研究ノート 江村公

忘却された複数の「いま・ここ」のために
──マニフェスタ10@サンクト・ペテルブルク2014
江村公

1. 夢の実現としての「マニフェスタ10」

2014年6月28日から10月31日にかけて、ディレクターにカスパー・ケーニヒを迎え、サンクト・ペテルブルクで「マニフェスタ10」が開催された。この芸術祭は、ペテルブルクという都市の歴史と現在進行中の出来事との関わりにおいて、特筆すべき、記憶に残るイベントだったということができる。ロシアで初めて開催されたマニフェスタは、キュレーターの離脱や、「ゲイ・プロパガンダ禁止法案」をめぐる騒動、ウクライナ問題と、それに付随する経済制裁など、もろもろの障害を乗り越えながら実現されることになった。こうした状況を反映しているだろうか、いささか自嘲気味に、この「マニフェスタ10」は「マニフェストなしのマニフェスタ」と規定されている ※1。本稿では、閉幕からいささか間があいてしまったが、この「マニフェスタ10」について、挫折を伴う夢の実現、エルミタージュ美術館を擁する都市ペテルブルクの持つ場所の歴史および地域性、この芸術祭が喚起する記憶という観点から振り返ってみたい。

もちろん、ロシア国内では、次回6回目を迎える「モスクワ・ビエンナーレ」を筆頭に、いくつかの芸術祭が開かれているが、重要なのは、このペテルブルクでの芸術祭がオランダで設立された組織「マニフェスタ」によって企画されたことである。その設立の動機には、ベルリンの壁の崩壊という歴史的出来事があった。それゆえ、かつての鉄のカーテンの向こう側ロシアでマニフェスタを開催することは、EU側の関係者にとって夢の実現であったといえよう。

さらに、今回の「マニフェスタ10」は、エカチェリーナ女帝によるコレクション創設から250年を迎えたホスト美術館エルミタージュの新たな門出を記念するものだった。美術館の従来のコレクションのあいだに、現代美術作品が展示されることで、過去と現在がつながれる。現館長であるミハイル・ピオトロフスキイの言葉を借りれば、ペテルブルクの建造物そのものが帝政、革命、そして軍事都市というこの街の歴史につよく結びついている ※2。そのことは、今回の主な展示場所となったエルミタージュ美術館、美術館を挟んで宮殿広場に面する統合参謀本部、そして、ネヴァ河の対岸であり、ペテルブルク大学の敷地に隣接する旧士官学校といった場所の選択にも現れているだろう。

こうした歴史的文脈を踏まえ、今回の芸術祭を最も象徴している作品としてまず挙げられるのは、フランシス・アリスの《ラーダ・コペイカ・プロジェクト》(2014年)であろう【図1】。この作品はアリス自身のかつての夢と経験を、映像、インスタレーション、写真、絵葉書などにより再現したものである【図2】。1959年生まれの彼は若かったとき、兄弟と一台の車、ラーダ・リヴァ1500を共有していた。ラーダは1980年代初頭を中心にヨーロッパで流通していたアフトヴァス社製のソ連車である。アリスは、この車に乗って、ベルギーの田舎から、鉄のカーテンの向こう側へ脱出しようと計画した。ジタンを吸いながら、運転する車窓は、映画のスクリーンとなり、彼らはノスタルジックな車を乗りこなす騎士、あるいは革命家さながらである ※3。「わたしたちが若かったとき、人生はより単純だった」とアリス自身は述べているが ※4、その無謀な冒険の企ては、今ほどグローバル化が進んでない時代に、西側世界とは異なる、東側の社会主義が可能にしたユートピア的世界を見てみたいという、若者の好奇心の例だったのだろう。

