2025年8月31日(日)10:00-12:00
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  • 倒錯を誘発する怪鳥──ラカンのダ・ヴィンチ論における昇華のインヴァージョン/北村公人(立命館大学)
  • オノ・ヨーコ《ストリップ・ティーズ・フォー・スリー》におけるまなざしの客体化──観客論とジェンダー論の観点から/武澤里映(兵庫県立美術館)
  • Jホラーの歪貌的メランコリー──『リング』、『呪怨』から『LOFT ロフト』へ/長尾優希(東京藝術大学)

【司会】石岡良治(早稲田大学)


倒錯を誘発する怪鳥──ラカンのダ・ヴィンチ論における昇華のインヴァージョン/北村公人(立命館大学)

 本発表は、倒錯者の芸術実践を、ジャック・ラカンのレオナルド・ダ・ヴィンチ論を手がかりに理論化することを目的とする。倒錯的構造をもつ主体による芸術実践のメカニズムは、ラカン研究において依然として包括的な理論的整理がなされていない。そこで本発表では、ラカンの議論を基盤に、その理論的枠組を再構成する。
 フロイトは『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』(1910)において、ダ・ヴィンチの「ハゲタカ空想」(=ハゲタカが自分の口を尾で開け、その尾で何度も唇をつついたという幼年期の記憶)を彼の芸術活動の無意識的な基盤と捉えた。一方ラカンは、『対象関係』(1956-57)においてフロイトの解釈に異議を唱え、ダ・ヴィンチの手稿の鏡文字や命令的文体に着目し、彼の芸術が想像上の他者への服従に基づくと論じていた。
 本発表は、この服従の意味に焦点を当て、ラカン理論における位置づけを再検討する。特に、『精神分析の倫理』(1959-60)における昇華概念を参照しつつ、ダ・ヴィンチの芸術実践が従来のフロイト=ラカンの昇華の枠組みを逸脱することを明らかにし、それを「昇華のインヴァージョン」と呼称し理論化する。
 さらに、従来の母子関係中心の解釈を超えて、ダ・ヴィンチの記憶に現れる鳥のモチーフに注目し、それが彼の精神構造において中核的な機能を担っている可能性を示すことで、倒錯者の芸術実践に新たな解釈枠を提示する。

オノ・ヨーコ《ストリップ・ティーズ・フォー・スリー》におけるまなざしの客体化──観客論とジェンダー論の観点から/武澤里映(兵庫県立美術館)

 本発表は、オノ・ヨーコの《ストリップ・ティーズ・フォー・スリー》を対象に、その制作における「ストリップ」の位置づけを観客論の視点から読解するものである。1962年に初めて上演されたとされる《ストリップ・ティーズ・フォー・スリー》は、壇上に誰も座らないただ3つの椅子が並べられ、そのまま幕が下りる、もしくは椅子が取り去られていくという作品であった。
 従来オノ・ヨーコと「ストリップ」という言葉は、特に1964年9月10日号の『週刊大衆』にてオノの《カット・ピース》の写真に寄せられた記事見出し「曲目は”ストリップ”」を中心に、特に《カット・ピース》の受容の文脈で語られてきたと言える。しかし、《カット・ピース》とともに《ストリップ・ティーズ・フォー・スリー》が上演された「さよなら演奏会」の副題にオノ自身が「ストリップ・ショー」と名付けていることを考えれば、その言葉は、黒ダライ児が述べる通り「挑発的に名付け」られたものだと考えうる。
 そこで本発表では、これまで単体での作品分析が多くはなかった《ストリップ・ティーズ・フォー・スリー》を分析し、そこではむしろ観客の「まなざし」それ自体が客体として対象化されていることを考察する。当時のオノの関心であった観客論とジェンダー論におけるまなざしの概念を総合させ、「ストリップ」を通じたオノの芸術的/ジェンダー的批判性を明らかにしたい。

Jホラーの歪貌的メランコリー──『リング』、『呪怨』から『LOFT ロフト』へ/長尾優希(東京藝術大学)

 エイズ危機への応答として端を発したクィア理論には、公的に弔われない死者の悲嘆という主題が通底しており、とりわけ9.11以降、メランコリーは反規範性の政治や世界制作〔world-making〕の倫理として積極的に評価されてきた。しかしジュディス・バトラーに代表されるこの主導的な系譜は、メランコリーという内的機制を哀悼という公共圏での実践に翻訳しつつ、未来の共同体というユートピア的な全体性を仮構することによって固有の否定性を希釈し、結果的にメランコリーを過度に理想化してしまう。
 本発表は、上の議論でしばしば捨象されてきた要素──フロイトが示唆したサドマゾヒズム的な暴力性──に注意を促すことで、メランコリーを否定性が恒常的に沈殿しつづけるモードとして再解釈を試みる。これを実証する場として J ホラーの諸作品、中田秀夫『リング』(1998年)、清水崇『呪怨』シリーズ(2000-2003年)、黒沢清『LOFTロフト』(2005年)を取り上げ、1)顔貌の損壊、2)黒い液体の滲出という繰り返し現れる二つの映像的モチーフを相補的に分析する。「歪貌=脱比喩形象化〔disfiguration / deformation〕」をめぐるポール・ド・マンとリー・エーデルマンの議論(「歪貌」とはfigure / formの「顔」という語源を保持しつつ日本語化した造語)、ならびにレオ・ベルサーニによるサドマゾヒズム的な性愛の根源性を理論的な枠組みとし、Jホラーにおけるメランコリーが未来の救済や回復ではなく、否定性や暴力を凝縮させた持続的な形式として、いかにして視覚的に結晶化しているかを明らかにしたい。