹(大阪大学)

 「考現学」とは、主として1920年から30年代、東京を中心として、今和次郎が中心となり行われた都市風俗調査である。
 本発表では、考現学調査の中でも大正14年(1925)に『婦人公論』で発表された「1925年初夏東京銀座街風俗記録」「本所深川貧民窟附近採集」「東京郊外風俗採集」という3つの調査を、挿絵とテクスト内空間という2つの要素から分析する。
 考現学、および今和次郎については川添登「今和次郎 その考現学」(1987)、黒石いずみ「『建築外』の思考―今和次郎論」(2000)に詳しいが、表象に焦点を当てた研究は、管見の限り長谷川堯「都市回廊 あるいは建築の中世主義」(1985)があるだけだ。だが、長谷川も「都市改造の根本義」(1917)に触れるのみで、議論が尽くされているとは言い難い。
 本発表が対象とする調査は、大正12年(1923)に発生した関東大震災後にバラック装飾社の活動と並行して実施された私的な採集が初めて公開された、「考現学」を考える上で重要な画期となる調査である。
 考現学調査の成果は回数を重ねるごとに変化していく。この変化は舞台となった都市の性質を反映しようとした結果であることは間違いない。しかし、これらの変化を今和次郎の都市に対する視覚の変化として捉え、分析することによって、都市を知覚する今の身体性の変容を明らかにすることができるだろう。本発表では、上記研究の基盤となる、初期考現学調査における空間から物体への視線の移動を明らかにする。

新国家建設と越境する表象──マレーシア・エリトリアにおける「硫黄島の星条旗」図像の再構成/斉藤穂高(大阪観光大学)

 1945年2月23日、ジョー・ローゼンタールが撮影した報道写真「硫黄島の星条旗」は、アメリカの対日戦争勝利を象徴する代表的な視覚表象として知られている。戦後80年が経た今日においても、この構図は単なる歴史の記憶にとどまらず、広告やアニメ、パロディに至るまで多様な場面で再利用されてきた。
 本発表は、この「アメリカ的」な視覚表象が、異なる文化的背景を持つマレーシアとエリトリアにおいて、国家建設の文脈から象徴化されてきた点に注目する。具体的には、マレーシアの国家記念碑(Tugu Negara)やエリトリアの公的空間などで数多く目にすることができる「兵士たち」という図像には、「硫黄島の星条旗」と類似する兵士たちが旗を掲げる構図が見られる。そしてそれらは、各国の文化を象徴する図像を埋め込むことで、独自の象徴として再構成され、設置されている。
 新国家建設において、ネーションを象徴化し、独立や理念を言葉や視覚的媒体で示すことは、S・K・ランガーの「シンボル化の欲求」の延長である。実際、国家や権力主体は国旗や国歌を創造し、共同体という想念を象徴として共有化しようとする。しかし、独立闘争や新国家建設の文脈において “独自の表象”ではなく既に強い象徴力をもつ“外国の表象”を取り入れる事例は重要な問いを投げかける。
 本発表ではパロディだけでなく、しばしば、革命運動や新国家建設にまで「硫黄島の星条旗」的表象が用いられるのはなぜか、この点について、発表者の現地調査資料を踏まえつつ、象徴論の立場から考察を試みたい。

1923年のマンガの書字方向とコマ配置──「日刊アサヒグラフ」紙面のレイアウト分析/細馬宏通(早稲田大学)

 現在の英語圏のマンガでは、左横の書字方向、左横のコマ配置が標準となっており、書字方向とコマ配置とが一致している。一方、現代の日本のマンガでは右縦の書字方向、右横のコマ配置が標準であり、書字方向とコマ配置は一致しない。このような変則的な形式は、どのような原因で採られるようになったのか。本発表では、この問題を、1923年1月から9月まで発刊されていた「日刊アサヒグラフ」に掲載された連載マンガの書字、コマ配置形式を比較することで考察する。
 日刊アサヒグラフはフキダシ、複数のコマを用いた初期の例としてしばしば取り上げられる樺島勝一・織田小星「正チャンの冒険」、および、のちの日本の書字スタイルに影響を与えたとされるマクナマス「親爺教育」を掲載した、マンガ史上重要なメディアである。興味深いことに、同じ掲載紙にありながら、「正チャン」は右縦の書字方向、右横のコマ配置をとっていたのに対し、「親爺教育」はさまざまな書字スタイルを経て、左横の書字方向、左横のコマ配置をとっていた。本分析では、二作以外の全連載マンガの書字方向、コマ配置、紙面におけるレイアウトを比較し、掲載マンガの形式の差は、単に縦書き文化と横書き文化の違いから来るだけではなく、日刊アサヒグラフのレイアウトとの整合性が要因であったこと、そして樺島勝一が本紙のレイアウターを担当していたことがこの問題に関わっていることを明らかにする。