フランシス・アリス《ラーダ・コペイカ・プロジェクト》(2014年)、エルミタージュ美術館エントランス広場、2014年8月筆者撮影

【図1】フランシス・アリス《ラーダ・コペイカ・プロジェクト》(2014年)、エルミタージュ美術館エントランス広場、2014年8月筆者撮影

フランシス・アリス《ラーダ・コペイカ・プロジェクト》(2014年)、エルミタージュ美術館エントランス広場、2014年8月筆者撮影

【図2】フランシス・アリス《ラーダ・コペイカ・プロジェクト》(2014年)、統合参謀本部内ドキュメント展示、2014年8月筆者撮影

しかし、モスクワを目指したそのロード・ムービーの現実は、ドイツ国境を手前に、愛車ラーダがオーヴァー・ヒートを起こしてしまい、結末を迎える。彼らは沈黙し、ベルギーへと戻っていった。《ラーダ・コペイカ・プロジェクト》の映像の中で、彼らがかつて所有していたものと同じ色のオリーヴ・グリーンの車は、モスクワではなく、ペテルブルクの街や宮殿広場を駆けめぐる。今回の実現された夢もまた、エルミタージュのエントランス前の樹に激突し終わりを迎える ※5。このように、夢の記憶とその実現は、車の激突としてやはり頓挫せざるをえない。挫折とともに旅の結末を迎えるアリスのこの作品は「ありえたかもしれない出来事をめぐる夢の記念碑」として記憶されるのではないだろうか。その意味で、今回の組織者側の夢の実現をも象徴しているように思われる。

2. 進行中の現実との葛藤

今回の「マニフェスタ10」を振り返るときに、忘れてはならないのが、この開催そのものが、現実の出来事に大きく左右される事態になっていたことである。ご存知のように、準備期間中、2013年には「ゲイ・プロパガンダ禁止法」が制定され、会期前の2014年はウクライナ問題が起き、ロシアによるクリミア併合へと至った。

この法律の影響として、「マニフェスタ10」をボイコット、あるいは開催場所の変更ということも取り沙汰されたものの、主催者側はあえて議論を巻き起こすことを選び、予定を変更することはなかった。その代わりに、限られた範囲だが、作品の選択と展示によって、ささやかなキュレーター側の意思表示を行なっている。

今回エルミタージュのマティスの《ダンス》《音楽》(1910年)は、完成したばかりの分館であるかつての統合参謀本部の建物へと移された代わりに、その部屋には、身体表象、セクシュアリティやジェンダーをテーマにした三人の女性作家の作品が展示されていた ※6。このような展示室の交換の意図は、少なくとも、人の流れを新館へと誘導する意味では、成功していただろう。

マティスの作品があった部屋の展示では、月並みだが、やはりマルレーネ・デュマスの《偉大な男たち》(2014年)に言及したい【図3】。これは紙にインクで描かれた16人の男性、特に文化・社会分野での著名な同性愛者たち、またヘイト・クライムの犠牲となった人々の肖像画である【図4】。紙にインクと鉛筆で描かれたその肖像は、犯罪者たちの正面から撮られたマグ・ショットをも思わせる。これは、先の「ゲイ・プロパガンダ禁止法」の成立により、性的マイノリティという存在自体が、違法と見なされる可能性を危惧したことをきっかけに、デュマスが制作したものだ。今の法律を厳格に適用するならば、18歳以下はこの作品を目にすることが違法となるだろう。ホモフォビアの傾向が強いといわざるをえないロシアで、この新作が政治的論争を引き起こしかねない状況の中公開されたことは、重要な問題提起であったといえる。

マルレーネ・デュマス《偉大な男たち》(2014年)、エルミタージュ美術館内展示、2014年8月筆者撮影

【図3】マルレーネ・デュマス《偉大な男たち》(2014年)、エルミタージュ美術館内展示、2014年8月筆者撮影

【図4】マルレーネ・デュマス《セルゲイ・エイゼンシュテインの肖像(偉大な男たちの一枚)》(2014年)、2014年8月筆者撮影

【図4】マルレーネ・デュマス《セルゲイ・エイゼンシュテインの肖像(偉大な男たちの一枚)》(2014年)、2014年8月筆者撮影

こうした性的マイノリティ問題とは別に、このマティスの部屋の作品たちは、20世紀初頭でも根強かった男性アーティストのインスピレーションとしての女性の身体表象の問題を転倒させようとしているようにも見える。ジェンダー・バランスをあえて度外視し、この部屋にあるのは、異なる三つの世代に属する女性アーティストたちによる、男性の肖像やヌード、女性イメージ、つまり、人間と身体である。ここで、「男性の偉大さ」や生身の身体は、女性アーティストの視点から捉え直される。かの女たちの描く人間の姿は、過去の美術史のなかに見いだされる「美」の規範としてのヌードの理想化や、身体の極端なデフォルメとは異なるものかもしれない。

