2025年8月30日(土)10:00-12:00
8603
- 時間的「往還」について──『ドライブ・マイ・カー』を中心に/瀬古知世(神戸大学)
- 千葉泰樹・安藤太郎『義人呉鳳』(1932年)における物語内容と映画技法の戯れ──戦前外地映画のプロパガンダ作用/原口直希(東京大学)
- 70年代テレビドキュメンタリーにおけるナラティヴの実験──龍村仁作品における「遂行」される「現実」/万里(東京科学大学)
【司会】角尾宣信(和光大学)
時間的「往還」について──『ドライブ・マイ・カー』を中心に/瀬古知世(神戸大学)
映画『ドライブ・マイ・カー』(2021)における車内は死者と邂逅するための空間である。物語上、主要な登場人物は日常空間から非日常空間へ往き、死者と邂逅する。この邂逅により、かれらは時間的に過去へ遡行している。そして、自身の認識を変容させるような折り返し地点を経て、日常空間である現在に還ってくる。本発表で定義される時間的「往還」とは、こうした主要な登場人物の時間に関わる円環運動を指している。この「往還」は、神話や文学にも共通するテーマであり、本作においても同様の構造が見られる。物語の前半、妻の音を病気で亡くしていた主人公家福は、自身の車に乗り込み、車のなかで妻が朗読したテープを聴くとき、あるいは音の創作した物語を聞くとき、あたかも時間を遡って過去に往き、妻とつかの間の再会を果たしているようである。しかし、非日常空間となったこの車内を日常空間に戻す役割が、運転手のみさきに与えられている。みさきとの会話によって、車内は再び日常空間へと変わっていく。主人公をめぐるこの展開を、現在の時間、すなわち自身の日常に還る往還と捉えることができるのではないか。本発表では、こうした家福を中心とした時間的「往還」の構造を精査し、それが本作の物語論的独自性を生んでいることに着目する。さらに、この分析を起点に、映画という媒体における時間的「往還」の一般的な表現特性を明らかにすることも考えたい。
千葉泰樹・安藤太郎『義人呉鳳』(1932年)における物語内容と映画技法の戯れ──戦前外地映画のプロパガンダ作用/原口直希(東京大学)
本発表は、戦前外地の台湾で製作・公開された千葉泰樹・安藤太郎監督による無声の劇映画『義人呉鳳』の物語内容と特徴的技法に焦点を当て、そのプロパガンダ作用を考究するものである。
まず物語内容に関しては、映画独自のモチーフである呉鳳による薬を用いた先住民の治療に注目し、同時代史料に依拠した読解を試みる。特にここでは『義人呉鳳』製作以前に記された、清朝期以降の呉鳳の伝記に関して、既存の研究によって見過ごされてきた複数の新資料を用いていく。
次いで特徴的技法に関しては、それが集中的に用いられるラストシークエンスを分析していく。特にここでは本作の特徴ともいえるカメラ目線に関して、そのショット構成から用いられ方を精査し、それがラストシークエンスにおいてプロパガンダを最大化する形で機能していることの証明を試みる。古典的ハリウッド様式においてカメラ目線は、観客の没入を妨げものとしてある種タブー視されてきた。しかしながら小津安二郎や成瀬巳喜男の作品など、日本映画の独自性を追求するなかでは必ずしも忌避されるものではなく、むしろハリウッドに対する日本映画の特徴とも考えられるものであった。本研究の試みが説得力を持つものとなった暁には、『義人呉鳳』もまたそれらの議論に加えられる作品となるはずである。
70年代テレビドキュメンタリーにおけるナラティヴの実験──龍村仁作品における「遂行」される「現実」/万里(東京科学大学)
70年代のドキュメンタリーは、パーソナルな視座と多様なスタイルが出現した特異点であった(Nichols)。日本でも、映画では私的ドキュメンタリーが新たな潮流となった(Nornes)が、本発表は“公正中立”や“公共性”の呪縛に囚われたテレビ、特にNHKで試みられた実験に焦点を当てる。
対象はディレクター・映像作家の龍村仁である。龍村は「NHK内部で最もいみきらわれ、圧殺されている、私的な、肉体から発する言葉を語り切る」ことを目指し、“伝統的”なドキュメンタリーに挑戦した。ステラ・ブルッツィのパフォーマティヴィティを援用するならば、龍村は“伝統的”なドキュメンタリーを解体し、制作者と被写体の相互作用によって現実が「遂行 (perform)」されるパフォーマティヴな行為であることを示した。この試みは、最終的には、ロックバンド・キャロルを描いた作品が、NHK経営により「『客観的』でなく、ディレクターの『主観的』な創作品であ」るとされ放送中止・改変に至る「キャロル闘争」を引き起こし、龍村は懲戒免職となる。こうした経緯もあり、龍村作品に対する学術的検証は十分とは言えない。
本研究では、龍村の『18歳男子』、『海鳴り』を中心に映像テクスト分析を行う。ニコルズのモード論、ブルッツィのパフォーマティヴィティ、ボードウェルのアートシネマなどを分析の補助線とし、声の政治、“作者”の介入、 断片化されたナラティヴに着目する。
分析を通じ、「日常的な風景」の「裏側に不定形に漂い続けている日常性そのものの異常性」(龍村)を、いかに「遂行」しようとしたのかを明らかにする。本発表は、龍村作品を日本ドキュメンタリー史における重要な実践として歴史化すると共に、ドキュメンタリーにおける「現実」の表象や、客観/主観という二項対立的ドキュメンタリー観を再検討する。