2023年7月9日(日)14:00-16:00
Komcee East 2階 K213

商品のアンチノミー──Th・W・アドルノ『新音楽の哲学』におけるK・マルクス的方策/相馬巧(東京大学大学院)
・『案内嬢の手紙』──ある演奏会時評の言語的戦略/伊藤靖浩(東京大学大学院)
・音楽批評タームとしての「新しさ」──循環音楽史観と本質主義的理念の照応/小島広之(東京大学大学院)
【コメンテイター】吉田寛(東京大学)online
【司会】小島広之(東京大学大学院)

 批評の衰退が語られて久しい。音楽批評の領域もまた、断続的に続く音楽雑誌の休刊など環境的な要因も相まって冬の時代が続いている。しかし、単なる価値判断の役割に留まることなく、作曲・演奏・聴取の三項をまたぎ、ある特定の時代においてこれらがいかなる関係性にあるかを問うことこそ音楽批評の役割ではないか。それによって、初めて音楽芸術の状況分析は果たされると言えるだろう。にもかかわらず、従来の日本の言説においては「音楽批評とはいかなる行為であるか?」という根本的な問いが充分に議論されてこなかったのではないか。
 本パネルでは、研究のみならず、演奏会時評・演奏実践の現場・同時代の作曲などに根差した批評活動も精力的に行う三人の研究者によって、それぞれの対象とする時代の視点から音楽批評の営為が多面的に検討される。まず相馬は、アドルノの『新音楽の哲学』にある批判の方法論を分析し、芸術と哲学の相互作用による新しい認識論の図式が提起されていることを示す。伊藤は、アンリ・ゴーティエ=ヴィラールの演奏会時評『案内嬢の手紙──音楽をめぐる旅』が当時の読者にもたらしていた輻輳的な言語空間を考察する。そして小島は、パウル・ベッカーが現代音楽論で用いた「新しさ」という言葉に着目し、その時代性と理論的な厚みを明らかにする。
 西洋音楽が爛熟、変容した19世紀末から20世紀前半にかけての批評実践の分析を通じ、過去から現在へ、音楽批評の可能性をいま一度投影させる試みを行う。


商品のアンチノミー──Th・W・アドルノ『新音楽の哲学』におけるK・マルクス的方策/相馬巧(東京大学大学院)

 芸術と哲学はいかにして互いに参与し合うのか。Th•W•アドルノの仕事の多くが、このふたつの領域を架橋する試みに向けられていた。それは彼の音楽論においても顕著であり、特に中期の『新音楽の哲学』は、シェーンベルクとストラヴィンスキーの作品を「批評」することによって芸術と哲学を架橋する可能性を探るものであった。本書に関する従来の研究では、アドルノがこのふたりの作曲家を批難するに至った経緯およびその妥当性、W・ベンヤミン、ベケットとの関係が分析・検討されている。しかしいずれも、ヘーゲル哲学への立脚を自明視する一方で、K・マルクスの『資本論』の提起する弁証法的方法への準拠が「序論」において明言される点にはほとんど注目がされていない。
 本発表は、『新音楽の哲学』の「序論」および「シェーンベルクと進歩」の叙述が、マルクスの『資本論』第1巻の「商品」の章に基づくものであることを分析し、彼の批評の理論的な企図が、個別な芸術作品の哲学的認識への参与にあることを明らかにする。まず、「シェーンベルクと進歩」にて描かれた十二音技法による物象化の叙述が、アンチノミーを内包した商品形態を獲得する作品の歴史的過程であることを検証する。これによって、後期産業社会を認識する潜勢力としてのアンチノミーが哲学の認識論的な図式に条件づけられ、芸術と哲学の相互的な関係が示唆される。このことは哲学的な音楽批評の方法論を開示する。

『案内嬢の手紙』──ある演奏会時評の言語的戦略/伊藤靖浩(東京大学大学院)

 いかにして批評は音楽を旅しうるのか。あるフランスの音楽批評家の実践をとおして、そのひとつの巡り方を示す。
 世紀転換期のパリ社交界の中心人物、アンリ・ゴーティエ=ヴィラール(1859-1931, 通称ウィリー)は、音楽批評によって名声を博したひとでもある。1889年に連載がはじまった演奏会時評は「劇場の案内嬢(L’Ouvreuse)」という架空の人物をとおして語られるが、作品や演奏の批評のみならず、社交場としての客席側の描写にも力点を置き、地口、隠語、専門用語を織り交ぜた洒脱な語り口も相まって、広く耳目を惹いた。既存研究でも、批評とフィクションの境をまたぐテクストとして、後のドビュッシーの音楽批評やプルーストの批評的創作への影響が指摘されている。
 当発表では、演奏会時評を集成した著作のタイトル『案内嬢の手紙――音楽をめぐる旅』に立ち返り、ウィリーの戦略をより包括的な観点から位置づける。ウィリーの妻で後に作家となるコレットの証言を導きの糸とし、「案内嬢」のテクストをいくつか具体的に取り上げて分析することで、時評というスペースに演奏会という多元空間が言語的に仮構され、符牒が複層的に流通し、誘引された読者が組織される道筋が浮き彫りになる。ここにおいて、当時の文学・批評的関心(とりわけマラルメを念頭に置いている)との接近が示唆されるだろう。

音楽批評タームとしての「新しさ」──循環音楽史観と本質主義的理念の照応/小島広之(東京大学大学院)

 「新しさ」は芸術批評に欠かせない語である。だが、日常語に溶け込んだ「新しさ」という語の芸術批評における意味の多様性はしばしば見逃され、結果として芸術批評読解に蹉跌をきたすこともままある。「新しい」とは、単に年代的に新しいことや前代未聞であることを意味すると考えてはならない。批評を適切に読む(あるいは書く)ためには、「新しさ」という語が(ときに言外に)意味するものを、批評の外部にまで遡って検討する必要があるだろう。
 本発表の主たる対象は、「新しさ」という語が殊に重要な役割を担うようになった第一次世界大戦直後のドイツ語圏の代表的な音楽批評家パウル・ベッカー(1882-1937)である。彼は、他ならぬ「新しい音楽(新音楽)」という理念を軸に据えて、戦後の同時代・近未来音楽について論じ、音楽的言説における「新しさ」の意義を彫琢した。
 本発表では、はじめに、ベッカーが「新しさ」という語に期待したものを、当時の音楽生活との関係を踏まえながら明らかにする。次いで、彼の「新しさ」観が、美術史家ハインリヒ・ヴェルフリン『美術史の基礎概念』(1915)に影響を受けたクルト・ザックスら音楽史家たちの循環史観と関係していることを示す。最後に、(俗流)ヘーゲル主義的な歴史観のもとに「新しさ」を論じた19世紀末の音楽批評家との比較を通して、ベッカーが提示した「新しさ」に見られる本質主義的な歴史観を浮き彫りにする。