なお、「マニフェスト10」開催前に起こったもうひとつの重大な出来事、ウクライナ問題については、ボリス・ミハイロフの写真作品《戦争の劇場、第二幕、タイム・アウト》(2013年)【図5】が描き出している。この作品はウクライナ騒乱の序章となった、独立広場/ユーロマイダンでのデモの様子を撮影したものである。2013年晩秋から始まったEU加盟の延期に対する抗議から、ヤヌコーヴィチ大統領退任、クリミア併合、ウクライナ東部での内戦状態まではあっという間の出来事だった。現在、ウクライナ内戦の停戦協定が結ばれ、とりあえずは履行されてはいるが、この作品を通して、2000年代初頭のオレンジ革命の舞台ともなった場所の意味と、こじれた問題の起源はいったい何だったのかを考えさせられることだろう。

ボリス・ミハイロフ《戦争の劇場、第二幕、タイム・アウト》(2013年)、統合参謀本部内展示、2014年8月筆者撮影

【図5】ボリス・ミハイロフ《戦争の劇場、第二幕、タイム・アウト》(2013年)、統合参謀本部内展示、2014年8月筆者撮影

こうして、マティスの大作を目当てにエルミタージュにやって来た人々は、冬宮内のあるべき場所にそれがないことに気づき、デュマスの作品で偉大な同性愛者たちについて知り、統合参謀本部でマティスを見ようとすれば、ミハイロフの作品でウクライナ問題について思い起こすことになる。

3. ペテルブルクの地域性/ロシアをめぐるステレオタイプ

今回のミニ企画、およびパラレル・イヴェントとして、ソ連期の地元レニングラードのアート・シーンの伝説的アーティストであったティムール・ノヴィコフ(1958-2002年)とウラジスラフ・マミシェフ−モンロー(1969−2013年)の作品がまとまって見られたことは、この街のオルタナティヴな芸術生活について思いを馳せるきっかけとなった。

ノヴィコフは造形作家、パフォーマーであるとともに、ソ連ロックのオールド・ファンにとっては懐かしいバンド〈キノ〉のメンバーとしても知られる。音楽やクラブ・シーンに結びついた彼の活動のあり方は、たとえば、近年亡くなったアメリカのマイク・ケリーなどとも比較され得るかもしれない。今回は、彼の出演するドキュメンタリー・フィルムとテキスタイルを用いた作品が展示された【図6】。ノヴィコフのテキスタイル作品は、ロシアではよく室内の壁にかけられている絨毯や、あるいはその薄い素材から籏を彷彿とさせるが、それぞれ風景画として構成されている。たとえば、《ピラミッド》(1989年)は、濃淡の違うオレンジの布を真ん中で張り合わせ、その縫い目がちょうと地平線をなしている【図7】。砂漠は無地のサテンのオレンジ色、空はドットの布地で、その地平線には小さな黒いピラミッドと太陽が描きこまれている。こうした縫い目で仕切られる布地の色彩分割は、スプレマチズム的な幾何学的構成を思い起こさせるだろう。だが、これはあくまで風景画だ。それも、ほとんどノヴィコフが実際に目にすることのなかった、写真でしか知ることのなかったであろう風景も含まれる。この作品が1989年に制作されたことを考えれば、ノヴィコフは時代の変化を予感しながら、愚直にもこれらの作品を世界に開かれた窓として描いたように思われてならない。

ティムール・ノヴィコフ連作《地平線》、統合参謀本部内コーナー展示、2014年8月筆者撮影

【図6】ティムール・ノヴィコフ連作《地平線》、統合参謀本部内コーナー展示、2014年8月筆者撮影

ティムール・ノヴィコフ《ピラミッド》(1989年)、<i>Manifesta 10: The European Biennial of Contemporary Art</i>, exh. cat., London: Koenig Books, 2014, p.120.

【図7】ティムール・ノヴィコフ《ピラミッド》(1989年)、Manifesta 10: The European Biennial of Contemporary Art, exh. cat., London: Koenig Books, 2014, p.120.

