2025年8月31日(日)10:00-12:00
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新しいエコロジーとアート
- 新しいエコロジー下におけるキュラトリアル実践/長谷川祐子(京都大学)
- キュレーション実践を通じた「conviviality」(共宴性/共友性)の回復/髙木遊(金沢21世紀美術館)
- 感覚の倫理、芸術の政治──ポスト人間的ケアとエコロジー/清水知子(東京藝術大学)
【コメンテイター】山内朋樹(京都教育大学)
【司会】星野太(東京大学)
パネル1 新しいエコロジーとアート
今日、「エコロジー」はもはや環境意識にとどまる概念ではなく、感覚、政治、倫理、テクノロジーを横断する複合的かつ実践的な問いへと再構成されつつある。本パネルは、「新しいエコロジーとアート」を共通の軸に据え、芸術実践とキュラトリアル実践のあいだに立ち上がる倫理的・空間的・感覚的な再編の可能性を探る試みである。
長谷川祐子は、「新しいエコロジー下におけるキュラトリアル実践」として、人新世における人間と自然の「イントラアクティブ」な関係性に注目する。アーティストをリサーチャーかつ情報の翻訳者と位置づけ、科学的知見と芸術的感性を融合させた展覧会「すべてのものとダンスを踊って」を事例に、異種間コミュニケーションと学際的協働の可能性を検証する。髙木遊は、「庭」や「地区」といった空間に内在する共生的ネットワークに着目し、制度化されない〈ともに生きる〉かたち=「conviviality(共宴性)」を育む空間実践の可能性を、自らのキュレーション経験を通じて提示する。清水知子は、エコフェミニズムおよびポストヒューマニズムの理論的視座から、テクノロジーと非人間的存在を媒介とする現代アートの表現を分析し、感覚の倫理と芸術の政治の新たな回路を提示する。
以上を通して本パネルは、芸術とキュラトリアルな実践が生み出す「生きられる空間」に、新たなエコロジーの形象とその想像力を見出すものである。
新しいエコロジー下におけるキュラトリアル実践/長谷川祐子(京都大学)
人新世において、自然は対象として外在化するのでなく、イントラアクテイブ(もつれあうエージェンシーたちの相互構成)的に人間の世界と複雑に絡まっている。包括的な認知の変換が迫られる中、「政治、科学、芸術が一体となってこの状況に対応しなくてはならない」という緊急性のもとに、ブルーノ・ラトゥールが行なった複数の「思考実験としての展覧会」はこの状況に対応するキュラトリアル実践の意味を明確化した。アーティストはリサーチャーであり、情報の翻訳者であり、多様なメデイムを通して、変容する事象に形を与え可感化する。キュラトリアル実践は事物の関係を解釈によってつなげ、新しい意味を生産する。
本発表においてはこの関係性を明らかにし、エージェントによる「翻訳」行為によってつながりを形成するアクターネットワーク理論と、展示行為の関係の検証を試みる。また発表者が企画したエコロジーに関する展覧会「すべてのものとダンスを踊って──共感のエコロジー」展(2024-25年)を通じて、異種間コミュニケーションと学際的な協働による「つながり」を形成するキュラトリアル実践の可能性を論じる。ステファノ・マンクーゾとPNATによる科学的情報の翻訳と可感化、データ情報の新たなデザインを探求するファルマ・ファンタズマ、コンピュータと物質の間で、環境が造形をつくりだす実験を試みるエイドリアン・ビラール・ロハスの作品などを参照しつつcohabitation のリアリテイへの道を探る。
キュレーション実践を通じた「conviviality」(共宴性/共友性)の回復/髙木遊(金沢21世紀美術館)
本発表では、都市や自然との関係を再構築するキュレーション実践を通じて、エコロジーと空間の共生的な再編成について考察する。とりわけ、「地区」や「庭」といった有機的諸関係の織物、すなわちエコロジーに着目し、それらを媒介とする空間がいかにして「conviviality」(ともに生きる歓び)を宿し得るのかを探る。芸術に付随するキュレーションによって生み出される空間は、しばしば制度的枠組みや設計された秩序に従属するが、本発表では、宴会や共同作業といった、一見逸脱的で非制度的な行為を含む空間実践に注目し、「生きられる空間」の生成における自律性の回復可能性を提示する。
さらに、こうした空間における「宴会の秘事」とも呼べる、形式を逸脱した共存在のあり方が、アートとエコロジーを媒介する鍵となることを、実際のキュレーションの事例およびフィールドワークに基づいて論じる。
とくに、発表者自身が手がけたキュレーション実践に焦点を当てる。2019年に京都府立植物園を会場に開催した展覧会「生きられた庭」、2021年に熱海で実施された展覧会「四肢の向かう先」、そして2025年10月に開催予定の「SIDE CORE」展である。これらのプロジェクトでは、空間が観客と作品、作家と土地のあいだに新たな関係性を織り上げ、制度化されない「生きられる空間」の可能性を示唆することを試みている。
感覚の倫理、芸術の政治──ポスト人間的ケアとエコロジー/清水知子(東京藝術大学)
1974年にフランソワーズ・ドボンヌが「エコフェミニズム」という言葉を提唱して以来、エコロジーとフェミニズムの交差は、自然=女性という本質主義的構図に陥る危険を孕みつつも、自然との共生や生命倫理をめぐる多様な議論を展開してきた。だが21世紀の現在、この枠組みは大きく変容しつつあり、技術や非人間的存在をめぐる新たな倫理的想像力が模索されている。
本発表では、アニカ・イ、毛利悠子、アーイシャ・ハミード、イオナット・ズールといった現代アーティストの作品を取り上げ、彼女たちがテクノロジーとエコロジーの交差点において展開する芸術実践を考察する。それらの作品は、自然と技術を対立的に捉えるのではなく、断絶された関係を詩的かつ物質的に再接続する試みとして提示される。微生物、果実、風、腐敗、亡霊、記憶といった非人間的存在、あるいは「声なき他者」たちへの感受性を通じて、「ともに生き延びる」ための感覚的政治と倫理の回路を開いている。理論的枠組みとしては、「子どもではなく類縁関係をつくろう」と呼びかけるダナ・ハラウェイ、「批判的ポストヒューマニズム」を提唱するロージ・ブライドッティ、そして「人間以上」の存在とのケアの倫理を論じるマリア・プイグ・デ・ラ・ベラカサの議論を参照しながら、ポスト人間中心的なエコロジーとフェミニズムの交錯点と、その未来的展望を探っていきたい。