小特集 座談会 「アートと思想と批評をめぐる出版の可能性」

座談会「アートと思想と批評をめぐる出版の可能性」木村元×小林えみ×櫻井拓|聞き手:柿並良佑、江口正登、池野絢子

本、その姿と公共性

── 今度はコンテンツのほうに少し話題を向けていきたいと思います。事前に木村さんから「人文系の研究はなぜ本の形をしているのか」という、とても面白い議題をいただいています。当たり前のようですが、しかしパッと答えが見つからない問いです。本というものについての根本的な問いですので、この点はぜひお伺いしたいと思っています。

木村:ひとつの素朴な疑問なんです。たとえば今の若い人たちは──若くない人たちもそうかもしれませんけど──どんどん思考が断片化していると言われています。例えば、ちょっと前まではブログやmixiの日記なんかを書くにしても、記事ごとにタイトルを付ける必要がありました。その後Twitterが始まったときに、僕自身、なんて楽なんだろうと思ったんですが、それは、タイトルを付ける必要がないということなんです。つまり、タイトルのない断片的な思いみたいなものがどんどん流れ出していく。それがある種ビッグデータとなって蓄積され、それを検索して活用するということが、あらゆる研究分野でおこなわれるようになっていると思います。ただ、人文系の研究の場合、いまだにやはり最終的には本になることを最終的な着地点としてなされていることがいまだに多いんじゃないかと思うんです。
実際に現場を知らないので、研究者の方々がどういうふうに研究をなさっているか、よく分からないんですけれども、ひとりの人間の独創によって本のタイトルにふさわしいような研究テーマが設定され、目次を構成する1つ1つの構造があって、そしてそれらのディテールを埋めていくような研究がなされているのではないか。それと今の時流──ネットを中心に流れている言説との間にギャップがあるような気がしているんです。僕は本になるような言説のほうが好きですけれども、どっちがいいという話ではなくて、今後どうなっていくのか、とても興味があるところです。
単純に電子書籍のようなものを想定しているのではありません。現状では電子書籍もけっきょく本の形をしていますから……。さっきもちょっと触れましたが、ひとりの人間の、「アーティスト的な」ある種の独創によって世界を切り取る仕方がひとつの研究に結実し、その結果1冊の本が生まれる。僕が「人文系の研究は本の形をしている」と言うのはそういうことです。理系の場合は共同研究が当たり前になっていますけれども、人文系の研究ももっと共同研究的、あるいは断片的、統計的になっていけば、それに伴って本という形式も変わっていくのかもしれない。そういう素朴な疑問があったということですね。