一方、マミシェフ−モンローは、ロシアで最初のドラァグ・クイーンとして記憶されるパフォーマンス・アーティストである。企画に関わったエカチェリーナ・アンドレイエヴァの記事によれば、当時のレニングラードの映画館でマリリン・モンローの姿が見られるようになったのは、80年代になってからだった ※7。おそらく、この銀幕でのモンローが、10代だったマミィシェフに強い印象を与えたことだろう。同時期、彼は高校時代に自分がヒットラーに似ているのではないかということを認識し、その後まもなく、モンローになることを選んだ ※8

今回の企画では、マリリン・モンローやジャンヌ・ダルクに扮装した写真や【図8、図9】、《悲劇的恋》(1993年)と題された連作が展示されたが、当然、シンディ・シャーマンや森村泰昌の仕事が思い出される。ただ、マミシェフ-モンローの肖像写真は、背景がないことが多く、その顔の正面性ゆえに、イコンに似ているといえるかもしれない。それは単に形式的問題だけでなく、神の姿というイメージが鑑賞者にもたらす情動をも意識させるだろう。

ウラジスラフ・マミシェフ−モンロー《マリリン・モンロー(素晴らしきモンローの人生より)》(1995年)Parallel Events: Manifesta 10, exh. cat., St. Petersburg: Hermitage XXI Century Foundation, 2014, p.51.

【図8】ウラジスラフ・マミシェフ−モンロー《マリリン・モンロー(素晴らしきモンローの人生より)》(1995年)Parallel Events: Manifesta 10, exh. cat., St. Petersburg: Hermitage XXI Century Foundation, 2014, p.51.

ウラジスラフ・ヴラジスラフ・マミシェフ−モンロー《ジャンヌ・ダルク(素晴らしきモンローの人生より)》(1995年)Parallel Events: Manifesta 10, exh. cat., St. Petersburg: Hermitage XXI Century Foundation, 2014, p.53.

【図9】ウラジスラフ・ヴラジスラフ・マミシェフ−モンロー《ジャンヌ・ダルク(素晴らしきモンローの人生より)》(1995年)Parallel Events: Manifesta 10, exh. cat., St. Petersburg: Hermitage XXI Century Foundation, 2014, p.53.

前者二人とともに見逃せないのが、ワシリーエフスキー島にある現代美術館エラータのギャラリーで開催されたアート・グループ〈青鼻〉(シーニエ・ノーシ)の個展であった。彼らはすでにいくつかの写真作品によって、ロシアを代表するコンセプチュアル・アーティストと見なされているが、今回の展示作品《偶然の一致》(2006年)では、雑誌『アート・イン・アメリカ』に掲載された写真から、単純に視覚的に似ている作品を選び出し、二つ一組として展示している【図10】。それらを見ると、芸術作品のオリジナリティが引用というよりは、むしろ「偶然の一致」としか考えられない、奇妙な相似に支配されていることが明らかにされている。ペアになっている作品を制作した作者それぞれは、お互い接点をもっていなかっただろうし、先行者のイメージを引用するには、物理的に不可能だったとも想像される。この展示行為によって、彼らはオリジナリティの神話に疑問を投げかけるが、それは盗作という現象を指摘するというよりも、どこかユーモラスな笑いを誘う。というのは、彼らの作品がつねに、ロシアをめぐるある種のステレオタイプ的な象徴を引用しつつパロディ化しているからだろう。その笑いは、基本的に自分自身をも笑うものである。これによって、シーニエ・ノーシは、鉄のカーテンに遮られていたことによって独自性を獲得したと思われがちな「ロシア・コンテンポラリー・アート」という神話さえも解体することだろう。アート関係者が考えるような「ロシア・コンテンポラリー・アート」などはけっして存在したことはなく、それらのイメージはすでに『アート・イン・アメリカ』の中にある ※9。《偶然の一致》は芸術をめぐる地域的特殊性やステレオタイプをめぐる問題を転倒してみせる。こうして、レニングラード/ペテルブルクの伝説的アーティストたちの作品によって地理的・歴史的問題と芸術作品との関わりを思い起こすのと同時に、鑑賞者の抱くそうした過去へのノスタルジアはシーニエ・ノーシの作品によって破壊されるのである。

