小特集 各国の出版事情 アメリカ

人文系の出版トレンド(アメリカ)
高吉一郎

アメリカにおける人文系の出版事情というお題だ。「こんなトピック、雑誌、本が流行っている」という情報ではなく、もうすこし構造的な動向に話を絞りたい。

大雑把に分けると、業界は学術系出版社と商業系出版社に分かれる。

学術系出版社とは要するに大学出版社のことである。どれも、税制上は非利益団体だ。アメリカでも日本に似て、名の知れた大学はだいたい出版部門を持っている。一部の有名大学出版社は黒字経営のようだ。また、最大手のケンブリッジやオックスフォードなどは大学出版社というよりも、グローバルな商業出版社に近く、数百冊しか売れない学術書から大衆向けの辞書まで出版する。残り九割以上は万年赤字運営。おもに関連大学からの援助や様々なグラントのおかげで成り立っている。

大学出版社が今直面している最大の問題は大学図書館の予算削減だろう。アメリカの大学は過去十年ほど運営費学費ともに高騰していて、最近はいかにコストを削減するかが問題になっている。こうした状況の中、図書館もこれまでのように大学出版社が出した学術書ならなんでも自動的に購入、とはいかなくなってきた。履修学生が減っている人文系領域の本となるとなおさらだ。

私も勤務先で図書館委員などを務めてきてよくわかったが、最近の図書館員たちは過去のデータを集めて、どのような本がとくに学生に利用される確率が低く、従って購入する価値がないのか、厳しく判断して限られた予算を使っている。大学出版社は頼りにしていた顧客を失い始めたわけで、彼らは 出版タイトルの数を減らすとともに単価を上げることで対処している。

副作用はすでにでている。例えば、単価を上げればそれだけ個人購入の機会が減ることになり、読者獲得がさらに難しくなる。出版社は結果的に自分の首を絞めている。さらに、出版タイトルの減少に伴って、研究結果を出版したい学者にとっては出版社を探すのがさらに難しくなっている。博士論文を本として出版するのが学者としての第一歩と考えられているのがアメリカなので、人文系若手研究者は「どの出版社も原稿さえ見てくれない」と危機感を抱いている。

問題はコストなのだから、ネット出版に移行すればとも思うのだが、なかなか進んでいない。

大学出版社はそれこそ何百という人文系学術誌も出版している。ここではオンライン化が完全に完了していると言っていい。一応、学術誌は昔ながらに紙に印刷され、図書館などに納入されているようだが、最後にハードコピーの学術誌を手にとったのはいつなのか、私は思い出せない。

学生も研究者も、データベース経由で論文を探し、プリントアウトもしくはスクリーンで読む、というのが主流である。年に数回、いくつかの「号」が出版され、それぞれの号には数本の研究論文と書評が載る、みたいな形態は虚ろなフィクションになってしまっている。

紙媒体では意味があった形態が、完全なお約束事としてネット出版に受け継がれているわけだが、これを無視するのは意外に難しいようだ。ネットオンリーのRepublic of LettersNonsite も依然として年に数回「特集号」を組むという形態を捨てていない。

一方、現代文学を扱うPost45は査読を通った論文を随時いつでも掲載するといった方針で、もはやメディアならびにフォーマットにおいて学術「誌」とは呼べないものになっている。

この手の人文系オンライン学術誌は名の通った編集委員、編集コストを支えるグラント、それにサーバーさえあれば誰でも始めることができるので、今後も増えることだろう。それにつれて、老舗学術誌との競争も激化するはずだ。

商業出版社においてはいささか状況が異なる。

まず、アメリカには硬派の人文系商業出版社みたいなものがない。 岩波とかみすずとか筑摩とかがやっていることはアメリカにおいては大学出版社が行っている。

また、毎週何百万部も売れるコミックやゴシップ誌を出版しながら、時たま全く売れない硬派の思想書を赤字覚悟で出版するハイブリッドな大手出版社(講談社、新潮など)みたいなものもアメリカにはない。

さらに、日本にはアメリカではなんといって説明していいかよくわからないような人文系雑誌がいくつもある。筆者が学生だった時は『現代思想』、『ユリイカ』、『思想』、『批評空間』、『美術手帖』などという雑誌があって(いまだに出版されているものもあるが)、読書好きの学生たちは新しい号が出るたびに喜んで立ち読みしていた。が、アメリカにはこういった雑誌がない。もちろん、しつこく探せばどこかにはあるのだろうが、いわゆるジャンルとしては存在しない。

要するに、日本と違って、歴史的に、アメリカでは商業的出版社がいい意味でも悪い意味でも人文系コンテンツに手を出してこなかった。したがい、アメリカでは「老舗の人文系雑誌が廃刊に追い込まれる」とか「大手出版社が売れない人文系分野から手を引く」みたいな話をあまり聞かない。

雑感とともに閉じることにする。人文学の現状と紙媒体の行方というのは二つの問題として切り離したほうがいいのでは、などとよく考える。人文系の営みは紙が発明される前からあったし、グーテンベルグ以降も死に絶えなかったし、デジタルが主流の時代にも存続してくのではと思いたいところがある。十年、二十年といった単位で見ると確かに「危機」だとか言ってみたくもなるが、数世紀という単位で見ると、どこまで短期間のうちに根本的物事が変わるのかと懐疑的にならざるを得ない。同時に、本とか雑誌とかいった媒体は極めて最近に整ったメディアで、それが何か新しいものに取って代わられるのはしょうがない事ではないか。人文学の浮き沈みと紙媒体の未来という別々の問題を抱き合わせて考えることによって、人文学の本質も紙媒体の本質もどちらも見失ってしまうのではないか。こんな風に考える反面、どこかセンチメンタルで怖がりでほとんど反動的なところでは、紙媒体と人文学的な知の間には単なる媒体–内容関係を超える必然的な関係がある、とか思うこともある。幸い、そんなときに限って、教室で、以前から心配していた出来の悪そうな学生がKindleから顔を上げ、『グレート・ギャッツビー』について穿ったコメントを述べたりするのだが。

高吉一郎(タフツ大学)