2025年8月30日(土)10:00-12:00
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- マッシモ・カッチャーリの美学──現代芸術とイコンをめぐって/江川空(京都大学)
- どこで作るのか、どこを作るのか──グロイスにおけるインスタレーションの政治哲学的理解とそのモダニズム的側面/大岩雄典(多摩美術大学)
- 瞬時性の回路──クレメント・グリーンバーグの美的判断における反復性と持続性の経験/大澤慶久(東京藝術大学)
【司会】岡本源太(國學院大學)
マッシモ・カッチャーリの美学──現代芸術とイコンをめぐって/江川空(京都大学)
マッシモ・カッチャーリ(1944-)は、イタリアの哲学者である。彼の思想についてはこれまで、その形而上学や政治哲学に焦点が当てられ、一部の論者を除いて(Perniola: 2009, 岡田: 2008/2014)、その美学が体系的に論じられることはほとんどなかった。
しかし、カッチャーリの著作全体を見渡すと、そこでは一貫してイコンが問題にされていることがわかる。彼にとってイコンとは、見えるものと見えざるものとの二律背反を通して表象不可能なものへと接近する芸術の形式であり、それはマレーヴィチやモンドリアンのような現代芸術家たちの絵画実践に結びつくとされる。カッチャーリの思想において特筆すべきことは、こうした現代芸術を、たんにイコンの神学と接続するだけではなく、フロレンスキイやブラウワーといった20世紀前半の神学者ないし数学者の思想と突き合わせながら論じてゆく点にある。ここから明らかになるのは、イコンと現代芸術の関係が、美学あるいは神学の領域にとどまらず、20世紀前半の思想潮流全体の傾向を反映するようなかたちで現れているということだ。
以上を踏まえ、本発表ではおもに『法のイコン』(1985)と『踊る神』(2000)を読解することで、イコン論を中心としたカッチャーリ美学の内実を明らかにするとともに、それを通して現代芸術とイコンをめぐる議論に新たな視座を与えることを目指す。
どこで作るのか、どこを作るのか──グロイスにおけるインスタレーションの政治哲学的理解とそのモダニズム的側面/大岩雄典(多摩美術大学)
本発表では、美術批評家ボリス・グロイスが、芸術家によるインスタレーション・アートの制作を、主権者による国家の創立になぞらえて論じた議論について取り上げる。その政治哲学的・存在論的含意を、ルソー、シュミットらの国家論と比較することで、グロイスが美的モダニズムの問題系を独自に再解釈している点を明らかにする。
グロイスは主に2000年代、現代美術の要点が「何を作るか」ではなく「どこ(どのような場所)で/を作るか」に移ったとして、「トポロジー」という語で考察した。その事態を特に象徴するジャンルが、「空間」をその媒体とするインスタレーション・アートである。さらにグロイスはこの観点からインスタレーションを、公共空間に根ざす行為であるキュレーションに対置して、芸術家が私的空間を「主権的」に画定する行為として特徴づけた。
本発表では、(1)この観点を、グロイスの参照するデリダの立法論を越えて、複数の政治哲学者の主権論および国家論と比較し、(2)それを通じて、グロイスの議論が一見主権的行為に重点を置きながら、その力(権威)を分立させる、統治にあたる構造についても考察している点を指摘し、(3)そのように政治哲学的な概念系で解釈された、作品における「どこ」と「何」の概念的構図が、美的モダニズムにおける作品の自律に関する問題系を、インスタレーション論を通じて独自に更新したものとして位置づける。
瞬時性の回路──クレメント・グリーンバーグの美的判断における反復性と持続性の経験/大澤慶久(東京藝術大学)
本発表はクレメント・グリーンバーグにおける「瞬時性」概念を、美的判断の重層的な時間構造という観点から考察する。従来、「瞬時性」はロザリンド・クラウスやステファニー・シュワルツらによってモダニズムの非時間的・反時間的な視覚体制の表れとして、またエイキン・エルカンによってカント的判断構造を欠くものとして批判的に論じられてきた。これに対し、加治屋健司は「瞬時性」の内部に判断の事後的再構成という「遅延された瞬時性」を読み込み先駆的な視点を提示している。
この議論を重要な参照点としつつ、本発表は批評家のテクストにおける「視覚の衝撃」、「結果が先に来て、原因を包み込む」、「とどまる」、「反復」といった語彙を解読する。これにより、「瞬時性」が感覚的即時反応や時間性の不在ではなく、美的判断における原因と結果の意識、快の生成、そして経験の反復と持続に関わる因果論的・時間的プロセスを内包することを示す。特にグリーンバーグの美的判断が、カント『判断力批判』における合目的性の構造や観照の自己再生産の概念と共鳴し、瞬時的な経験の中に判断が反復し持続する様相を明らかにする。
以上の分析を通じてグリーンバーグの「瞬時性」概念を、感覚的反応論から美的判断の時間的構造論へと再定位し、さらにマイケル・フリードの「現前性」概念の再検討やインスタレーションにおける時間経験の分析へも接続可能な理論的基盤を提示することを目指す。