小特集 座談会:日本アニメのメディア・エコロジー 1

座談会
日本アニメのメディア・エコロジー

マーク・スタインバーグ+アレクサンダー・ツァールテン+門林岳史

記事構成:門林岳史

メカデミア・ソウルの風景

門林(以下TK):この座談会では、ハーヴァード大学のアレクサンダー・ツァールテンさん、コンコーディア大学のマーク・スタインバーグさんをお迎えして、「アニメーションの生態学」という小特集の一環として、日本のアニメの海外での研究状況について伺っていきたいと思います。ツァールテンさんは日本を中心とした東アジアの映像文化やメディア理論、スタインバーグさんは日本のアニメやメディア・ミックスを専門とされています。ツァールテンさんは、昨年ソウルで開催されたメカデミアという日本のアニメについての学会を主催しましたし、スタインバーグさんもこの学会に参加されていました。まずは、ソウルでのメカデミア会議およびその母体となっている研究誌『メカデミア』全般のことから話を伺っていきたいと思います。

ツァールテン(以下AZ):メカデミア会議には成功を収めた点もそうでなかった点もあり、その両面は、日本のアニメやポピュラー・カルチャーについての研究の現状を反映しているように思います。ソウルで開催されたことで、そうした研究の射程を広げることができたと思いますし、とりわけ、アニメ研究からナショナルな枠を外すことにつながりました。ソウルの会議には、東南アジア、日本(期待したほどには来てもらえなかったですが)、アメリカ、カナダ、ヨーロッパなど世界中のさまざまな地域からの研究者が参加しました。これまでのところ、少なくとも主要なメディアのうえでは、主にアメリカと日本の交流しかなかったのですが、この会議はそれを押し広げる結果となりました。
方法論の点からみても、歴史的アプローチ、作品の精読、メディア論や哲学からのアプローチなど、ここ10年から15年ほどのあいだに発展してきたアニメ研究の方法がこの会議で一堂に会しました。それは素晴らしいことですが、その一方では、これだけさまざまな方法論が出てきたので、それらのあいだで実際に意味のある対話をすることが難しくなってきているということもあると思います。マークはどう思いましたか?

スタインバーグ(以下MS):ある意味、小宇宙のようなもので、例えばフィルム・スタディーズという研究領域があって、その分野の学会に参加すると、いろんな方法論の研究発表パネルが組織されているので、めいめい自分と方法論を共有しているパネルを聴きに行く。そうすると、どうしても研究領域間の対話は少なくなります。日本のアニメの研究について言うと、いまはたぶんターニング・ポイントで、いろんなアプローチがせめぎ合っているけれども、そのなかにはまだ十分に展開されていないアプローチもあります。私自身としては産業の分析というアプローチがもっと発展していくことを願っているのですが。

TK:そうですね。ソウルでの会議は、マークのいうアニメ研究やアニメ文化の「小宇宙」群の生態系がいかに多様であるか、ということを示していたと思いますし、それと同時にそれらの小宇宙のあいだの交流を阻む障壁も可視化していたように思います。例えばこれは小さな例ですが、ソウルの会議は日本での『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』の劇場公開の2週間ほど後に開催されました。この映画は日本では社会現象と言っていいほどに話題になっていたので、メカデミア会議ではたぶんみんなが『ヱヴァQ』について熱心に語りあうのではないかと想像していたのですが、そういうことは起こらなかった。もちろん世界中から集まる参加者の多くはまだこの作品を観ていないでしょうけれども、少なくとも大きな関心を持っているのではないか、と。こういう小さな事例にも、個々の作品に向かう関心のあり方の違いが現れていると思うのです。つまり、日本では、アニメの現在の動向というときの「現在」が意味するのは、えてしてここ一ヶ月くらい、あるいはここ一週間くらいのことでさえあったりするのですが、そういうことは北米では起こらない。 この座談会で語りあうテーマについてメールで相談していたときに、海外で日本のアニメの研究をする際に経験される「障壁」について議論するのはどうか、とお二人に提案しました。いまとなっては障壁はほとんどない、と即座に却下されたのですけれども(笑)、その時に考えていたのは、例えば上のようなかたちで現れる日本の状況と海外の状況の違いです。つまり、文化事象にまなざしを向ける際の時間の尺度が異なっている。

MS:確かに現在ではテレビアニメに関しては、インターネット上のさまざまな手段で放映中のアニメをほとんど遅れなく視聴することができますが、劇場アニメについては必ずしもそうではない。例えば『009 RE:CYBORG』を3D上映の環境で観る機会は、海外ではまず与えられることがない。それも障壁のひとつですけれども、「現在」という時間についてのいまのお話は、例えば街中や電車の車内などでポスターやチラシなどによるプロモーションが大々的に展開されていたり、本屋やコンビニなどで関連商品が陳列されていたり、といったかたちで日常的に経験される「現在」のことですよね。確かにそういう意味での時間感覚の乖離はあります。例えば私が『ヱヴァQ』についてなにか書こうと思っても、日常さまざまな局面で交わされる議論を組み上げながらメディア・イベントとしての側面を論じることは難しい。北米でのアニメ研究の動向が作品のテクスト読解に向かいがちなことにはそういう背景もあるかもしれません。

AZ:とても重要な点ですね。これまでのところアニメ研究の動向がテクスト読解に集中している状況にはいろんな背景が考えられます。ひとつにはディシプリンの問題があって、アニメ研究を始める人たちの多くは、もともと文学研究者としての出自を持っているので、文学研究の解釈モデルをアニメ作品に適用する。けれどもその際に問題なのは、アニメは個々の作品として与えられているのみではなく、さまざまなメディアをミックスする「組織化の原理」ないしある種の「重心」としても作用しているということです。例えばコンビニでさまざまなエヴァンゲリオン・グッズを手にとったりチョコレートやソフトドリンクを買ってみたり、ということもすべて、「アニメ」の一部です。メディア・エコロジーの観点からすると、アニメのこのような生態学的な側面はとても重要ですが、海外の研究者は、そういう側面をとても距離をとったかたちでしか経験することができません。たぶん一年に一回くらいは日本に滞在したおりに経験したり、あるいはインタビューなどの研究方法によって、だいたいの感覚をつかむことはできても、本当の意味で経験することはない。