〈青鼻〉《偶然の一致》(2006年)、エラータでの展示(右下にマミシェフ−モンローと森村の作品が対比されている)、2014年8月筆者撮影

【図10】〈青鼻〉《偶然の一致》(2006年)、エラータでの展示(右下にマミシェフ−モンローと森村の作品が対比されている)、2014年8月筆者撮影

4. エルミタージュをめぐるもうひとつの記憶

エルミタージュ美術館という空間を活かした、目をみはるような作品展示については、たとえば、ゲルハルト・リヒターの《エマ、階段を降りる裸婦》(1966年)が、ちょうどツァーリの玉座の真裏に展示されたことなど枚挙にいとまがないが、今回の日本人参加アーティストのひとりである西野達はエルミタージュ内の部屋の一室に、その部屋にもともと存在するシャンデリアを利用し、ソ連時代の部屋をインスタレーションによって再現した。そのインスタレーションは、既存の建築や設備には手をくわえることなく、別の空間を現出させる疑似建造物/インスタレーション設置という意味で、非常に興味深い。

一方、森村泰昌は大祖国戦争のレニングラード包囲(1941-1944年)の際に、エルミタージュの誇る名品が一時的に疎開されたという歴史的事実に基づき、作品『エルミタージュ1941-2014』(2014年)を制作している。今回、森村は作品が運び出される際のエルミタージュを描いた画家ヴェラ・ミリューチナによる1942年のドローイング、同じく歴史画家ヴァシリー・クチモフの作品から着想を得て、2人に扮装し、戦時下における作品なしの美術館という忘却された歴史の一コマをテーマとした ※10。かの有名なレンブラントの《放蕩息子の帰還》(1666-68年)が置かれたエメラルドグリーンの壁の部屋や、バロック絵画がひしめく部屋に展示されていた写真作品は、ひっそりと置かれていたため【図11】、観光客たちの多くは、森村のこれらの作品にわざわざ足を留めることはほとんどなかったように見えた。そのスケールと展示は、この輝かしい美術館の現在からは忘却されがちなかつての歴史的出来事を象徴しているかのようである。

森村泰昌『エルミタージュ1941−2014』(2014年)、エルミタージュ美術館内展示、2014年8月筆者撮影

【図11】森村泰昌『エルミタージュ1941−2014』(2014年)、エルミタージュ美術館内展示、2014年8月筆者撮影

最後に、森村が作品の中で言及しなかったもうひとつのエルミタージュをめぐる歴史的出来事について触れておきたい。それはレニングラード包囲以前に、エルミタージュが1917年に勃発した二つの革命を発端とする内戦、ロシア革命から戦時共産主義の時代の混乱をも、生き延びてきたことである。革命初期から、エルミタージュとロシア美術館の運営に力を尽くした批評家ニコライ・プーニン(1888—1953年)は、1919年、エルミタージュで現代/同時代の美術作品の展覧会を企画し、パーヴェル・フィローノフの連作いわゆる《世界的開花》を展示した ※11。この冬宮での最初の同時代美術の展示企画を「マニフェスタ10」の運営者は、今回の先例としてはっきりと意識している。芸術祭開幕の日付6月28日は、プーニン企画による展覧会の閉幕日に重ねられているのだ ※12

2014年の横浜トリエンナーレで展示された作品《Moe Nai Ko To Ba》(2014年)に掲載された詩「レクイエム」(1963年)を創作した詩人アンナ・アフマートヴァのパートナーでもあったプーニンは、『コミューンの芸術』誌(1918-1919年)に積極的に寄稿し、タトリンの「第三インターナショナル記念塔」についていち早く論評したことでも知られる ※13。その彼が1919年にエルミタージュで同時代作品による展覧会を企画した意図とは、どのようなものだったのだろうか? これもまた、もはや忘却された記憶のひとつといえるかもしれない。だが、この展覧会や他の芸術批評活動を通して、プーニンが目指したものとは、ロシアの伝統からは異質にも見える当時の芸術作品もまた、エルミタージュという美の殿堂へ、その歴史へと接続されうるという、同時代の芸術を愛する批評家の倒錯した願いだったということもできる。そうして、プーニンの先駆的な試みは、「マニフェスタ10」へと引き継がれた。

