2021年7月4日(日)10:00-12:00

・映像で記録された立川談志の落語から考える/池野拓哉(フリーランス)
・柳桜口演『四谷怪談』における怪談噺の粘着性/斎藤喬(南山宗教文化研究所)
・演芸速記のリアリティ/宮信明(早稲田大学演劇博物館)
【コメンテーター・司会】佐藤守弘(同志社大学)

生で行われるパフォーマンスというのは、会場に来た観客に対して行われるものであり、本来は記録される為に行われるのものではない。生のパフォーマンスが主で、記録されたパフォーマンスは、その場を共有することができなかった人や、記録として楽しみたいという人の為の、付随的なものだった。ところが2020年以降、配信されるパフォーマンスが増えることにより、記録されたパフォーマンスが生のパフォーマンスと対比して考えられても良いものに位置付けを変えたように思われる。
このパネルでは、記録されたパフォーマンスと生のパフォーマンスをそもそも比較できないものとして捉えるのではなく、比較する価値のあるものとして改めて位置付けることで、記録されたパフォーマンスが持つリアリティについて考える。言い換えれば、生ではないことを過度に意識せずに記録されたパフォーマンスについて考えてみる、ということである。
またこのパネルでは、記録されたパフォーマンスのリアリティを考える上で適切な題材であれば、映像・音声・テキストを問わず対象としたい。配信されるパフォーマンスということを考えた時、生のパフォーマンスで観客が感じ取る様々なことを共有するのに、現在一番近い媒体が映像であるように思われるが、パフォーマンスの種類によっては映像に限らないことが考えられる為、対象の題材の種類は問わないものとする。


映像で記録された立川談志の落語から考える/池野拓哉(フリーランス)
DVD集『立川談志大全(上)』〜 立川談志 古典落語ライブ 2001~2007〜の中から、主に『風呂敷』と『木乃伊取り』における立川談志と観客のやりとりを取り上げ、談志の演者としての語り口がもつリアリティについて考える。
落語では通常、演者が観客に語りかけるのはマクラだけであり、噺に入ると語り手としての演者は省略され、登場人物の台詞だけで落語が進行されることになる。だからマクラと噺では演者の役割が異なるし、古典落語においては「現代」が邪魔になることにもなる為、噺の中では一般的に「現代」の語り手は省略される。しかし談志の古典落語では、省略されるべき語り手としての談志本人が、噺の最中に現れたり消えたりする。例えば『風呂敷』ではサゲた後、終わらずにサゲについての解説をし始める。また『木乃伊取り』では噺の佳境で突然、演者に戻って観客に向かって語りかける。こういった時、噺の中に出てくる登場人物を演じる談志と、噺を語る現代の演者としての談志には、どちらも同じくらい濃厚なリアリティがある。特に『木乃伊取り』で談志が客席に語りかけた瞬間では、意表を突かれた観客は登場人物の語りなのか演者としての語りなのかを瞬時に判断できない。
このような古典落語から逸脱する談志と観客のやりとりは、音声だけで捉えるのは難しく、映像ならではといえる。この演じている談志と演じられている談志、両者のリアリティについて考えることを通して、記録されたパフォーマンスにおける立川談志の落語が持つリアリティについて考察する。

柳桜口演『四谷怪談』における怪談噺の粘着性/斎藤喬(南山宗教文化研究所)
本発表は、明治期に活躍した噺家春錦亭柳桜(1826‐1894)の口演速記『四谷怪談』(一二三館、1896年)を取り上げ、記録されたパフォーマンスが持つリアリティについて検証する。怪談噺の口演速記といえば、同時代人である三遊亭円朝(1839 - 1900)の『怪談牡丹燈籠』や『真景累ヶ淵』が知られているが、柳桜の十八番であった落語の『四谷怪談』は、鶴屋南北による歌舞伎の『東海道四谷怪談』とは異なる筋書きで、晩年においては円熟味を増し恐怖のあまり客足が遠のいたという逸話を持っている。言うまでもなく、速記本においては声音や所作など舌耕芸に本質的な要素は記録されないが、ここでは円朝が怪談噺について語った「粘着性」を補助線としながら、柳桜口演が聴衆にもたらしたであろう寄席における恐怖体験について考察を試みる。
『累ヶ淵』の粘着性は、口演のパフォーマンスとしては寄席における恐怖体験の根拠となるだけでなく、物語の内部においては仏教思想に基づく遁れられない悪因縁と取り殺す幽霊による怨念の実在性を結びつける機能を果たしているかに見える。本発表では、このことを念頭に置きながら、円朝の同時代人である柳桜の『四谷怪談』を対象に速記本が記録する恐怖のリアリティについて、噺家の口演がお岩の墓所を再建するきっかけとなったという物語の外部の出来事とあわせて検証する。

演芸速記のリアリティ/宮信明(早稲田大学演劇博物館)
2021年5月、4月25日からの緊急事態宣言の発出を受けて、鈴本演芸場と浅草演芸ホールはYouTubeで5月上席興行の緊急生配信を行った。その際、鈴本演芸場の社長に就任したばかりの鈴木敦は「自宅にいながらにして寄席にいるかのような気分を味わってもらいたい」と、その思いを述べている。また、古くは1884年(明治17年)、最初の速記本『怪談牡丹燈籠』が出版された時には、速記者の若林玵蔵が「寄席に於て円朝子が人情話を親聴するが如き快楽」を読者に与えると、演芸速記の特長を喧伝している。さらに、1931年(昭和6年)には、ラジオで初めて寄席中継が放送され、神田にあった立花の高座から受信機のスピーカーに直接お茶をすする音を送り込むなどして、寄席の雰囲気をありありと伝えたという。
このように寄席芸における「記録されたパフォーマンスが持つリアリティ」とは、なによりもまず、寄席にいるかのような、その場で落語や講談を聴いているかのような雰囲気をどのようにすれば作り出せるのかという問題であったといえるだろう。寄席を再現するための方法が模索されてきたのである。本発表では、「記録されたパフォーマンスが持つリアリティ」について、寄席芸、特にその速記本に焦点を当て、当時の演芸界の動向や社会の風潮、さらに速記が取られた環境の変化などにも目を配りつつ、新しいメディアに適応していく寄席芸のあり方を考察する。