2022年7月3日(日)13:30-15:30
3階310番教室

・ジョルジョ・アガンベン『散文のイデア』と翻訳/高桑和巳(慶應義塾大学)
・想起としての翻訳──ヴァルター・ベンヤミン「翻訳者の使命」再考/竹峰義和(東京大学)
・魔術としての翻訳/吉田恭子(立命館大学)
【コメンテイター】佐藤元状(慶應義塾大学)
【司会】佐藤元状(慶應義塾大学)

 本パネルの試みは、翻訳の原理的な考察にある。ここ十数年の間に英米の翻訳研究の基本文献の多くが日本語に翻訳され、翻訳をめぐる問い──ローレンス・ヴェヌティが「翻訳のスキャンダル」と呼ぶグローバルな文化的・政治的・経済的不平等をめぐる問い──が、日本の外国文学研究者の間でも議論されるようになってきた。しかし、他方で、翻訳という営みの原理的な考察については、それが日本の人文学の根幹にある営為であるにもかかわらず、まだ充分な議論が交わされていないのではないか? 
 このような問題意識から、本パネルでは、研究のみならず、翻訳においても精力的に活躍している三人の研究者に「翻訳とはいかなる営為であるのか」について、自身の翻訳者としての経験も踏まえながら、しかし各自の研究分野に近い領域で、理論的に議論してもらう。高桑氏はアガンベンの『散文のイデア』のなかにちりばめられたいくつものアイデアを「言語」に纏わる問題系として、つまり翻訳論として読み解いていくことによって、竹峰氏は翻訳論の古典的エッセイであるベンヤミンの「翻訳者の使命」に潜む「想起」のモチーフをベンヤミンの思考体系のなかに位置づけることによって、吉田氏は翻訳というものが「魔術」として立ち現れること、つまり作品が完成した瞬間にすでに翻訳が可能性/幻影として存在することを主題化することによって、翻訳という一見したところ自明な行為について再考していく。


ジョルジョ・アガンベン『散文のイデア』と翻訳/高桑和巳(慶應義塾大学)

 翻訳者による翻訳論は、これまでせっかく慎ましく提示してきたはずの妙技をこれ見よがしに開陳する白々しい手柄話になるか、さもなければ自分の悪訳を正当化する言い訳になるかである。私ごときが話そうが天才ベンヤミンが書こうがその点は同じことであって、翻訳論というものは例外なく不恰好である。だから、いまさら進んでやりたいものでもない。
 とはいえ、その不都合にもかかわらず検討し続けるべき何かというのも存在する。それは原理をめぐる議論である。
 アガンベンの詩的・哲学的エッセイ『散文のイデア』は、さまざまな読みかたへと誘われる、有り体に言えば謎めいた著作である。今回は、先般私の翻訳したこの著作──ちなみに、この本のなかに、明示的に翻訳について論じられている箇所はない──の一部分を翻訳論として読むことで、翻訳という営みについてあらためて考える手がかりにする。あるいは逆に、翻訳という補助線を引くことで、この難解な著作にわずかにであれ理解の風穴を開けることができればと考えている。
 さしあたりの見通しでは、言語の単一性、肉の復活、最後の審判、見かけの救済といった用語を、翻訳という視角から捉えなおすというのが検討の具体的な部分になる。
 (別の言いかたで、鍵となるのはA, B, C, Dだと言ってもいい。Agambenは当然として、あとは、本書で──そして他の著作でも──取りあげられているBenjaminとCelan、そしてDanteである。)

想起としての翻訳──ヴァルター・ベンヤミン「翻訳者の使命」再考/竹峰義和(東京大学)

「翻訳はすべてみな想起である」──本発表は、フランスの翻訳思想家アントワーヌ・ベルマンによるこの言葉を出発点として、ヴァルター・ベンヤミンの「翻訳者の使命」(1921)の隠れたモティーフをなす「想起(Erinnerung)」を、初期思想および後期思想との関連において考察する。具体的にはまず、「翻訳者の使命」における「言語の補完への大いなる憧憬」という表現と、初期色彩論の鍵語のひとつである「アナムネーシス」との思想的関連を検証することにより、ベンヤミンの翻訳論を新プラトン主義受容という文脈に位置づける。つづけて、原作・翻訳・純粋言語の関係をめぐるベンヤミンの考察が、初期言語論における事物の言語・人間の言語・神の言語との関係に対応していることを示したうえで、さらに、そこでの翻訳が、過ぎ去ったものを〈いま・ここ〉に召喚することで救済するという、後期ベンヤミンの歴史哲学における「追想(Eingedenken)」のモティーフを密かに予告しているという点を明らかにしていきたい。

魔術としての翻訳/吉田恭子(立命館大学)

 表象であるからにはすべてが魔術だ。とはいえ、翻訳はどうして、どのように、ことさら「マジック」なのか。
 発表では魔術としての翻訳について多角的に検討というよりむしろ空想的に思案を試みることで、翻訳という言語操作の独自性とそれを支える技巧に光を当てたい。おそらくはその即時性の幻影が考察の起点になるだろう。翻訳がかなりの時間を要する「作業」であることは、翻訳者のみならず誰でも承知しているはずだが、まるですぐさまそこに立ち現れるような幻想がつきまとう。それは機械翻訳・人工知能翻訳技術の飛躍的発達によって現代の私たちが即時翻訳に対して技術的な裏打ちのある合理的期待を抱くようになったからというよりも、むしろ逆なのだ。つまり、翻訳が始まる時点で「言うべきことはすでに言葉にされてしまっている」がゆえに、その翻訳は瞬時に立ち現れてしかるべきだという要求が伴う。すなわち従属的な下級魔法であるからこそ、一刻たりとも待つ必要性が生じない。同時通訳や機械翻訳への欲求はそういう前提に駆り立てられてきたといえるだろう。翻訳元であるオリジナル作品を著者が執筆するには時間を要する。だが作品が完成した瞬間、すでに翻訳が可能性/幻影として存在する。さらに、いまだ書かれていない作品を想像することは難しいが、いまだ書かれていない作品の翻訳を想像することはさほど難しくはないというパラドックスは、我々を想像的な翻訳文学空間に誘う。