櫻井:たとえば心理学の共同研究では、あるテーマで被験者の人生を長期にわたり追跡して観察するような研究があり、主導する研究者が亡くなった場合でも、周りの研究者や弟子が代わって引き継ぐというようなことがありますよね。そのような、テーマの共有と継承のモデルは、人文系の研究においても活用可能性が試されるべきかもしれません。人文科学の研究は従来、木村さんがおっしゃったような個人のアーティスト的独創に依る部分が大きかったと思いますが、研究プロセスや資料のデジタルアーカイヴなどの発達により、個人の独創とは違う、集団的な蓄積と共有、創発により展開される研究の可能性が今後見えてくるのかもしれないと思います。
そのうえでモダニスト的な話をしますが、僕は美術批評の本を編集することも多いのですが、「ネット世代」や「デジタル・ネイティヴ」と言われる世代(具体的な世代というよりは、傾向を示すラフなくくり程度のものです)の書き手の書き物の中には、木村さんがおっしゃった「断片化」を強く感じさせるものがあると感じます。Twitterでつぶやくような感じで文章が紡がれているから、タイトルがない。もっと言ってしまえば、情報はやたら渉猟しているけれども、内容がない。つまり「言いたいこと」がない。それは「作文」や「論文」のような、教育において規範的に機能する文章のフォーマットとは別のフォーマットが社会的に浸透してきたということだと思うので、そのこと単体で是非を論じるのは必ずしも適切ではないと思います。ただ、Web的な文章は従来書かれてきた文章とは異質だと感じています。
その異質さは、たとえば建築の分野における「切断」の問題と関係すると思います。コンピュータ上では、デザインをいかようにもシミュレートすることができるし、ヴァリエーションを作ったり、一度作ったデザインを修正したり、市場やクライアントの意見を聞いてそれをフィードバックして変更することができる。しかし実際に建物を建てるくだりでは、デザインが物質として定まった形を持たなければいけない以上、生成を「切断」し、形態をフィックスすることが要請される。
出版において、書き手が何かを書く、あるいは編集者が見出しやコピーを付け、それを校了にして印刷に回すということは、情報を不可逆的な物質のほうへ送り出すということだと思います。そこで取り返しがつかなくなると同時に、物質としてフィックスした主体に責任が生じる。だからこそ「プリプレス」の段階で、校正を繰り返す。その種の責任を回避し、コンテンツをあくまで暫定的な静止状態に留めおくことは、従来の研究や著作、表現とは折り合いが悪い。一度タイトルを付けたとしても、それはあくまでブログ記事のタイトルであって、もう一回Tumblrにログインして編集すればまた付け直せるというようなものです。僕はどうしても近代的な主体と責任のモデルを支持したくなってしまいますが、それはさて措き、そこに近代的なモデルと情報的可変性の間の齟齬があるのは事実だと思います。
次に、事前に木村さんからいただいた、「研究者や編集者はアーティストか」という問いについてです。僕も研究者はアーティストだと思っていますが、編集者はアーティストではないと思っています。編集者は、著者の作品を工業的な技術を使って複製し社会に流通させる仕事だと思いますが、それは作品を元にしながらも、同時に複製によって作品を裏切る行為のようにも感じますし、それは先程お二人がおっしゃった、本が「擬態」するという問題ともつながりますよね。誤解を恐れずに言えば、編集者は、研究者やアーティストよりも「あやしい」仕事なのではないかと考えています(笑)。
出版がいわゆる「工業」であるということは、意外と語られることが少ないのかもしれません。出版は編集、デザイン、印刷、製本、営業、流通、小売といった諸技術のプロフェッショナルによる、協働的なビジネスですよね。次の工程に回すと、最終的にはどうなるかわからない。印刷などは色校正や印刷立ち合いという方法で仕上がりをチェックすることができますが、最終的には印刷所の仕事です。その意味で本の仕上がりは出来上がってみるまでわかりませんし、仕上がった本がどのように流通してどのような読者にどのように影響するかは、事前にはわからない。産業というのはそもそもそういうものかもしれませんが、出版にはそのような、他者に委ねるという意味での社会性があると思います。

小林:まず、出版の産業としてどうかという観点はおいて、コンテンツとそのメディアということに限定して話します。コンテンツの断片化とWebでのあり方は実際に発生していますが、書籍とは別物として扱うということでよいのでは、と思っています。そういう研究手法が出てくるかもしれないですし、書籍も今の形のままでなければいけないということではありません。写真が登場しても手描きの絵はなくならず、映画(動画)が登場しても写真がなくならないように、相互に影響はありますが、それぞれ違う技術として発展するものだと思います。紙の書物というものが、櫻井さんのおっしゃったようによくもわるくもコンテンツを1つの物体にフィックスするもので、ハードとソフトを兼ねたメディアであるということにおける優位性は、少なくとも現時点においてあると思います。電子書籍のような中間的なメディアもあります。産業としては、馬車が自動車に代わったように、技術革新のレベルとその社会受容の具合によって、今後、一般性を失うことは十分あり得ると思いますので、そこで企業として紙と電子をどう扱うかは、状況次第での経営上の判断です。歴史的な保存性や再現性でいえば、電子メディアは電気がないと使えなかったり、ハードの規格が変わるとソフトが使えないこともある、といった脆弱性もある。規格移行対応の技術ももっと進歩するとは思いますが。コンテンツも、利用場面などで重なる部分はあれどそれぞれに合わせた形で、断片がビッグデータとして集積され検索される形と、編集されて一つの固定化したコンテンツになるのと、両方、それぞれに影響しあいながら残ると思っています。
その上で、2点目の編集者がアーティストかについては、私も櫻井さんと同意見で、研究者は創造性をもったアーティストと呼べるかもしれないですけど、編集者はクリエイティブな作業もありますが、基本的にはメディアへの落とし込みを行う技術屋だと思っているのでアーティストだとは思いません。

