2022年7月2日(土)10:00-12:00
1階110番教室

・W. G.ゼーバルト『土星の環』とヴァニタス/鈴木賢子(東京藝術大学)
・糸・織り・布・服──石内都の写真にみる儚さ/マーレン・ゴツィック(福岡大学)
・「ヴァニタス」といけばな──花の写真の儚さ/結城円(ルードヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン)
【コメンテイター】香川檀(武蔵大学)
【司会】香川檀(武蔵大学)

 「ヴァニタス」とは旧約聖書に起源をもつ「生の儚さ」や「現世の虚しさ」の観念で、17世紀オランダ静物画の特殊な一ジャンルにおいて、独自の図像表現とともに主題化された。砂時計や消えかかった蝋燭、弦の切れた楽器やシャボン玉、そしてなにより人の頭蓋骨というモチーフが、ヴァニタスの定型表現として知られている。この図像伝統はしかし、過去の一時期に限られたものではなく、その後の視覚芸術のなかに繰り返し多様なかたちで「回帰」し、とりわけ1970年以降の現代アートのなかに顕在化してくる。ダミアン・ハーストやゲルハルト・リヒターの作例が有名である。
 現代のヴァニタス表現は、髑髏や蝋燭のような伝統的モチーフを空疎な記号として引用するだけでなく、より屈折した意味を生み出している。現代という宗教的基盤を失った時代においてヴァニタスが回帰してきたとき、写真などの現代的メディウムによって表現されたそれらのモチーフから、どのような新たな意味が立ち上がるのだろうか。また、伝統にはない「現代のヴァニタス」モチーフがあるとしたら、そこにある歴史観や死生観、あるいは時間意識とはどのようなものか。
 本パネルは、ドイツの研究チームと共同で実施しているヴァニタス研究プロジェクトのメンバーから構成されている。文学や現代アートの作品をとりあげ、そこに用いられた虫や布や花のモチーフについて、トランスカルチュラルな視点も踏まえながら分析を試みる。 


W. G.ゼーバルト『土星の環』とヴァニタス/鈴木賢子(東京藝術大学)

 テクストと図版で構成された散文作品『土星の環』(1995年)において、作家W. G. ゼーバルトが20世紀末のイギリスを舞台に描き出したのは、まさに世の栄枯盛衰であり、いわゆる「ヴァニタス」と親和的である。しかしながら、彼は伝統的なヴァニタスを屈折させていると発表者は考える。
 伝統的なヴァニタス画においては、ときおり昆虫やその幼虫が主要モチーフに付随して描き込まれることがある。世俗世界のはかなさを主題にするヴァニタス画は、「メメント・モリ」の観念に、ひいては裁きの時に続く救済の信仰に裏打ちされており、虫の変態(メタモルフォーゼ)は永遠へと続く復活の象徴として描かれたのだった。これに対して『土星の環』で登場する蚕(幼虫・繭・成虫)は、伝統的ヴァニタスを踏襲しながら、そのイコノグラフィーから逸脱してゆく。すなわち『土星の環』では、人間によって完全に家畜化された蚕に対して、死ぬまで働き搾取される奴隷や労働者との観念連合が付与される。そのような古いイメージ・タイプの統合や転換は、《メレンコリアI》における画家アルブレヒト・デューラーの操作を彷彿とさせる。
 つまりゼーバルトはヴァニタス的イメージを近代の自然支配とその暴力のほうへと屈折させたのではないか。本発表では、『土星の環』の最深部でそのような屈折と倍音をもたらしているものを探究する。

糸・織り・布・服──石内都の写真にみる儚さ/マーレン・ゴツィック(福岡大学)

 文化の差異を超えて糸・織り・布・服は象徴的な意味を持っており、「生命」や「運命」の神秘に関連づけられている。ギリシャ・ローマ神話や北欧神話で女神が人間の運命の糸を紡いでいるように、世界各地の神話や宗教において、糸、機織り、布は「生」に関わる重要なモチーフとなってきた。
 写真家の荒木経惟が石内都を「写真織女」と呼び、写真評論家の倉石信乃が石内の写真は「糸を染めるように、布を織るように」出来上がっていると述べているように、しばしば彼女の写真はメディウムとしての織物との類似性から語られがちである。それに対し、本発表はモチーフとしての布や服に注目する。《ひろしま》シリーズ(2008年)以降、石内は多くの写真で布や服を被写体にしている。《ひろしま》シリーズは被爆した故人の服を「遺物」のように過去(消えた時代)と現在(個人の記憶)をつなぐものとして表す。そうすることで、「生と死」について語ると同時に、遺された衣服を新たなかたちで生き続けさせる。さらに《絹の夢》シリーズ(2012年)と《幼き衣へ》シリーズ(2016年)では、布のもつ別の側面に注目する。前者は近代化が及ぼした織物産業の盛衰と着物の素材をなす絹の儚さを連想させ、後者は近代以前の子供の命の儚さをテーマにして神と布の関係を考えさせる。
 本発表では、西洋のキリスト教に基づいたヴァニタス観とは異なる、日本の「儚さ」や「生と死」という観点から、糸・織り・布・服がもつ意味を探る。

「ヴァニタス」といけばな──花の写真の儚さ/結城円(ルードヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン)

 ドイツのバロック研究において注目されている「現代美術におけるヴァニタス回帰」は、日本のアーティストの作品についても指摘されている。伝統的なヴァニタス・モチーフのひとつである「花」を捉えた日本人作家の写真作品が、欧米の現代美術分野で「ヴァニタス」として受容される傾向がある。しかし、なぜ日本の作品をヴァニタスと評するのか、その根拠が明確に示されることはない。
 本発表では、ドイツ語圏のメディアを中心に「ヴァニタス」として受容されている東信(フラワーアーティスト)と椎木俊介(写真家)による《植物図鑑》シリーズ(2012年~)を例に、日本の花の写真に読み込まれる西欧的なヴァニタスの思想という観点から、文化翻訳の可能性・不可能性について考察を試みる。特に、彼らの花のモチーフが、ヴァニタスとしてだけではなく、同時に日本の「いけばな」として受容されている点に着目する。そして、西欧の現代美術分野でヴァニタスといけばなの関連づけが行われる背景を次の3点から分析する。1.花のヴァニタス・モチーフが表象する時間性;2.現代社会におけるヴァニタス表象の主要メディウムである写真の時間性;3.現代美術においてヴァニタスと関連づけられる消費社会批判。これらの分析をつうじて、西洋中心主義の受容とみなされる日本作品のヴァニタス化について、批判的に考察を加える。