「マニフェスタ10」が想起させるのは、エルミタージュ250年の栄光と、この美術館とコレクションが幾度の困難を生き延びたという事実であろう。ともあれ、この芸術祭によって記念されねばならないのは、歴史の重みと同時に、挫折や困難とともに実現されてきた「いま・ここ」を表現しようとする試みだといえる。それは「集団的動員」や「プロパガンダ」の起源として言及される祝祭へのステレオタイプから遠く離れた、芸術作品が現出させる、またキュレーターたちの、そしてこの出来事に鑑賞者として参加した人々による個別的な経験としての「いま・ここ」にほかならない。

江村 公(大阪市立大学)

[脚注]

※1 Kasper König with Emily Joyce Evans, “Manifesta without a Manifesto", in Manifesta 10: The European Biennial of Contemporary Art, exh. cat., London: Koenig Books, 2014, p.28.

※2 Mikhail Piotrovsky, “Crosses Over Manifesta", in Manifesta 10, exh. cat., p.9.

※3 Francis Alÿs, “The Story", “The Story of Journey", in Manifesta 10, exh. cat., p.16

※4 Ibid.

※5 なお、アリスはこの車のクラッシュについて「ユートピアの終わりの祝福する」と述べていることは興味深い。Ibid., p.168.

※6 1953年生まれのマルレーネ・デュマス、1965年生まれのニコール・アイゼンマン、1919年生まれ、2014年に亡くなったマリア・ラスニックの3人である。この3人のアーティストの作品について詳しくは以下。Silvia Eiblmayer, “Disturbing the ‘Universe'; Maria Lassnig, Marlene Dumas, Nicole Eisenman on show at the Hermitage" in Manifesta 10, exh. cat., p.82-89.

※7 Ekaterina Andreyeva, “A Thousand Words about Vladislav Mamyshev-Monroe", in Manifesta 10, p.178.

※8 Ibid., p.181.

※9 Alexander Shaburov, “Random Coincidences", in Parallel Events: Manifesta 10, exh. cat., St. Petersburg: Hermitage XXI Century Foundation, 2014, p.244.

※10 この森村の作品は、彼自身がキュレーターを担当した2014年横浜トリエンナーレでのメルヴィン・モティ《ノー・ショー》(2014年)を踏まえている。モティはレニングラード包囲の際のこの出来事から、作品不在のギャラリー・ツアーを映像作品で再現した。「消滅美術館」という横浜トリエンナーレのテーマについては以下を参照。森村泰昌「〈忘却〉をめぐる三つのエピソード」『ヨコハマトリエンナーレ2014』(平凡社、2014年)、281-300頁。ロシアとの関わりから森村の作品を別の角度から捉えるならば、彼が釜ヶ崎でのレーニンに扮した作品《なにものかのレクイエム(夜のウラジーミル 1920.5.5-2007.3.2)》(2007年)と合わせて、再考する必要があるだろう。森村が今もなお制作の拠点を置いている大阪とペテルブルクは1979年に姉妹都市協定を結んでいる。なお、インターファクスの配信によれば、森村は作品『エルミタージュ1941-2014』をエルミタージュに寄贈した。これらの作品は、大祖国戦争の勝利から70年を記念し、冬宮内に展示されることになっている。"Японский художник подарил Эрмитажу работы об истории музея в блокаду", http://tvkultura.ru/article/show/article_id/131614, 2015年4月18日閲覧。

※11 Ekaterina Andreyeva, “Incidents of Contemporary Art and the Hermitage", in Manifesta 10, exh. cat., London: Koenig Books, 2014, p.36.

※12 Ibid.

※13 現在、アフマートヴァの博物館として公開されている住居は、彼女とプーニンが過ごした場所である。プーニンは先鋭的な「未来主義」イデオローグとして知られていたが、ビザンチン美術や印象派絵画に親しみ、アフマートヴァやマンデリシュタームの詩を愛する当時の典型的な知識人でもあった。1921年の最初の逮捕で、彼は自身にとっての「革命の長編小説」の終わりを悟っていたとされる。1949年の2度目の逮捕以後、強制労働キャンプで亡くなった。彼の生涯については以下。Николай Пунин, сост., Л. А. Зыкова, Мир светил любовбью: Дневники, Письма, М.: Арист, 2000.