木村:編集者はアーティストか、あるいは出版はアートか、という点に関して、最初から話題に上がっている「直」という方向性に関連して、ひとつ言っておきたいことがあります。
不特定多数を相手にしたマスの出版からひとりひとりの顔の見えるパーソナルな出版へ。特定の書店員さんや読者に直接届けていく出版──たぶん、そういう方向性がどんどん強まっていくと思うんですよ。現状の出版のような、たくさん刷ってどかんと書店に置いて、それで返品率が3割、4割を超えるような状況よりは、効率はよくなっていく。効率がよくなって、コストが下がって、良いこと尽くしのような気もするんですが、ちょっと危惧していることもあるんです。無駄がなくなることによって、自分が作った本がどう読まれるか分からない状態というのが、どんどん減っていくような気がするんですよ。予想もしなかったような読者に届く可能性が、ということですね。
例えば(僕は読んでないけど)ピケティの『21世紀の資本』がとてもよく売れました。下北沢にB&Bっていう書店があって、昨日もうちの主催のイベントがあって行ったんですけども、ピケティが置いてあるわけです。B&Bというのはカルチャー好きの若い人たちが集まる書店なんですけれども、そういうところに置いてあると、やっぱりなんかカッコいいなという感じで買っていく人がいる、経済学の本なんていままで1冊も買ったことのないような人たちが。それもまた、やはり本のひとつの特性だと思うんです。
ある意味、本というのはすごく保守的なメディアでもあって、どんなに著者が独創的な本を作ろうと考えていても、たとえば、ページ数が奇数の本なんてできないですよね。紙に表裏がある以上、ページ数は絶対に偶数になる。もっと言えば、ページ数はたいてい16の倍数であったりするわけです〔通常、1枚の大きな紙の両面に16頁を面付けして一度に印刷し、小さく折りたたんで端を裁断する〕。そういう「モノ」としての保守性みたいなものが絶対にある。どんなに独創的な思考であっても、タイトルと著者名は載せなきゃいけないとか、表紙が絶対なきゃいけないという縛りがある。そうした縛りの中にどうにかして著者の思考を封じ込めるというのが、ある種編集者としての仕事だったりするわけです。それは、アーティストとは対極にある職人芸ですよね。どんなに個性的な思考も、同じ姿のメディアに封じ込めていく──編集者がしてきたのはそういう保守的ないとなみでした。100万部売れる本も1,000部しか売れない本も同じ形をしているからこそ、それらが書店に置いてあれば、もしかすると100万部のベストセラーばかり読んでいる人が、1,000部の本を手に取る可能性というものが出てくる。さっきからの話の流れとは、ちょっと逆かもしれませんが、アートではない本、一点ものではない本というメディアが、今までは読者をある意味拡げていた面があるんだけども、「直」という方向性が強まっていくにつれて、どんどんアートになっていっているのではないか。そのことを危惧する意識も一方ではあるんです。

