日時:2015年7月5日(日) 16:30-18:30
会場:早稲田大学戸山キャンパス32号館1階127教室

パネル概要
〈わたし〉は〈あなた〉と同じ〈声〉を聴いただろうか。
音楽研究において人の声は、身体そのものを楽器にするという点において他の楽器とは異なる、特別な「音」として扱われてきた。それは聴くという行為においても同様である。にもかかわらず、歌う声を聴くという行為が未だはっきりとした輪郭を持たないのは、われわれ人間が〈声〉という楽器を知りすぎていることと不可分ではない。
われわれは自らの身体的運動を通じて〈声〉の生成プロセスを熟知しており、声を聴くときでさえ、その経験はわれわれを放っておいてはくれない。メルロ=ポンティが身体の理論を知覚の理論へと〈翻訳〉したように、声の知覚においても身体は〈きく〉ために準備されている。ゆえに、歌われる声は他の楽器の音にはない生々しさをもって、われわれの前に現前し、その経験はしばしば五感の境界を曖昧にして「音を聴き、判断する」という音楽的技能を鈍らせる。そして、歌われた声は、身体的経験を通じて聴く者にとって把握可能な意味の連なりとしての〈物語〉へと変換され、〈きかれる〉。バルトが〈声の肌理〉ということばに含めた、歌い手への〈欲望〉は、声に内包された生の〈物語〉ではなかったか。
本パネルでは、歌う行為と聴く行為はいかに〈交叉〉するかという問いのもと、二つの行為を媒介すると考えられる身体・自然・欲望というキーワードを通して、美学的、人類学的、現象学的立場から歌う/聴く行為のレゾナンス/ディソナンスについて検討する。

岡野宏(東京大学)
「言葉」から「身体」へ──J・マッテゾンにおける「声楽優位論」

本発表は、18世紀前半から半ばにかけて活躍したヨハン・マッテゾンの「声楽」を巡る音楽美学を検討対象とし、そこに存在する「声楽優位論」の様態を考察するものとする。もっとも、中世いらい西洋においては器楽に対する「声楽優位」の思想が存在しており、これは18世紀半ばの時代状況においても変わることがないものであった。一般的な美学思想史においては、こうした状況が変化し、器楽に美的優位が与えられるのが18世紀末から19世紀初頭にかけての初期ロマン主義運動においてとされる。
本発表でとりわけ検討したいのは、マッテゾン(元々オペラ歌手でもあった)の思想はこうした一般的なものとしての「声楽優位」思想とは異なったものなのではないかという点である。両者の違いとしてポイントとなるのが、「声楽」とは「言葉」による芸術なのか「身体」による芸術なのかという位置づけの問題である。それは「声」が何を伝えているのか、あるいは「声」を通じて、何らか情動が喚起されたり、「快」感情が生じたりするとして、それは何によってなのかという問いにつながるものである。
私見では、マッテゾンの「声楽優位論」にみられる「身体」重視の思想は、当時の「自然思想」の潮流のなかに位置付けることができるが、「声楽」が自然的であることがどのように意味づけられているのかを、彼の「喉」への言及から読み込んでいきたい。

相田豊(東京大学)
声の誘惑とその反響/連鎖──南米アンデスのセイレーン信仰における欲望の問題

本発表の目的は、南米アンデスのセイレーン信仰に関わる人々の語りや口承文芸、歌謡、映画、小説などの様々なメディアにおける表象を分析し、歌う=聞くという相互行為における欲望と誘惑のあり方について考察することである。
南米アンデスにおいて、セイレーンは「実際に存在する」精霊として信仰されている。人々は、セイレーンが住むとされる水辺にいって、歌唱や舞踊の力を得たり、セイレーンの歌う声から旋律を取って自身の作曲に取り込んだりする。さらに、近年ではこうした信仰実践そのものをよりメタな視点から題材化した小説や評論、映画などが多数存在している。
この一連の現実/フィクションの重層的なつながりは、セイレーンの「声」が、様々なアクターによって転送され、脱文脈的なネットワークを作り上げていく過程として位置づけることができる。セイレーンは、人々に対して、声というそれ自体は無形のモノを所有し、自ら再現したいという欲望を喚起させる内的な力を有しているのである。
本発表では、ここでの議論を米国の文化人類学者マイケル・タウシグの「最後から二番目性」や「語り手の連鎖」といった鍵概念をもとに再考し、セイレーンの「声」がコロニアルな非対称の関係を孕みつつも、より水平的な反響として「誘惑」の契機をも持ちうる可能性について論じる。

堀内彩虹(東京大学)
歌声の内的聴取──記憶の声と歌われた声のあいだで起こる身体的ノイズ

本発表は、ヴィブラートの聴取を例に、聴覚のみならず自らの身体を通じて行われる聴取の行為、すなわち聴いた声を身体的記憶を参照しつつ「内的に」把握可能なものとして捉えようとする行為を、聴き手による歌声の内的聴取として提示しようとするものである。
昭和のテノール歌手であり発声理論家でもあった柴田睦陸は、1950年代に数回にわたって寄稿した一連の「発声論」の中で、歌声の自然な響き/不自然な響きの区別についての説明として共鳴/共振という二つのことばを独自の意味において用いつつ、それらの運動的境界について言及している。柴田は、共鳴が美しい声の響きを「自然に」生み出すのに対して、共振はむしろその響きのエネルギーを「人工的に」奪うものであると提示した上で、歌い手はしばしば共振を共鳴であると「身体的に」誤って理解していることがあると指摘する。ここで着目すべきは、歌い手が身体の共鳴の結果と認識して提示した声を、身体的他者であるはずの柴田が共振の結果として聴くという点、すなわち歌い手と聴き手の間で起こる身体的なズレである。この時、柴田は歌い手の中に「何を」聴いたのか。
発表者が指摘したいのは、聴き手は歌声の聴取において自らが持つ発声の身体的記憶を参照し、聞こえてくる声と身体的記憶との間のレゾナンス/ディソナンスを「聴いて」いる可能性である。柴田が経験した身体的ノイズを例に、歌声を「聴く」行為における身体的聴取について検討する。