日時:2016年7月10日(日)14:00-16:00
会場:立命館大学衣笠キャンパス 以学館25号室

パネル概要

・神話と政治 ―ジャン=リュック・ナンシー『本来的に語ると』が照射する共同体の可能性―/市川崇(慶應義塾大学)
・「新たな神話」新論――あるいは「途絶」のやり直し/柿並良佑(山形大学)
・神話表現論の系譜――ニーチェ、バタイユ、ナンシー/酒井健(法政大学)
【コメンテーター/司会】渡名喜庸哲(慶應義塾大学)

 神話は古くから西欧の表象の重要な形式であったが、現在でも根源的な問いを投げかけている。本パネルはフランスの哲学者ジャン=リュック・ナンシー(1940~ )の近著『本来的に語ると-神話についての対談』(2015)を中心に神話が惹起する本質的な問題を検討する。この対談は神話に視座を定めつつも、それまでのナンシー哲学を概観しており、今回のパネルもこの展望にそって構成される。すなわち本書でのナンシーの神話についての発言を出発点に、ナンシーの著作へ適宜問いかけ、さらに他の思想家たちの考察、その先に見える近現代の社会・文化の在り方へ視野を広げる。そのさい第一の前提として共同体の問題を掲げる。神話が共同体とともに生まれ存在してきたからである。
 発表は次の三本の柱にそって行われるが、ナンシーの著作・テーマへの言及の生産的な重複を許容する。第一の柱(第1発表者担当)は政治であり、作品としてはナンシーの『無為の共同体』、『ナチス神話』、『否認された共同体』へ考察を広げ、バディウの政治思想にも立ち寄りながら20世紀の神話の問題に取り組む。第二の柱(第2発表者担当)は文学であり、作品としてナンシーの『文学的絶対』、『ナチス神話』を見据え、さらにドイツ・ロマン主義とミメーシスの関係へ考察を進める。第三の柱(第3発表者担当)は言語表現であり、ナンシーのニーチェ翻訳出版(『レトリックと言語』など)から、ニーチェ、バタイユ、ナンシーと続く神話表現論の歴史を語る。


神話と政治 ―ジャン=リュック・ナンシー『本来的に語ると』が照射する共同体の可能性―
市川崇(慶應義塾大学)

 ナンシーは「途絶した神話」においてシェリングを参照し、神話とは自らについて語り、自らを解釈する固有性の形象化であると述べる。しかし、外部から意識に衝撃を与える自然の力が枯渇するとき、自然に対して閉ざされた文化は、自然と人間を結ぶ世界を創造する神話の潜勢力に訴える意志を懐胎し、自らの本質の生産を目指す内在主義、さらに全体主義へと向かう。この自然と人間、人間相互の合一を目的とする内在主義は「無為の共同体」においても批判されていた。そしてナンシーは、「神話の不在」についてのバタイユの言葉に着想を得ながら、神話への意志に神話の途絶を対置する。神話の不在が分有させる情熱は、諸存在を自らの限界に導き、そこにこそ「共同体の不在」としての共同体が開かれる。近年の著作に目を移すなら、ナンシーはブランショの『明かしえぬ共同体』への応答として書かれた『否認された共同体』において、ブランショが神話の援用を通じ共同体を再び作品化し、神秘主義へと向かったのではないかと問うている。また、この神秘主義的共同体の称揚に、30年代のブランショの極右思想の残滓が指摘される。他方、『本来的に語ると』では、神話の脱構築の試みに対して距離が取られ、自らについて固有な仕方で語るものでありながら、所有者なき言葉としての神話、政治に先立ち、権力によっては生産されない真理の言述としての神話が前景化される。以上の分析を通じ、本発表では神話と政治をめぐるナンシーの思想の連続性と変容の過程を考察する。


「新たな神話」新論――あるいは「途絶」のやり直し
柿並良佑(山形大学)

 ジャン=リュック・ナンシーの思想を通じて「神話」の問題系は繰り返し現れてくるが、それをどう位置づけるべきか、いまなお容易ではない。『無為の共同体』においてはバタイユから継承された「神話の途絶」という「もう一つの神話」への対応が争点となっていたが、しかし必ずしも神話は否定的な相のもとに語られてきたわけではない。初期のラクー=ラバルトとの共同作業での扱い(『文学的絶対』におけるロマン主義ならびに観念論の「吟味」)、『キリスト教の脱構築』第二巻に補遺として収められたフロイト論に見られる神話としての欲動理論、また近年の文学論集『要求』でもあらためて問われる、文学と哲学が切り結ぶ領域としての神話…等々。
 そのつど多少なりとも位相を変える問題系を一望するのに、本パネルで取り上げられる『本来的に語ると』は有効な視点を与えてくれる。ナンシーはおのれの来歴を振り返るだけでなく、あらためて神話をめぐる問いを深めていく。『無為の共同体』に胚胎していた着想が、「自己について語ること」ないし「本来のものを語ること」といった、それ自体としては保守的にも見える表現とともに展開される。しかしそこでは当の「本来的なもの」が根底から審議にかけられると同時に、かつて神話に対して企図された「途絶」という試みもまた、その内実を新たに与えられる。神話と主体の問題系がいかに開かれるのか、本発表ではそのアウトラインを描いてみたい。


神話表現論の系譜――ニーチェ、バタイユ、ナンシー
酒井健(法政大学)

 本発表は、言語表現の視点に立って、ニーチェ、バタイユ、さらにナンシーへ至る神話表現論の系譜を検討し、ナンシーの考察の特徴を歴史的かつ対比的に際立たせていく。
 まずナンシーの『本来的に語るとー神話についての対談』で示される神話の非人称性の定義(「自己について自己自身から語る」)から出発して、ナンシーによる初期ニーチェ遺稿の翻訳に入り、ニーチェ自身の神話表現論を検討する。ナンシーがラクー=ラバルトとともに翻訳した1874年のニーチェの講義『レトリックと言語』がとくに重要である。レトリックに傾く神話表現を孤独な真理探究者の学問的表現から区別し、祝祭共同体の生起と存在に重ね合わせるこの時期のニーチェの視点は、1930年代後半のバタイユへ継承され(1938年のテクスト「魔法使いの弟子」が重要)、さらに脱自の聖性体験を断章表現に映しだしこれを非人称の無形共同体へ開かせる作品群『無神学大全』でさらなる発展を見る。ナンシーは1983年発表の「無為の共同体」以来バタイユの共同体論を重視しているが、有形の共同体の極北を生きた思想家バタイユという捉え方は、反面、バタイユの脱自体験の射程を過小評価する傾向を示す。神話表現における非人称的な「自己」についてもその内実をバタイユの非人称の共同性と比較検討する必要がある。両者共通の他の重要概念(例えば「内在性」)にも立ち寄りながら、ナンシーとバタイユの思想上の異同を明示して、ナンシーの神話論の現代性、精密性、そして有限性を最終的に指摘し、問題提起としたい。