日時:12:30 - 14:30
場所:大岡山西講義棟2(西6号館)W631

  • 満映に赴いた日本映画人たちの戦後/李潤澤(大阪大学)
  • 溝口健二の映画にみる女同士の絆──『お遊さま』(1951)を中心に/徐玉(大阪大学)
  • 閉塞とスクリーン──リチャード・フライシャー『ソイレント・グリーン』における映画的身体の生命/早川由真(立教大学)

司会:長谷正人(早稲田大学)

満映に赴いた日本映画人たちの戦後
李潤澤(大阪大学)

帝国日本の植民地のなかで唯一の独立「国家」として存在した満洲国では、映画はその正当性を訴えるための最も大事な文化手段であった。国策映画会社の満洲映画協会(満映と略す)は当時かなりの数の日本の映画人を動員した。1945年の満洲国崩壊後も200人以上の日本の映画人が残り、1953年に至って最後まで残った84名が日本へ引き揚げた。しかし、編集者だった岸富美子が引き揚げて「赤」とレッテルを貼られたことが示唆しているように、満洲国との関わりは「負」の歴史として戦後日本社会に捉えられ、映画人たち自身もこの歴史には口を閉ざすことが多かったと言われている。それでも、満洲国の経験者、満洲国の崩壊と新中国の成立の証言者である彼らの人生に刻印される日中の複雑な歴史はそれで消えたわけではなく、その戦後の活動に染み込んでいるはずである。

本発表はこの意味を抽出することを目的としている。離満時期により映画人たちを3つのグループ<①途中で離満(八木保太郎など)><②崩壊時に離満(加藤泰など)><③最後に離満(内田吐夢など)>に分け、特に在満期間の最も長い③を中心に、彼らが戦後に参加した映画作品を主な対象として着目し、自伝・回想録・彼らの活動を記録した史料を活用しつつ、これらの映画人に見られる同類項を提示したい。それによって、彼らの満洲国での経歴が戦後日本映画史に与えた意味や影響を考察する。


溝口健二の映画にみる女同士の絆──『お遊さま』(1951)を中心に

徐玉(大阪大学)

溝口健二は、女を描く映画作家と言われている。溝口が描く女性像はしばしば二つのタイプに分けられる。一つは、男のために喜んで身を捧げる女、もう一つは、同じく男や社会の犠牲になりながらも、そのような運命に必死に抵抗を示す女である(斉藤綾子1999)。前者の例としては、『残菊物語』のお徳、後者の例としては、『祇園の姉妹』のおもちゃなどが挙げられる。しかし、たとえば『お遊さま』においては、二人の女性の関係が描かれていて、それは女同士のホモエロティックな関係だと思われる。『雪夫人絵図』は、雪夫人に憧れの気持ちを抱く女中が語り手となっている。『祇園囃子』では、支えあって生きていく二人の芸者の姿が印象に残る。こうした女性像は、いずれにせよ男性とのかかわりを問題とする上の二つのタイプには収まりきらないものである。

映画において、女性の共同体はレズビアニズムを抑圧する形で働いてきたとされる。女性の女性に対する欲望を取り除き、女同士の関係を「友情」や「シスターフッド」として描くのが慣習であった(Mayne, Judith 1990)。本発表は、ヘイズコード下のハリウッド映画におけるレズビアン的欲望に光を当てたPatricia White(1999)の「レズビアン表現可能性」という概念を援用しながら、『お遊さま』などの作品において、女性たちがいかに同性への愛を感じ、それがどのような映像言語で構築されているかを分析し、溝口映画にみられる女同士の絆を可視化させたい。


閉塞とスクリーン──リチャード・フライシャー『ソイレント・グリーン』における映画的身体の生命
早川由真(立教大学)

本発表では、リチャード・フライシャー監督の『ソイレント・グリーン』(Soylent Green, 1973年)を取り上げ、映画的身体にとって生命とは何かという問題を考察する。映しだされた身体と観客の身体との触覚的な接触という独自の切り口で映画的身体をとらえたのはスティーヴン・シャヴィロであるが、その議論はイメージや音の物質性を重視している一方で、そうした要素がテクスト上で生じさせる意味作用を副次的なものとして扱っていた[1]。本発表では、観客の身体との関連ではなく、映しだされた身体イメージ(映像)と声(音)の多様な結びつき(あるいは分裂)がもたらす意味作用を分析し、テクスト上に息づく独特の生命を備えた存在として映画的身体をとらえなおす。先行研究は、環境汚染やカニバリズムによって生命が搾取される近未来を描いたSF映画の佳作として本作品を論じてきたが、映画的身体に特有の身体性において生命をとらえる観点を欠いていた。しかし本作品においては、映画装置の原理と結びついた生命の在り方が重要な意味をもつのである。本発表ではこの観点から、以下の問題を中心に分析をおこなう。「ホーム」と呼ばれる施設でソル(エドワード・G・ロビンソン)が命を落とすシーンにおいて、なぜ、明らかに映画装置を思わせるスクリーンの映像が介在するのか。また、閉塞した世界で生きる群衆のざわめきや、どこかから響いてくる赤ん坊の泣き声は、何を意味しているのか。これらの分析を通じて、本作品における生命の在り方を明らかにし、映画的身体の生命にかんして新たな知見を提示したい。そのうえで、映画的身体の問題を多角的に提示した〈ニュー・ハリウッド〉期のフライシャー作品において、『ソイレント・グリーン』が占める位置を示したい。

[1] Steven Shaviro, The Cinematic Body (Minneapolis: University of Minnesota Press, 2011).


【司会】長谷正人(早稲田大学)