日時:2018年7月8日(日)16:30-18:30
場所:人文学研究科B棟(B135)

パネル概要

・オスカー・ココシュカのアルマ・マーラー人形──肖像画との関連からの一考察/古川真宏(京都造形芸術大学)
・完全な個性──バレエ『木彫りの王子』における分身としての「人形」の役割/岡本佳子(東京大学)
・クロソウスキーにおけるロベルト像/須田永遠(東京大学)
【コメンテーター】香川檀(武蔵大学)
【司会】鯖江秀樹(京都精華大学)


人形と彫刻作品の違いを猿から人間への進化に準えた美術史家M・v・ベーン(『人形と人形劇』1929年)に対し、ベンヤミンは「感情移入する純真な教育者よりも、きわめて変人的な蒐集家・愛好者のほうが」愛の狂気と遊びの精神を知っていると述べ反感を露にしている(「人形礼賛」1930年)。19世紀から20世紀にかけて文学、美術、演劇、舞踊、映画等において、人形や肖像、模像、分身に狂気的な愛が向けられ、願望が投影され、それが戯れの相手となり、時として人間を凌駕するほどの主体的な役割を演じてきたことを考えるなら、モダニズムの芸術における〈肖像〉は、「人の似姿(イメージ)」の持つ根源的な魔力へと立ち返る試みとして捉えることができるだろう。

本パネルは、「人の似姿」への囚われのうちに芸術創作の契機を見出した三つの事例を取り上げ、人形論、絵画論、タブロー論、演劇・舞踊論の交錯する地点から20世紀の西洋芸術における〈肖像〉を捉え直す試みである。古川はココシュカのアルマ人形を「投影」の観点から彼の肖像画(論)に接続させる。岡本はバラージュの『木彫りの王子』の分析を通じて人形論と演劇論の接点を浮き彫りにする。須田はクロソウスキーの作品に執拗に現れる妻の肖像を検討することを通じて、彼の芸術観の中核を成すタブロー概念を再考する。

以上のように異なるジャンルの芸術を横断しながら、モダニズム芸術における〈肖像〉の特異性について考えたい。

オスカー・ココシュカのアルマ・マーラー人形──肖像画との関連からの一考察
古川真宏(京都造形芸術大学)

1919年から1922年にかけてココシュカは、かつての恋人アルマ・マーラーの人形と連れ添い、この人形を題材とした油彩画を3点制作した。こうした画家の奇妙な行動は、固定観念から解放されるまでの経緯を表す逸話とされることが多いが、近年では一種のパフォーマンスであった可能性も指摘されている。しかし、それがどのような意図でなされたのかは不明瞭なままである。

本発表は、ココシュカの肖像画制作の文脈のなかにアルマ人形を位置づけ、彼の「奇行」に積極的な芸術上の意義を見出すことを目的とする。同時代の美術史家ゴンブリッチは、画家の側からの感情移入や投影という点でココシュカの肖像画に破格の評価を与えている。これをアルマ人形に置き換えると、自らの生を賭した心理的投影の実験として捉えることが可能なのではないだろうか。

そこでまず、人形に対するココシュカの態度が書簡や自伝等の記述において分裂していることや、描かれた人形が時に人間らしく時に人形らしく立ち現れてくることに着目し、画家にとっての人形の意味を「フェティッシュ」と「肖像/代理身体」(Effigie)の観点から検討する。次に、こうしたアルマ人形に対する分裂した態度を、「心理的缶切り」を用いた人物観察や、「生け贄」としてのモデルへの自己投影といった、ココシュカの肖像画制作方法と比較する。このとき、肖像画についての同時代的言説における「非肖似性」と「内面性」の偏重についても留意する。最後に、人形のような不自然な姿で描かれたココシュカの肖像画や自画像についても検討したい。


完全な個性──バレエ『木彫りの王子』における分身としての「人形」の役割
岡本佳子(東京大学)

ハンガリーの作曲家バルトークによるバレエ音楽で知られる《木彫りの王子》(1917年初演)では、王子の分身としての「木の人形」という役柄が現れる。主人公である王子が愛しい王女の気をひくために木の棒で人形をこしらえるが、王女は逆にその着飾った木彫りの王子に夢中になってしまうという筋書きである。このリブレットは、同じくハンガリーの劇作家であるバラージュが1914年にブダペシュトの主要文芸誌『ニュガト(西方)』で無言舞踊劇として発表したものである。

《コッペリア》や《ペトルーシュカ》を初めとして人形の登場するバレエ作品は少なくないが、本作品《木彫りの王子》は分身であるはずの人形が、いっときではあるが本物の王子を凌いでしまう点で特徴がある。しかし、その際立った個性とは対照的に、バラージュはテクストにおいて木の人形を感情表現の描写なしにあくまでただの「人形」(王子ではなく)として舞台に登場させるのみにとどまった。1918年のバラージュの人形劇と舞踊についての記述を参照すると、人形と舞踊は内的な葛藤ではなく外的な身体の動きによってのみ本質を表し完全な個性を発揮するという指摘があり、王子とその分身の対比はテクストと舞台の両方においてその方針に合致するよう書かれている。

本報告ではこの「木の人形」の役割と効果について、作品のほか、バラージュの演劇理論、バルトークによるバレエ音楽による性格付けや、作者らの初演制作の回想資料等を参照しながら論じる。


クロソウスキーにおけるロベルト像
須田永遠(東京大学)

事実だけをしるすならば、ピエール・クロソウスキーは妻ロベルトをモデルとする像をいくつも描き残している。ロベルトをめぐった想念に憑かれながらも、それを祓うように残した一連のテクストとタブローを、思想(家)における「イメージの優位」として片付けてしまうことは、ともすれば、晩年みずからを称して「ひとりの偏執狂者」と述べた作家の本懐であるのかもしれない。

しかしながら、クロソウスキーが像について語るとき、それは、いつも伝達というものを支える記号(化)の問いと切り結んで現れる。本来的に慣習的記号とあい容れることのない妄執的な像の表現を許すのが(絵画にせよ文章にせよ)その記号のみであるというアポリアは、つまるところ、すでにして記号化された事物(あるいは記号)それじたいに不可視の像を「読み込む」というわたしたちの態度変更と、記号それじたいの地位の更新を迫る。キリスト教神学における「受肉」の思考(記号論)をいわば模範的とも言える仕方で辿り直すこうしたクロソウスキーの思惟をふまえるならば、彼の残したロベルト像は(稚拙なスタイルもその解釈に寄与した)想念の単純な発露というよりも「タブロー」或いは「肖像」に対して彼が発した問いかけのひとつの指標として捉えることが、やはり、クロソウスキーの一連の営為に対するフェアな態度であると思う。

以上の問題意識のもと、本発表ではクロソウスキーの思考におけるロベルトの像(そして肖像)の地位を、関連する諸概念(模像、身振り、記号など)との関連をふまえつつ再定義することを目的とする。