── 伺っていて、二つほど思うところがあります。まず、木村さんがご指摘された本の保守性について。本は物質としての様々な制約や慣習に囲い込まれており、それがいってしまえば形態上の画一性、さらにいえば保守性をもたらしている。しかしそのことによってこそ、(アートとしての本や、パーソナルな直販行為がともすれば招いてしまいかねない)本の作り手から読み手への回路の閉鎖、いわばタコツボ化を脱して、予想外の読者に届く可能性がある。保守性ゆえに開かれるという逆説はとても示唆的ですね。他方で、小林さんのお話からは本という形態の今後の変化にも機敏に対応していこうというお考えがうかがわれました。
もう1つは、今の点と関連しますが直販のことです。先ほどはメリット、今後チャレンジングな方向で進む新たな流通の可能性としての「直」が取り上げられましたが、同時に閉鎖的になるデメリット、危険性もあるというお話でした。ここで、事前に小林さんから提題していただいた公共性の問題についてお話を伺ってみたいと思います。一方に個人と個人の間のような狭い世界に閉じる危険性を意識した上での直販の可能性の追求、他方に本を図書館に入れるといった公共性、そうしたある意味ではまったく別の方向を向いた二つの問題に同時に対処しなければならない。その点についてはどうお考えでしょうか。

小林:一般書のどんどん薄まっていくマス化とは対照的に、専門書に関しては放っておいたら先鋭化するので、それを一定程度、一般にも届けるメディアへ落とし込むのであれば、われわれ編集者が回避しなければいけないという話だと思っています。
その上で、私は専門書も、なるべく広く一般に届ける、公共性ということを考えたい。コンテンツからまた産業としての話に戻りますが、個人の購入による市場性に委ねるということではなく、公共でもう少し出版や学術をきちんと下支えしていくかということが、教育・文化としても必要だと思っています。
お金だけの問題ではなく、人文書が100万部売れる必要はないですけれども、教育・文化として大学生程度には本にアクセスできるように届ける必要がある。個人所蔵されることも嬉しいですが、公共の図書館・大学図書館にそうした本が必ずあって、お金がある人もない人も文化・学術へのアクセスが担保されること。日本で言えば数千部から、本来ならば1万部ぐらいは全国でそれぞれが手の届くところに紙の本が届けられるべきであってほしい。ですので、販売部数を伸ばす、というのがいま目の前の当たり前の選択肢ですが、図書館などとも連携して、われわれが誰に何を届けたいのかを考えていかなければいけないと思っています。それをしなければ細分化された市場の顧客向け経済活動に収斂されていくだけでしょう。
図書館については、複本問題や新刊の貸出制限など版元の売り上げと対立的に語られがちですが、こと専門書・少人数出版に限っていえば、全国図書館に行きわたる数がでるのであれば、少なくとも今の規模の事業の継続は可能です。では専門書は買い上げれば解決、という短絡的なことを言いたいのではなく、一口に出版社といっても大手と少人数出版であれば、収益モデルも体制も違う。この座談会でせっかく少人数出版について取り上げて下さっているので、そういう新しい流れの生産現場から生み出される本がどう公共と関わってそれがまた生産現場をどう変えるのか、考え直す必要があると考えております。頒布が目的なら紙の本で売り買いせずに、ウェブで無料公開を促進すれば、等、またコンテンツのあり方の話に戻すこともできますが、そこも「どちらが」という短絡的な結論ではなく、様々な観点から丁寧に議論されるとよいのではないでしょうか。
あと「公共」と繋げてちょっと強引ですが、著作権についても話をさせてください。ベテランの執筆者でも、特に専門書においては著作権を意識されている方は少ないように思います。現在、TPP交渉の問題として著作権について話題になっています。「保護期間の延長」「非親告罪化」「法定賠償金」が主な論点です。例としてサブカル的な二次創作などやキャラクタービジネスの問題として取り上げられることが多いのですが、当然、専門書も含む全ての著作物に影響のあることです。保護期間が延長されれば、貴重な研究書のデジタル化を含む再版が困難になりますし、非親告罪化が実現すれば、企業内コピーもNGになる可能性が高いと言われていますので、厳密な私的利用以外として、研究会でのコピー配布も摘発される可能性があるかもしれません。まだ仮定の話で、大げさに思えるかもしれませんが、この著作権問題も人文書界隈の版元、執筆者、読者ともっと議論したいことです(注:「TPPの知的財産権と協議の透明化を考えるフォーラム」などご参照下さい))。

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