日時:2021年7月4日(日)10:00-12:00

・アニメーショナル・ボディ──エヴァンゲリオンの中で生産される身体のコラージュ性/難波優輝(セオ商事)
・アニメーションにおける演劇的表現の活用──ATフィールドのない世界/柏木純子(大阪大学)
・「綾波レイ」と贈与──「仮称」と第3村/新井静(大阪大学)
【コメンテーター】石岡良治(早稲田大学)
【司会】雑賀広海(東京大学)

『シン・エヴァンゲリオン』の上映によって25年にわたるアニメシリーズ「エヴァンゲリオン」に終止符が打たれた。本発表では、繰り返し(リプレイ)を鍵として、エヴァンゲリオンシリーズを身体・演劇・贈与の観点から分析する。
エヴァンゲリオンシリーズは多くの「考察」を生んできた。しかし、本パネル発表では、作品内の意味の整合性の探求の地点に留まらず、なぜエヴァンゲリオンシリーズが繰り返されてきたのかを、贈与・演劇・アニメーションの身体性といったフレームから作品を切り取ることで、新たな解釈を引き出したい。柏木は、TV版エヴァンゲリオンの最終話を演劇的な切り口から取り上げ、Bert Cardullo Stage and Screen (2012)などで論じられてきた演劇と映画のアダプテーション論を現実の身体との関わりから考察する。新井はモースの『贈与論』(1925)を手がかりに、『シン・エヴァンゲリオン』に繰り返し現れる何かを与え、与えられるモチーフを紐解く、そして、難波は複数のアニメーターによって繰り返し描かれるアニメーション固有の身体イメージをトーマス・ラマール『アニメ・マシーン』(2009)における議論と分析美学の描写の哲学と接続させることで分析していく。
最終的に明らかにしたいのは、エヴァンゲリオン作品が繰り返し=リプレイによって他のアニメーションとは異なるどのような鑑賞経験をもたらすのか、そして、アニメーションならではのどのような表現を行っているのかである。


アニメーショナル・ボディ──エヴァンゲリオンの中で生産される身体のコラージュ性/難波優輝(セオ商事)
アニメーションの中でキャラクタの身体はなぜ一貫してそのキャラクタだと分かるのか? アニメーションのキャラクタはつねにコラージュされている。トーマス・ラマール『アニメ・マシーン』(2009)における、シンジの輪郭が変容することで、彼の自我の崩壊を分析する箇所をはじめ、アニメーションキャラクタの身体は、つねに境界のあいまいさを持つ。技術論から言っても、無数のアニメーターたちの手によって一つのキャラクタデザインは無数に描かれ、無数に再演される。わたしたちはアニメーションキャラクタのこうした非一貫性を無意識に見逃しているが、逆にこのようなアニメーションキャラクタの身体のぶれに焦点をあてることで、アニメーションによってしか生まれない奇妙な身体が浮かび上がってくるのではないか。その奇妙な身体——アニメーショナル・ボディにこそわたしたちアニメーション鑑賞者は魅惑されるのではないか。エヴァンゲリオンシリーズはキャラクタの身体を侵食され壊され再生される肉として執拗に描いた作品であり、これらの描写に着目することでアニメーションの身体というメディウム特性を分析していく。

アニメーションにおける演劇的表現の活用──ATフィールドのない世界/柏木純子(大阪大学)
本アニメシリーズでは、他作品のオマージュが多数確認されており、すでに考察・分析が進んでいる。とりわけアニメ、特撮、映画といった映像作品について言及されてきた。そこで本発表では、これまで注目されることのなかった演劇との関連、特に「語り」と「再演」について述べる。演劇と映画のアダプテーションについては、Bert Cardullo Stage and Screen (2012)などで論じられてきたが、現実の身体と描かれた身体をアニメ作品の中でアダプテーションさせることについていかに論じられるだろうか。TV版、劇場版ともに、演劇的表現が顕著に現れているのが「ATフィールド」のない世界である。これは「心の壁」を可視化したもので、登場人物たちはそれぞれ、他人と分かり合える世界を望み、葛藤する。「心の壁」取り払われた時、TV版では高校演劇を連想させる演出が、劇場では全てが芝居だったかのような演出が独白を中心に構成されている。庵野秀明は雑誌記事等で自らの演劇体験について語っており、1996年に完結したTV版の製作時は演劇性について無関心であったものの、後に劇場へ足を運ぶようになり、生きた身体への関心が一層高まったという。劇場版のタイトルに冠する「序破急(Q)」や「終幕」に代わり「終劇」を使用、一度完結したものを再度演出し直す行為なども演劇への関心の現れであると考える。野田秀樹との交流が多く見られることから、演劇文化の中でも80年代の小劇場ブームから現代の演劇文化の変遷をふまえ分析する。

「綾波レイ」と贈与──「仮称」と第3村/新井静(大阪大学)
本発表は『ヱヴァンゲリヲン 新劇場版:Q』及び『シン・エヴァンゲリオン 劇場版』(『シンエヴァ』)に登場する「綾波レイ」(通称「仮称」)と贈与の関係について考察するものである。モースの『贈与論』(Essai sur le don: forme et raison de l'échange dans les sociétés archaïques)(1925)に依れば贈与は「与えること、受け取ること、お返しをすること」の三つの義務を持つ。贈り物をすると返礼があるという互酬性が社会成立の基盤であるという概念付置は、近代の経済観への批判でもあった。一方『シンエヴァ』においては、災害から逃れ生き残った人々が「第3村」という共同体を作っている。お互いに助け合い、分かち合う、互酬性を基盤とした村である。クローン体であり、それまで他の人々と触れ合うことがなかった無垢の「仮称」はここで初めてそういった人々との関係性を築くが、ここで行われた贈与という行為は彼女にとってどのような意味生成をもたらしたのだろうか。あるいは、碇シンジによって名前なき「仮称」が「綾波」という名前を与えられ、再び「綾波」という名前を得たことは彼女にとってどのような意味を持つのか。「仮称」と第3村の関係、あるいは碇シンジとの関係を通して贈与のアポリアが乗り越えられるのかについても考察したい。