日時:2019年7月7日(日)10:00-12:00
場所:総合人間学部棟(1B05)

・映画空間における発話──オーソン・ウェルズ『マクベス』における演劇のアダプテーション再考/三浦翔(批評/映画監督)
・ストローブ=ユイレ『アンティゴネー』における演劇性について/行田洋斗(京都大学/日本学術振興会)
・トリュフォーの創造行為にみる言葉と映像/原田麻衣(京都大学)
【コメンテーター】中村秀之(立教大学)
【司会】原田麻衣(京都大学)

映画固有の性質とは何か。このような問いは偽の問題(ベルクソン)として批判されるかもしれない。実際に、近年の映画理論/研究を振り返ってみると、映画の固有性を探求する方向とは反対に、他のメディアや芸術との混交的な発展を歴史的に実証する研究や、映画スクリーン内部における他のメディアの役割の重要性を指摘するような研究が旺盛であることは間違いない。
本パネルもまた、このような研究動向と関心を共にしている。一方ここで参照したいのは、アンドレ・バザンによるアダプテーション論である。バザンは、早い時期からアダプテーションを擁護し、「現代映画(シネマ・モデルヌ)」の美学的な不純性を肯定的に捉えることを提唱していた。まさしく彼の時代やそれ以後は、他の芸術が映画の可能性を再発明するような時代だったともいえるだろう。3つの発表で取り上げるオーソン・ウェルズ、ストローブ=ユイレ、フランソワ・トリュフォーはそのような時代に活躍し、とりわけ文学や演劇からの影響が強かった作家たちである。
しかしながら、映画におけるアダプテーション研究では原作と映像の比較考察を通した内容の翻訳=翻案が議論の中心となり、美学的実践に伴うメディウムや形式の問いに向かうことは少なかった。本パネルが目指すのは、「現代映画」として映画が再び文学や演劇と接した境界に光を当てることで、メディウムの横断/混交する様相を浮かび上がらせることである。


映画空間における発話──オーソン・ウェルズ『マクベス』における演劇のアダプテーション再考/三浦翔(批評/映画監督)
オーソン・ウェルズは、幾つものシェイクスピア戯曲を映画にアダプテーションしている。とりわけ『マクベス』(1948)はシンプルな空間構成を持ち、言葉の芸術である演劇の台詞を如何に映画の中で発話させるかという点で際立った特徴を示している。ウェルズの逸早い擁護者でもあったアンドレ・バザンは「映画と演劇」(1951)のなかで、『マクベス』やローレンス・オリヴィエの『ヘンリー5世』(1944)などを引き合いに出しながら、演劇から映画へのアダプテーションの問題を美学的に考察している。バザンの議論は、かつてウェルズに見出した空間の奥行きとリアリズムの問題から離れて、映画の空間と発話の問題に踏み込んでいるが、その考察において具体的なシーンの分析には至れていない。しかしながら、バザンの映画観の中で「演劇と映画」で示される図式がどのような位置付けを持っているかを検討することで、この論考の持っている射程を推し量りながら作品の分析を遂行することは出来るだろう。本発表ではそのようにしてバザンの議論を引き継ぎ、ウェルズがシェイクスピアの台詞をどのように映画化させているのかを『マクベス』の作品分析を通して検討することを目的とする。とりわけ分析的な編集と短いダイアログによって成立する古典映画に対して、傍白を含む長い台詞が発話される『マクベス』の美学的側面が考察の中心となる。

ストローブ=ユイレ『アンティゴネー』における演劇性について/行田洋斗(京都大学/日本学術振興会)
本発表ではフランスの映画作家であるストローブ=ユイレの『アンティゴネー』(1992)を取り上げる。本作は、ブレヒト版『アンティゴネー』の翻案であり、シチリアにある古代円形劇場を舞台に、演劇的な手法をもって撮影されている。
1970年代にブレヒト派映画(Brechtian cinema)の代表的な作家として評価され、その名声を確立したストローブ=ユイレは、たびたびブレヒトの「異化」の概念とともに論じられてきた。数ある『アンティゴネー』のテクストのなかで、ブレヒトの戯曲を選び、その翻案を行なっている本作も、ブレヒト派映画の擁護者である政治的モダニストたちが見出した「異化作用」が散見される。
しかしながら、かつて実際に使用されていた古代円形劇場で撮影し、ギリシャ悲劇の形式を忠実に模倣した本作は、これまで論じられてきた単純な「異化」に収まることはなく、その概念の多義性を露呈させる。また、一見すると「撮影された演劇」(バザン)にしか見えない本作は、ストローブ=ユイレによる独特な演出や編集によって、これまでの演劇映画とは異なる新たな一面を模索している。以上の点から、本作を分析することによって映画と演劇間の翻案=翻訳の問題、そして映画とブレヒトの理論の関係性を再考する契機としたい。

トリュフォーの創造行為にみる言葉と映像/原田麻衣(京都大学)
フランソワ・トリュフォーによる「フランス映画のある種の傾向」(1954)は、脚本に対する演出優位の映画観を形成する一つの契機となった。その後ミシェル・シオンやパスカル・ボニゼールによって脚本の意義は再考されていくが、「潜在的な映画についての言葉によるアウトライン」(ボニゼール1990)としての脚本は、エクリチュールとしての演出とは違いオリジナリティに欠けるものとして認識されてきた。
こうした背景から、トリュフォー研究においても脚本それ自体の価値は看過されてきたが、トリュフォーの脚本資料は少なくとも二つの点で特徴的だといえる。まず、物語は一度小説のように書かれ、次いでデクパージュが決まる。脚本の改稿は映画の撮影後も続き、最終的に「決定版」が脚本資料に組み込まれる。つまり、脚本はいわば一つの作品として存在しており、それは一つのメディウムなのである。また、一般的に脚本執筆過程の序盤で構想されるダイアログは、デクパージュの完成後に暫定的に書かれるか、撮影中に作られる。ここで留意すべきは、アンドレ・バザンが指摘したように、「書かれた言葉」であるダイアログが演劇性をもつことである。したがってそれをトリュフォーが積極的に書こうとしなかった点は興味深い。脚本を一つのメディウムとして捉え、「文学作品から映画への翻案」とは違う観点からトリュフォーにおける「書かれた言葉」と映像の関係性を探ることが本発表の目的である。