日時:2015年11月7日(土)16:00-18:00
場所:東京大学駒場キャンパス21KOMCEE(East 2F-213)

・堀潤之(関西大学)「イントロダクション」+「バザンのウェルズ論――リアリズムを超えて」     
・三浦哲哉(青山学院大学)「バザンの弁証法――「『田舎司祭の日記』とロベール・ブレッソンの文体論」再読を通して」
・畠山宗明(聖学院大学)「潜在的モンタージュ――バザンとエイゼンシュテイン」
・伊津野知多(日本映画大学)「デジタルミイラの存在論――インデックス性を超えて」

司会|木下千花(首都大学東京)

 2018年の生誕百周年を前に、フランスの映画批評家アンドレ・バザンを巡る状況は再び活発に動き始めている。日本でも『映画とは何か』の新訳(岩波文庫)や、その訳者の一人である野崎歓のバザン論(『アンドレ・バザン――映画を信じた男』、春風社)に引き続き、最初の著作である1950年のウェルズ論(『オーソン・ウェルズ』、インスクリプト近刊)が刊行されるなど、バザンについて再び考察する好機が訪れているかのようだ。
  もちろん、近年の映画をめぐる言説の中で、バザンの名が忘却されたことなど、ほとんど無かったと言って良い。トーキー時代の新たな映画美学の提唱者として、ヌーヴェル・ヴァーグの精神的父として、そしてフランスの哲学者ジル・ドゥルーズが書物の上で組織した映画と哲学の出会いに重要なインスピレーションを与えた人物として、この半世紀の間アンドレ・バザンの名はほとんど常に、映画について書くことそのものの、欠かすことのできない起源に位置づけられてきた。
  しかし仮に、バザンをめぐるそのような切れ目のない受容空間が形成されてきたのだとしたら、私達はなおさら、彼のテクストを絶えず、そして執拗に問い直さなければならないだろう。そのような神話的と言ってよい受容のあり方は、書き手のイメージとテクストとの乖離を、不可避的にもたらすだろうからである。
  本パネルでは、そうした問題意識に立った上で、ウェルズやブレッソンといった作家の側から、あるいは「リアリズムとモンタージュ」、インデックス性といったもはやクリシェ化したとも言える対立項や論点から、そして何よりも彼自身のテクストからバザンを再読し、その現在性を改めて問いなおしてみたい。