2025年8月30日(土)13:30-16:15
8702 Zoom配信あり(定員300人・当日先着順) *イベント後のオンデマンド配信はありません。
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ミーティングID: 849 4651 8666
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通じなさを抱えて──言葉をまたぐフェミニズム/クィアのポリティクス
登壇者:
三須祐介(翻訳家、立命館大学)
岩川ありさ(早稲田大学)
福永玄弥(東京大学)
コメンテイター:清水晶子(東京大学)
司会:シュテファン・ヴューラー(武蔵大学)/清水晶子(東京大学)
ガヤトリ・C・スピヴァックが『ある学問の死──惑星思考の比較文学へ』(2003年)の中で述べたように、グローバル化とは地球のいたるところに単一的な経済・社会システムを被せる、欧米中心の世界観の無限拡大なら、あらゆる他者性がグローバルな市場において売買可能な商品へと馴致されていくそのシステムへの応答の一つとして、他者性の再考を促す「惑星思考」が必要になるだろう(Spivak 2003:72)。それは、政治的に文節化された地球において他者化された存在を認めつつ、誰もが惑星の住人としてあらゆる他者性を背負わされているという、この地球を故郷とみなしグローバルな主体として振る舞う存在の特権性を問いに付し、故郷としての地球を手に負えないものunheimlichとして肯定する想像力である(Spivak 2003: 72-73)。
ジュディス・バトラーの『こんな世界はどんな世界?:パンデミックの現象学』(2023年)には、スピヴァクの議論に通ずる点が見いだせる。コロナ禍で再び経験せざるを得なかったように、「われわれはみな病気と死という環境とかかわって生きて」おり、そのせいか、「われわれは間違いなくパンデミックをグローバルなものと理解している」とバトラーは言う(バトラー2023:6)。これは、人間の根源的な被傷性vulnerabilityをめぐる『アセンブリ』(2018年)におけるバトラーの議論を彷彿とさせる。だが、バトラーが付け加えるように、パンデミックがグローバルであるからといって、この世界は決して「共通世界」ではない。「世界の主要資源の大部分は平等に分配されていないし」、「コモンズの外部にあって残存し続ける生の領域がある」からである(バトラー2022:7)。スピヴァクの「惑星思考」は、自らの「傷つけられやすさ」を認めつつ、それが要請するラディカルな連帯の政治を基盤として、バトラーのいう「コモンズ」とその「外部」の関係性を想像し直す営みとして理解できる。
フェミニズム/クィアの文化的実践の特徴を一つ挙げるとすれば、それはこの「傷つけられやすさ」に対する修復的・批判的な想像力だろう。だが、スピヴァクやバトラーなどが指摘するように、それらの実践が規範性を帯び、ジェンダーとセクシュアリティ、さらに人種、階級や健常性に関わる既存のヒエラルキーを強化する抑圧のツールにもなりかねない。これは、その実践が言語や文化圏を越えて受容される際、特に留意すべき問題である。とはいえ、フェミニズム/クィアによる「言葉をまたぐ」実践は、言語や国境の問題と必ずしも一致しない形でも常に行われてきた。そしていずれの場合も、言葉の越境はつねに「通じなさ」や応答のずれと表裏一体である。
2010年代以降、日本語のフェミニズム文学の翻訳や、中国語・韓国語のフェミニズム/クィア文学の和訳が活発化しており、性的マイノリティと女性の人権保障をめぐるポリティクスも、多分にバックラッシュの波をも受けながら主流化し、東アジア各地で相互に影響を与え、新たな局面を迎えてきた。こうした状況下では、どのようなヒエラルキーの構造が浮かび上がるのか。誰の「傷つけられやすさ」が可視化され、誰の声がいかに再編成され、または沈黙させられるのか。本シンポジウムでは、フェミニズム/クィア文学批評、翻訳論、そして運動論の視座からこれらの問いについて再考したい。